パリとセーヌ川 中公新書

パリとセーヌ川 中公新書 表紙

 

パリとセーヌ川
小倉孝誠 著
中公新書 1947
2008年5月25日発行

本書はパリを中心としながらも、その上流と下流にも目を配りつつ、セーヌ川を舞台に繰り広げられられた生活、習俗、文化を歴史的に跡づけ、ジャーナリスティックな言説、文学、絵画、版画などがセーヌ川をめぐってどのような表象を提示してきたかを探ろうとしています。p7

プロローグ
フランスには大河(フランス語で「フルーヴ」[fleuve])が五つある。セーヌ川、ロワール川、ローヌ川ガロンヌ川、そしてライン川である。p4

フランス史の領域では、1789年のフランス革命勃発から1914年の第一次世界大戦までの120年余りを、巨視的に19世紀と捉える見方が一般的である。p9

 

近代パリを論じ、語った言説の範疇
・ジャーナリスティックな文章
この種の著作では、タイトルの中に「タブロー」(tableau)という語を含む例が多い。タブローとは絵、情景、光景といった意味
・当時「社会観察者」と呼ばれた人々によって書かれた調査記録
マクシム・デュ・カンの『パリ、その構造と機能と生活』がその代表作
・観光ガイドブック「ギード」[guide]と旅行記、すなわち旅行者のために、旅行者の視点で綴られた言説
・文学作品
・絵画、版画、写真など視覚的にパリを表現した芸術

なせパリは語られたか
・当時のパリが急速に変貌していた。首都が変わるからこそ首都について語らなければならない。
・19世紀においてパリがさまざまな価値の温床と見なされるようになった。

 

第1章 川を通過する
パリは19世紀にいたるまでフランス最大の港の一つだった。
かつては河川と運河により、水上交通が陸上交通よりもはるかに効率的だった。

日本の河川はヨーロッパの河川と比べて、細く急峻なだけでなく、川の最小流量に対する最大流量の比率「河況係数」が際立って高い。交通・運輸には適していない。p19 

可動堰の発明は、パリ市内のセーヌ川の航行を安定化したという意味で決定的だった。川の流量に関係なく水位を上げて一定の高さに保ち、恒常的な水深を確保できたので、かなり大型の船舶でも季節を問わず市内に乗り入れ可能になった。p24

セーヌ川の航行を整備、拡大し、最終的にはパリを大規模な海港と較べてても遜色ない港にすること、それは決して根拠のないユートピアではなかった。
「パリ、海港」という神話的構想は、長い間にわたってフランス人の脳裏に宿ってきた。

中世から近代にいたるまでパリのセーヌ川に架かる橋は少なく(18世紀末で九つ)人々はしばしば渡し船で両岸を往復した。p32

 

1830年代から40年代にかけてがセーヌ川の蒸気船の黄金時代だった。p40
1837年、パリ市内から、西郊サン=ジェルマン=アン=レーまで鉄道が開通した。旅行客はそこまで汽車で行き、近郊の村ル・ペックの桟橋から蒸気船に乗船することになっていた。
当時は蒸気船と鉄道が共存した平和な時代だった。p47

 

第2章 運河に生きる
イベリア半島を除いたヨーロッパ大陸は河川を運河化し、河川どうしを結ぶ運河を作ってきた。

児童文学の古典とされるエクトール・マロの『家なき子』(1878年)
ミリガン親子は大西洋から遠くない河口内港ボルドーを出発してガロンヌ川を遡り、トゥールーズ近郊でミディ運河に入った。そして地中海に出てからローヌ川に入り、リヨンまで北上してソーヌ川へと移り、再び運河を使ってロワール川、さらにはセーヌ川へと船旅を続ける。そしてセーヌ川の河口ルーアンに出て、イギリス海峡に抜ける。p64

首都パリも運河と縁の深い都市である。セーヌ川それ自体が運河化されただけではない。セーヌ川と他の川を、そしてセーヌ川の上流と下流を結ぶために、サン=マルタン運河、ウルク運河、サン=ドニ運河が設けられた。

 

第3章 川を楽しむ
セーヌ川を利用した王政期の祝祭、共和制時代の祭典、そして万国博覧会はいずれも中央政府が先導した国家的プロジェクトであった。
一方セーヌ川を舞台にした市民が誰でも実行できる活動、レジャーとして、釣り、水浴、船遊びがあげられる。

鉄道の開通と発展により、パリ西郊のセーヌ川沿いの町村は人気の高い行楽地になっていった。水辺がリゾート化した。
アルジャントゥイユ、シャトゥー、ブジヴァルなど、西部鉄道の沿線に位置する町。p121

 

第4章 川を描く
アルジャントゥイユ、シャトゥー、ブジヴァルは町自体に格別豊かな文化資源が残されているわけではない。
それにもかかわらずこれらの町の名が現代人に何がしらの郷愁を覚えさせるのは、モネやルノワールシスレーが描き、モーパッサンが数多くの短編小説の舞台にしたからに他ならない。

印象派の誕生と発展がセーヌ川の情景を表象することと密接に繋がっていたことは、あらためて指摘するまでもないだろう。光と水と大気を表現しようとした印象派は、セーヌ川を必要としたのである。p148

第5章 川に死す

 

第6章 橋を架ける
2008年現在、パリのセーヌ川に架かる橋は全部で37。
しかし18世紀末の時点においてパリのセーヌ川に架かる橋の数は現在に較べてはるかに少なく、その多くは中心部に集中していた。p204

橋の三種のカテゴリー
セーヌ川の中洲と両岸を南北に繋ぎ、いわば首都の主要な縦軸を形成していた橋
・都市交通のためというより、特定の用途にだけ当てられていた橋
・16世紀から18世紀の王政時代に建造された大規模な橋
首都の交通量を分散させるため、パリ市の予算ではなく王室の予算で造られた。

 

18世紀までのパリは中心部の橋の上には、住居兼店舗が軒を連ねていた。
しかし18世紀末、都市景観への好奇心が浸透し始めたと共に、大気や水が循環することが人体の健康と都市の衛生にとって有益であるという「大気循環論」が広く流布し、受け入れられるようになった。そうなれば、橋の上の建物は審美的にも衛生学的にも好ましからざる邪魔物にすぎなくなった。