柳田國男を読む

柳田國男を読む 表紙

 

柳田國男を読む
千葉徳爾 著
東京堂出版 発行
1991年6月28日 初版発行

とかく世間では難解とか要領を得ぬとか、あるいは結論がないなどと評されている柳田國男の書いたものを、なるべく読みやすく説明してみようという目的の本です。p1

柳田の文章の多くは、事実の記載と自らの推論を叙述するに止まって、結論を差し控えているために、今日の知識と状況をふまえて考えると、かえって意外な着想の妙と新たな展開の端緒とを、その行間に見出だすことが稀ではない。少なくとも思考すべき何かの問題を抱えている者にとっては、意想外の貴重なヒントが得られよう。p2

柳田は自分の文字使いにはかなりこだわるところがあり、ある語の濁音を清音とし、「居る」「居て」は「おる」「おって」と発音した。これらは生地播磨の方言で、「いる」「いて」とは発音せず、方言でわかる言葉はなるべくそのまま使うことを主張した人であった。p3-4

 

足袋と菓子
昔足袋を作ってもらった女隠居の臨終の間際に菓子袋をこっそりもって行く老人の話 

長尾宏也著『山郷風物誌』
この文の冒頭からの一、二、三…の区切りは、柳田がよく用いる文意の区切り方であり、それぞれの節は内容的に前節を受けて、新しい展開あるいは具体事例、もしくは注意すべき指摘などを行うためのものである。つまり連歌の形式によっている。p13

柳田は「実験」という言葉を「体験」の意味に用いている。p15

狗の心
柳田の動物行動についての観察記録の一つ

 

清光館哀史
大正15年(1926)の旅行記風の随想。その六年前の旧曆盆の月夜に柳田は佐々木喜善・松本信広を伴って岩手県小子内を通過し、「浜の月夜」として寄稿。大正15年7月~8月、八戸から南下、清光館を見ようとしてそれがすでに失われたのを知る。そこに柳田は人生の一端を感じて、その中での盆の意味を考えた。
没落してその形も無くなった旅館と、盆踊りの風景が、六年間という時空を超えて、幻想的に叙述されています。

清光館が石垣だけになって居るのを見て「浦島の子の昔の心持の、至って小さいやうなもの」が腹の底からこみ上げて来て、泣きたいやうな気分になる柳田さん。p52

柳田自身の思考法もしくは頭脳の構造が、何か一つの閉じた集合としての研究対象を、より深く追求してゆくという思考形式よりも、対象のいま一つ別の面をも考察してみる、あるいは対象とのかかわりとして現れてくる関連分野をも考慮に入れて考える、いわば開かれた集合として研究を拡張してみるという見方をするように、システム化されているということであろう。
これは自ら新しい研究分野を開拓してゆくのに適している。p57

盆踊も盆唄も、要するに祖霊を迎え送る儀礼であるとともに、この人生の重い節目の日に歓楽とともに哀愁を慰める心の憂さを表現する手段なのである。p65

 

金歯の国
大正15年頃の流行であった金の入歯を用いる風潮を批判

杉平(すぎだいら)と松平
杉平と松平の対比において注目されるのは、他の地方が展望できるか否か、つまり閉鎖的な生活に満足するか、それとも他の世界への志向をそそるものがあるかという点が注意されている。
柳田自身が常に遠くを眺める思考に富んでいたことを考えねばならない。彼は13歳の時、郷里福崎の山から瀬戸内海を望んで、大きくなったら世界の海を見て歩こう(「海女史のエチュウド」)と思ったのであった。p84

新たなる太陽
クリスマスと日本の大師講との対比

サン・セバスチャン
キリスト教の殉教者を語るまでに、狐や鹿が泳ぐこと、そしてその状況を狩りしたことなど無関係なような話が続く

 

女の咲顔(えがお)
柳田の平生の主張「今は昔ではない。昔と今は違うのだ」ということが基礎になっている。柳田のように明治初年の農村生活、それも関西のそれを体験した者が、第二次大戦後関東の都市生活までを振り返っての実感として、これは身についた考え方というべきである。p143

笑に対する咲は、内からえむ動きの表現らしいことがうかがわれる。つまり外から笑わせる対象あるいは力が働くのではなく、内面の心の表現という意味で用いた文字と思われるのである。p146

エムに悪意が伴わないのに対して、ワラフにはそれが伴うということは、読者自ら笑われる立場に身をおいてみればすぐわかる。ワラフのワラワレル側には必ず不快感を起こさせるからである。p148

涕泣(ていきゅう)史談
昭和16年、国民学術協会の求めに応じて行われた講演

 

作之丞と未来
従来の史学に対する一種の批判
秋田の学者人見蕉雨の記した『黒甜瑣語』という書からの話
天狗にさらわれた作之丞が、未来に戻ってきたという内容

感覚の記録
民族的感覚を示す記録としての言語表現について、事例をあげて述べている。

岡田蒼溟 著『動物界霊異誌』
おもてをゴマメ売りがゴマメゴマメと呼びながら通った。その後で障子の外に、誰だか小さな声でゴマメ、ゴマメという者がある。おかしいと思って開けて見ると、一人も人の影はなくて、縁側に家のねこがいるだけであった。p24

準備なき外交

 

柳田國男自伝
父の移り気な性格は私にも遺伝して居る。併しその御蔭に一生を幾つにも折って、常に新しく使うことの出来たのは、感謝しなければならぬと思って居る。p302

柳田國男の学問の基礎は自読によって得られた。彼は小学校を出てから18歳で第一高等中学(現東京大学教養学部)に入学するまで、ほとんどこの読書歴で過ごし、正規の学歴を経ていない。p306

「海南小記」は少年時代の志である「出世せねばならぬ。そして世界の海を見て歩こう」という望みの第一歩であった。ここに〈出世〉というのは文字通り播州の一農村から、広い世の中に出てゆくことである。海への希望がはじめに目指した商船学科→船長という形だったので、民俗学ではなかった。p309

 

ヒストリーを望むにはエスノグラフィー(民族誌)の樹蔭がよく、しかも其森の中のただ一筋の小路を辿らなければ、フォークロアの我家には還って来られぬことをこれも偶然に学ばざるを得なかったのである。p310

母から受け継いだ片意地と潔癖なども、世渡りの上には少しは不便であったが、これとても子孫が似てくれないことを願うほど、悪いものとは思っていない。p312
そうして自分の久しく子供らしかったことを、今もって後悔する気にはならない。それだから又下らぬことばかりして来たと思いつつも、案外元気よく活き続けて居られるのであろう。p313