柳田国男と民俗の旅

柳田国男と民俗の旅

松本三喜夫 著

吉川弘文館 発行

平成四年九月二十日 第一刷発行

 

Ⅰ 柳田国男の小さな旅

一 野火止・清戸への旅

野火止は現在の埼玉県新座市、清戸は東京都清瀬市

 

野火止では次の三つのテーマに話が及んだのでは?

・産業組合の問題

・土地改良の問題

・土地と小作の問題

 

柳田が清戸の強清水伝説(泉の水が酒だった伝説)に関心を寄せていった理由

・武蔵野の歴史究明への関心

・伝説研究への関心

 

二 内郷村への旅

大正七年(1918)、柳田国男が中心となって郷土会の会員と実施した相州内郷村(神奈川県相模湖町)の調査

 

柳田の内郷村農村調査は、今日では民俗学創世期の先駆的調査として位置づけられるが、柳田の気持ちの上では、まだ民俗学を意識しておらず、むしろ依然として農政学の展開を考えていたといえる。

 

柳田は内郷村の正覚寺を離れるにあたって、「山寺や葱(ねぎ)と南瓜(かぼちゃ)の十日間」という句を詠んだ。

調査期間中の食事の内容を詠んだものだが、そこには現代文明に浸潤される山村姿があり、食糧問題があった。

 

三 対馬への旅 漂着の島

柳田の対馬に関する記述は、朝鮮人の往来、猪の泳力、方言の分布、漂着神、うつぼ伝説、巫女とその関心事のいずれもが海に関りを持ち、漂着、あるいは漂泊という視点から見据えている。

 

Ⅱ 柳田国男の大きな旅

一 椎葉村への旅と『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』の世界

柳田が実際に椎葉村の農業を見て、新たに関心を惹起されたのは、椎葉村は山間部にあるがゆえに平地が少ないにもかかわらず、水田耕作に力が入れられていることであった。

椎葉村焼畑を主としながらも米作を志向している農民の姿は、平地的米作一辺倒への画一的農政や農政の自律的営みを無視していることへの疑問と不信を意味していた。

 

柳田は焼畑農業に関心をもって椎葉村を訪れたが、中瀬淳の影響もあって次第に椎葉村に伝わる狩猟の習俗に心を奪われていった。

 

柳田の椎葉村への旅は、新たな農政学への有り様に思いを巡らされるとともに、民俗学模索への始まりを意味していた。

 

二 附馬牛村への旅と『遠野物語』の風景

遠野物語では、主として上閉伊郡の村々が昔話の対象になっているが、この稿では、陸中の霊峰早池峰山の南面に広がる附馬牛村を対象とする。

 

『老媼夜譚』は佐々木喜善辷石(はねいし)タニという老婆から聞いた話をとりまとめた作品である。

辷石タニはそこに書かれた昔話の他に、まだ沢山の話を知っていたが、「タニは近頃喋ることを嫌った。喜善が自分の話を取り纏めて金儲けをしていると噂する者がいた」からだった。

 

Ⅲ 柳田国男と今昔の人々

一 岡田武松と柳田国男 『北越雪譜』と『利根川図志』

北越雪譜』は越後塩沢の商人鈴木牧之の手に成り、天保六年(1835)に初編発行

この中で、日常茶飯事的に繰り返される雪との戦い、雪の中の人々の生活を描く。

 

安政五年(1858)赤松宗旦が『利根川図志』を著す。

 

この二書がほぼ時を同じくして岩波書店から刊行される。

北越雪譜は昭和11年刊行で、校訂は気象学者の岡田武松が行う。柳田の大きな助力が想定される。

利根川図志は昭和13年刊行で、校訂は柳田国男が行う。岡田の北越雪譜が大きな影響を与えた。

 

二 早川孝太郎柳田国男 『大蔵永常』考

早川孝太郎が大蔵永常をまとめあげる。

 

三 菅江真澄柳田国男 高志路の旅

菅江真澄の旅の中で空白になっている高志路(今の新潟県)の動向について