ハンザ「同盟」の歴史 中世ヨーロッパの都市と商業

ハンザ「同盟」の歴史 中世ヨーロッパの都市と商業 表紙

 

ハンザ「同盟」の歴史
中世ヨーロッパの都市と商業
高橋理 著 
創元社 発行
2013年2月20日 第1版第1刷発行

自分とハンザとの出会いは、エストニアのタリンに行った時でした。昼ごはんを食べた中世風のレストランがOlde Hanzaという名称でした。タリンもハンザの一員だったのか、と思った記憶があります。しかしこの本ではタリン(当時はレーヴァル)はほとんど出てきません。
この本自体はハンザの総合的な通史です。その中でも特に中心都市であったリューベクに対する、著者の研究対象を越えた深い愛情を感じます。

 

序章 ハンザ「同盟」とは何か
1 中世ヨーロッパの都市と商業
中世の南方の地中海貿易の取扱商品は各種の異国的で珍奇な商品
ハンザ商業の舞台であった北方貿易は主として生活必需品
2 ハンザのなりたち  
ハンザの基本的な意味は「団体」 
ハンザ全体に共通する同盟条約締結はなかったから、その結束は自然発生的で、要するに経済的利益共同意識に駆られて、国際法的行為の媒介なしに成立した。p30
ハンザは国際法上の同盟でもなければ、団体法上のギルドでもない。それでは何かといえば、歴史上ただ一回限りのユニークな存在であったと答えるほかない。p31
史実として、「ハンザ」が制度的に明確化する場所は、ドイツではなく、当時の経済的先進地であるフランドルにおいてであった。p32

 

第1章 ハンザの前史 
1 ハンザ商業展開の前夜
2 リューベクの建設
第2章 商人ハンザの時代
1 ハンザ史の時代区分
12世紀頃から14世紀中頃までが商人ハンザの時代
14世紀中頃からハンザが事実上姿を消す17世紀までが都市ハンザの時代
2 ドイツ商人のバルト海進出
ドイツ商人がバルト海を越えてロシアまで赴いた具体的な目的は毛皮
3 バルト貿易初期の様相

4 北西ヨーロッパ貿易初期の様相

 

第3章 都市ハンザの成立
1 バルト海岸諸都市の建設 
2 リューベクの発展
3 自然発生の都市連合
4 北方都市同盟の発生
5 対デンマーク戦争と都市ハンザの確立
デンマーク戦争を契機として東西の連携が実現したことはやはり重大
またシュトラールズント条約がハンザ勢力の頂点を示すことにも変わりがない。
同条約以後はハンザは膨張的野心を抱かず、既得権維持のための守旧政策に転じたという真相 p109

 

第4章 一四世紀前後のハンザ貿易 
1 ハンザのスカンディナヴィア進出
2 バルト貿易の進展
3 フランドルの情勢
4 イングランドにおけるハンザの経済進出
イタリア商人はイングランド貿易で占めながら人数が意外に少なく、ハンザ商人は貿易量は少ないのに参加商人数が多い。p126

 

第5章 ハンザの機構および貿易と都市の態様
1 ハンザ総会
成員相互の意思疎通のための機関はハンザ総会のみ
2 ハンザの中央機構
ハンザ加盟者の権利は何よりも海外におけるハンザ特権、つまり低関税、自由通商、居住権等の諸権利を享受できること。p136
ハンザの中央機関として存在するのはハンザ総会のみ。
ハンザの事務はリューベクのラート(市参事会)がとったに過ぎない。p137
ハンザの中央財政は不備だったが、財源としては、商人の商活動を課税対象とする方法と加盟都市ごとの分担金 p138

3 ハンザの外地商館
ロンドン、ブリュージュ、ベルゲン、ノヴゴロドの四大商館を「商館(コントール)」と呼び、他を「支所(ファクトライ)」と呼ぶ。p143
ロンドン商館(スチールヤード)
ブリュージュ商館
リューベクの比重が低かった。
ロンドンと違い、ハンザの建造物も敷地もなかった。
ヨーロッパ随一の先進地だった。
ベルゲン商館
独身の男が粗末な木造家屋に集団で暮らしていた。
リューベクが優位を占めていた。
ノヴゴロド商館(聖ペーター・ホーフ)
聖ペーター教会が商人活動全般の中心として極度に重要
現地ロシア人に対してハンザ商人が徹底した不信を示す。

