カント先生の散歩 池内紀 著

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カント先生の散歩 池内紀 著 表紙

 

カント先生の散歩
池内紀 著
潮出版社 発行
2013年6月20日 初版発行

以前、池内さんの「消えた国 追われた人々 東プロシアの旅」という紀行文を楽しく読ませていただきました。その東プロシアから一歩も出なかった哲学者カント。自分は名前だけは知っていても、思想は全く知りません。それでも彼の半生をユニークなエピソードを織り込みながら、平易な文章で描いたこの本も興味深く拝読することが出来ました。
大学での争いや老いの描写は、池内さんの経験も反映されているのかと思うと、読んで切なくなる箇所もありました。

 

私のカント先生の紹介
1724年4月22日、革具職人の息子として、東プロシア(プロイセン)の首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれる。
1747年(23歳)ケーニヒスベルク大学卒業
1770年(46歳)ケーニヒスベルク大学哲学教授となる
1781年(57歳)『純粋理性批判』を出版。その後88年に『実践理性批判』、90年に『判断力批判』を刊行。
1795年(71歳)『永遠平和のために』を出版。 
1804年2月12日、79歳で死去。
p4

第二次世界大戦の終わりまで、たしかに東プロシアは実在したし、ケーニヒスベルクという美しい町があった。歴史の長さでは、
ケーニヒスベルク 約700年
カリーニングラード 約70年
p13

 

カントがイギリス商人であるジョゼフ・グリーンを知ったのは40歳頃と言われている。グリーン家を訪問し、議論した。
敏腕の商人は世情によく通じ、最新情報をいち早く手に入れていた。
カントについては、ひたすら哲学的思考の人と見られがちだが、まるきり違っている。名うての商人から口伝えに、刻々と変化する現実社会を知らされ、最新情勢に基づいて「先を読む」コーチを受けていた。ディスカッションという個人教育を通して、厳しい訓練にあずかった。
またカントはグリーンの商会に投資し、相当の資産を蓄えることができた。p45

カントは俗にいう「遅咲き」の人だった。46歳にして、ようやく母校ケーニヒスベルク大学哲学科教授になった。主著は57歳、64歳、66歳にして世に問うた。
また住居に関しても遅咲きで、自宅を入手したのは59歳の時だった。

 

カント先生は旅行記が大好きで、自分はケーニヒスベルクからほとんど出ず、東プロシアからは一歩も出たことがなかったが、他国のことをよく知っていた。とりわけイギリスに詳しく、ロンドンの通りや広場や橋を、まるで昨日ロンドンから帰ってきたばかりのように言うことができた。p56

ゲーテの『ファウスト』第二部出だしの「玉座の間」では、皇帝を囲んで幹部たちが頭を抱えている。国庫が底をつき、もはやなすすべがない。このとき天文博士の口を借りて悪魔メフィストフェレスが、とっておきの「錬金術」をささやきかける。手っ取り早い金の作り方。いたって簡単であって、新しい紙幣をどしどし出せばよろしい。p113-114
(現代のどこかの国のような話ですね)

目的をとげさえすれば、圧倒的な力に対して膝を屈しても不名誉ではない。そもそも膝は、ときに折り曲げるためにある。p136