ラファエッロと古代ローマ建築 教皇レオ10世宛書簡に関する研究を中心に
ラファエッロと古代ローマ建築
教皇レオ10世宛書簡に関する研究を中心に
小佐野重利 編
小佐野重利、姜雄 翻訳・注解・解説
平成5年11月25日 発行
ラファエッロの教皇レオ10世宛書簡の翻訳および注解です。
美術史専攻の編者と技術史専攻の共著者により、専門的で詳しい注解となっています。
テクスト注解
この書簡からは、1514年8月の時点でラファエッロが、特にウィトルウィウスの『建築10書』を基にした理論的研究、および建築遺跡そのものの考古学的実施調査を通して、古典古代建築の研究に取り組んでいたことがうかがえる。p24
ゴート族は475年にイタリアに侵攻し、かれら以前にイタリアに進入していた、ヴァンダル族を含む蛮族たちの上に君臨した。しかし553年にナポリで敗退すると、その部族的統合を維持できなくなった。p29
教皇レオ10世による「都市ローマの復興」事業及びその理念
政治的には古代ローマ皇帝の後継者の資格においてイタリア「国民」の精神的および世俗的君主である教皇自身が推進するいわば「ローマ帝国の刷新」計画p33
1490年代のドムス・アウレアへの画家たちのピクニック以前に、ルネサンスの芸術家たちが古代ローマ絵画の大規模な作例を目にすることはほとんどなかったように思われる。
それゆえ、当該書簡における古代絵画に関するラファエッロのようなかような見解は、おそらく文献もしくは彼自身の鋭い様式的観察から導き出されたものであろう。p42
イタリア中世およびルネサンスには北海およびバルト海からアルプス以北の広い地域に居住するドイツ語を話す人々をさす形容詞tedesca(ドイツ)
この地域とイタリアとの地理的な距離からくる当時の緊密な交易および文化交流関係を勘案するに、ここにいうドイツの建築様式とは、おおむねゴシック建築を意味しているととってよい。p44
ゴシックの尖塔アーチが自然から、すなわち原始人もしくはゲルマン族の木による初歩的な建物から誕生したとし、少なくともその構築行為において建築にとって重要な「比率」の初歩的閃きを有するとして、その構造的論理性を指摘している。p45
磁石の指極性について述べられた現存するヨーロッパ最古の記録は、1190年のアレキサンダー・ネッカムの二論文「事物の性質について」「用具について」である。p46
アストロラーベは、円盤と腕尺を組み合わせた天体の高度測定儀である。
アストロラーベは古代から知られており、プトレイマイオスによって記録されたアストロラーベには、天体の黄道座標を直接読み取るための工夫までされていた。p49
ラファエッロらによって当初レオ10世への私信報告の形で始まった古代ローマ市の建築調査結果が、次第にルネサンスの新しい建築理論書の類の出版構想へと膨らんだことを両写本の当該部分からの記述から推察しうる。p59
解説1
古代建築の「美しい形態」の探求者ラファエッロ
ラファエッロがその最晩年にローマの古代遺跡を測量調査して、レギオン毎に分けた古代都市ローマの復元地図の制作に従事していたということ、それ故教皇レオ10世宛の書簡草稿はその恐らくは未完に終わった企画に言及した一次史料であるということである。p89
ラファエッロがサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命されたのを契機に、「古代建築物の美しい形態を発見したい」と高尚な思惟を抱いて飛び立つ決意を表明していることである。しかしそれが「イカロスの飛翔に終わるやも知れない」と危惧しながら。
さらに特筆すべきは、古代建築、むろん帝政期ローマの古典建築の美しい形態の発見に文献として「ウィトルウィウスの著作が大きな光明を投じてくれますが、それでも十分とは言い難い」と断言していることである。これは明らかにラファエッロがウィトルウィウスの著書の精読に取り組んでいたことを示唆する。p92
ウィトルウィウスの正確な翻訳注解に始まり、古代建築遺跡の発掘、測量調査を経て、その成果を、あるいは古代都市ローマを建築モニュメントで構成した地誌図にあるいは個々の古代建築の平面図、正投象の立面図、断面図、および透視図法による建築景観図のセットに作成し、最終的に「新しい建築理論書」へと編集するという、この遠大な計画は、それ以外の仕事に忙殺されるラファエッロにとって、その当初から不可能に近いものであった。p120
解説2
ラファエッロの測量儀の使用法と測量儀の歴史的発達
地中海世界では、ギリシャ以来の8つの風の方向で方位を示す習慣が普及していた。p169
15世紀初頭の羅針盤は、乾式と湿式の2種類のものが製作されていた。
軸受に精巧な細工を必要とする乾式に比べて、湿式は水で満たした容器の中の浮きに結び付けた磁針を回転させる方式であった。
乾式は風の影響を受けやすいため、磁針を円筒形の物の中に置き、その上から雲母、またはガラスなどの透明なふたを使って覆うのが通例であった。p171
テクストの「1度」の二つの解釈
一つは目盛りを作成するにあたって、真北を(0度ではなく)1度として数を数え始めた、のか
ラファエッロが測量術を勉強するにあたって、磁石の偏角(磁針が真北から少しずれた方向を指すこと)の知識をえて、それに関する補正を行ったものと、と考えることもできる。p172
教会堂は主祭壇を東に、入り口を西に向けて建てられる。一部には磁石を使って方位を定めたという意見もあるが、イギリスの中世の教会堂700を測量した結果は、東から10度北を平均として±14度程度の標準偏差を示している。
これは、東西方向を天文学的手段で定めたものではなく、建設開始時季の日の出の位置を見定めて基礎工事を行ったことを示すと判断されている。建築家による磁石の採用が遅かったことがわかる。p177
印刷術の普及以前には、精密な測量器具は国家の保護を受けた天文学者など一部の人間のものであった。測量器具をはじめとする化学器械は、その動作原理を理解した天文学者によって製作されていた。
しかし、印刷の普及とともに中世以来復興したギリシャの数学、天文学の知識が伝播するにしたがって、さまざまな器械の動作原理が広く伝えられ、それに対する需要が増大した。ここで、化学器械を専門に製作する職人が生まれ、同じ型の器械が大量に製作されるようになった。p189
ラファエッロの測量儀の使用は、方位を確定することにのみ使われている。また、水準測量は一切行われていない。
さらに、建物の壁面の長さなどは、すべて歩測で求めているのである。p191
羅針盤を採用することで、壁面の絶対方位を決定することが出来るということが、ラファエッロの測量儀の基本的なアイディアであった。
この器具は、方位だけを測ることを目的としており、その点で、16世紀を通じて発達した三角法のための測量儀とは基本的に使用法が異なる。
測量儀の形態の類似性ではなく、測量法の類似性からすると、ラファエッロの測量儀は、平板測量の祖先であったと評価できる。p209