4 ハンザ貿易の態様
・冬期航海禁止の慣習
スウェーデンデンマーク間にあって北海・バルト海を繋いでいるズント海峡の航行問題
・陸路、特にハンブルク・リューベク間の重要性
船舶共有組合
一隻の船舶を複数人の出資によって建造し、出資の割合に応じて持分とし、航海から生ずる利益を持分の大きさに応じて配分 p158
ハンザの商業活動は堅実である反面、信用経済を発達させようとする大胆さに欠ける。その結果、南方の地中海貿易で発達した銀行・保険業はハンザ圏ではほとんど発達しなかった。p161

5 中世ハンザ都市リューベクの完成
1375年神聖ローマ皇帝カール四世のリューベク訪問

中世都市の市政を担当したのは、ラートと呼ばれる一握りの有力者
その中の何人かが市長(市長は複数で存在)となった。

中世ヨーロッパでは都市は田舎よりも衛生状況が悪く、ペストの流行は農村より都市の方が悲惨だった。p173

6 ゴシック都市リューベクの完成
中心教会が大聖堂ではなく、聖マリア教会という商人教会だというのがリューベクの性格
ローマ帝国崩壊後、街を維持したのは司教だったが、リューベクは古代文化の背景を欠く新開地に商業を目的として12世紀に建設された都市だったため、保護者あるいは支配者としての司教は存在しなかった。p177

聖マリア教会を名高くした18世紀前半の音楽家大バッハの逸話
この教会のオルガニスト、ディートリヒ・ブクステフーデにより、リューベクでの感動が大きく、休暇期間を勝手に延長してしまう。p181
ゴシックのみに終始したことはリューベクの歴史を理解する上で重要。全生命力を中世北方世界のために捧げ尽くし、果たすべき歴史的役割の一切を果たし終え、中世の終焉とともに歴史の舞台から退いたリューベクの生涯がそこに集約的に表現されている。p187
1942年3月28日、リューベクはイギリス空軍の爆撃を受け、聖マリア教会を含め市内の大部分が破壊された。しかし戦後のリューベク市民はゴシックの旧様式をそのまま再興した。p188

 

第6章 ハンザの衰退
1 中世末期のハンザをめぐる国際情勢
ハンザ勢力が極点に達してしまっただけでなく、ハンザに対する積極的な挑戦も15世紀には顕著になった。その根本原因として、各国における市民層=商人層の成長と、近世的中央集権国家の確立をめざす努力のはじまり p189
2 中世末期におけるハンザとイングランドの関係
3 オランダ商人との競争
オランダ人はハンザ側の妨害に関わらず、ズント海峡を積極的に活用した。
「公海」の観念がなかった中世においては海洋もしばしば土地を領有するのと同じように支配できると考えられた。p208
4 ハンザ内部の動揺

 

第7章 ハンザ諸都市の群像
1 ライン地方
ケルン
輸出産業都市で、リューベクの性格とは正反対
ゾースト
ケルン都市法に源を有するゾースト都市法を北のハンザ諸都市に伝える。
2 ハンブルク
今日でもなお正式に「ハンザ都市」と認められているのは、リューベク、ハンブルクブレーメンのみ
3 ブレーメン
ハンブルクはリューベクを助け常にハンザに協力的だったのに対し、ブレーメンはハンザの一員でありながら、その態度においてハンザに冷淡だった。
4 バルト海岸諸ハンザ都市
ヴィスマル
ロストク
シュトラールズント 
グライフスヴァルト
ロストクに次ぐハンザ第二の大学が1456年に設立される。
5 ダンツィヒ
6 リーガ

 

第8章 ハンザの末路
1 外地商館の没落
2 イングランドにおけるハンザ貿易の末路
3 ハンザ最期のあがき
ハンザ建て直しの試み
・ハンザ諸都市の群別再編成
・ハンザ官僚任命の試み
4 ハンザの滅亡
ハンザ連合勢力唯一の象徴的機関であるハンザ総会の最後は1669年
その年が通説ではハンザの終焉

 

終章 ハンザの文化遺産
「文化」を論ずる場合、文学、絵画、彫刻、音楽という部門のみを考えがちだが、ヨーロッパ文化史を論ずるにあたっては「都市」という芸術のジャンルを建てる必要がある。p272

著者としてはハンザ固有の文化的遺産として、17世紀に開花した北ドイツの教会音楽をぜひ挙げたい。p277