パリの聖月曜日 19世紀都市騒乱の舞台裏(序文、第一章)

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パリの聖月曜日 19世紀都市騒乱の舞台裏
喜安朗 著
2008年3月14日 第1刷発行
 
19世紀前半のパリは、増大する人口と近代に特徴的な社会の流動化とを制御するに足る政治社会の多様なシステムがほとんど欠如していた。都市騒乱の形をとるストライキ運動や結社の運動、それらはシステムの欠如による危機の表現でもあった。
 
19世紀に入ってパリを取り巻く市壁は高さ3.3メートルの石造りの堅固な壁であり、人々も物資も、この市壁の各所に設けられた60ばかりの市門からしか出入りできなかった。そこではパリに入ってくる生活必需品に入市税がかけられた。
当時のフランスの他の都市でも同様であったが、パリにおいては、この間接税の住民一人当たり負担が、著しく高いものになっていた。
それは大衆消費税だったが、その中でも特にぶどう酒に課せられるものがその最たるものであって、その品質に関係なく、その量に比例されて徴収されていた。だから大衆向けの酒は価格の80%が税に当たるようになっていた。
そのため、市門の外側に非常な勢いでガンゲット「関の酒場」が発達した。そこで税金のかからない安い酒や食事をすることができた。
そういったところで、日曜日は家族のため、そして月曜になると仲間と痛飲する「仲間の日」となった。
 
パリにおいて外敵を防ぐための城壁は、1670年にルイ14世がパリの開放都市化を宣言してから築かれることはなかった。
1841年には「徴税請負人の壁」の更に外側に、さらに城壁の築城が開始された。これがパリの新たな境界となる。これはパリ市民の間には、パリの民衆争乱に備えるものではないかという疑惑が生まれた。ブルジョワたちによる労働者への束縛とみなしていたのではないか。
 
1830年から1833年にかけてのパリのストライキを拡大させるための集会は、必ず関の酒場で、日曜か月曜に行われていた。