柳田國男 その原郷

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柳田國男 その原郷 宮崎修二朗 著 表紙

 

柳田國男 その原郷
宮崎修二朗 著
1978年8月20日 1刷発行
朝日選書 115

柳田(松岡)國男の辻川成育時代にとどめた、幼少年体験を綴っています。地図や写真もありますので、この本片手に辻川のある福崎町を探訪したくなってきます。ただ、四十年前ほどの本ですので、現在とはかなり街並みも変わっていると思います。
なお、著者は『故郷七十年』の口述筆記の作業に、わずかながら携わっていました。

旅の原点
十歳のとき、日光寺山に登る。その山頂が恐らくは柳翁にとって最初の旅の場だった。
初めて海を見る、といっても、五月の夏霞に遮られて、家島は見えたものの、ただ藍鼠色の、夢のかたまり見たようなものであった。p6

 

先祖の話
明治二十年にふるさとを後にして以後、帰郷したのは13回ほど。
展墓よりも氏神詣でがなぜ先行していたのだろう?
柳翁は仏教徒ではなかった。神道の家系に成育した者として墓に対する「死者崇拝」ではなく、氏神を通しての「祖霊崇拝」を重んじた人だった。p20-21 

明治三十年七月第一高等学校を卒業し、九月に東大に入学して、農政学を学ぶ。当時、東大では松崎蔵之助がヨーロッパ留学から持ち帰った農政学の講義をしていた。p33

 

辻川あたりの紀行文   
上田秋成の「秋山記」
羽倉外記の『西上録』 
天保十七年五月、水野忠邦の幕僚(納戸頭)として、江戸から生野銀山の視察に赴いた際のもの
姫路から市川沿いに北上
当時姫路藩の家老河合寸翁が設けた飢餓備蓄の「固寧倉」が出てくる。
國男は固寧倉についての質問を父に発したのではないか。135-136

 

くにょはんの幼年絵帖
〈春〉
若い酔っぱらいが、門の前で大の字になり、何かを怒鳴って動こうとしなかった。彼はしきりに「自由の権」という言葉を連発した。
それを聞いて以来、自由という言葉が嫌いになる柳翁。自由とは、本当の意味では我が儘を通すということでは?p153-154

くにょはん時代の言語生活は、言葉のしつけにきびしかった母の規制と、儒者であり平田篤胤の流れをひく国学者であった父の解説が、日常生活の中で施されていたこと。この二つが柳翁の学問の原郷の一部では?p171

 

〈夏〉
十歳の初夏、くにょはんは日光寺山の頂上から家島と帆掛船を見る。島影が藍鼠色の夢のかたまりにしか、とらえられなかった。
気落ちしながらも、くにょはんは幼心に確かな決意を固めた。
憧れの心情が、ようやくここで人生の目標という具体性を帯びた形を結びはじめた。p186-187

その三年後の晩夏九月一日、くにょはんはまさめに海に接する。
須磨に近い海辺だった。
西洋人が海水浴をして、女が裸になってサルマタみたいなものをつけて海に入っていく風景。p188

『定本』の総索引に当たると、柳翁の犬に関する記述項目の多さに目を見張る。幼少年期の犬に関わった体験にそれは無意識にしろ関わることなのだろう。p195

 

〈秋〉
くにょはん自身、神隠しに類した事件の主人公になった経験が三回もあった。
四歳の秋もかかりの季節、辻川の東南に当たる荒野の西光寺野の中の一本路を、南に向かってすたすた歩いていた。
それから三、四年後の秋、茸狩に行った時、神隠しにあったような心理にとらわれた。
やはり七、八歳の頃、青年のいたずらで突然連れ去られ、神隠しのような目にあった。

兄の通泰は二年おきに三、四回帰郷したが、その時ドイツの童話をくにょはんに話してくれたことがあった。あとで考えると、グリムのそれを原書で読んでいたものだった。p225