再考 柳田国男と民俗学

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再考 柳田国男民俗学 表紙

再考 柳田国男民俗学

播磨学研究所 編

神戸新聞総合出版センター 発行

1994年12月10日 第1刷発行

 

この本は1992年8月から11月にかけて開催された播磨学講座「柳田国男没三十周年をしのんで・三十年の光彩」をもとに構成したものです。

 

もともと峠は旅人の行く先を明示するようにお互いに呼び名が違っていたということも大いに考えられる。

モスクワのキエフ駅、レニングラード駅、パリのリヨン駅のように。p17-18

 

《海岸の的方(的形?)あたりを朝立ちすれば、十時ごろまでには鮮魚が届く所であるから、辻川の思い出には必ず魚売りたちが伴って想起される・・・》

この「故郷七十年」の回想風景は、辻川の象徴ともいうべき十字路が、四方からの情報が集まってくる受信基地であったことの象徴的記述でもある。p72-73

 

日光寺山はクニョハン(柳田国男)が、村人について海を見に登り、初めて世間の広さを実感したところ。

家島群島の島影や帆船のいる風景を「夢の塊り」のような感じだったと、「海女部史のエチュウド」という文章に書いている。p79

 

柳田さんが農商務省に入ったのは明治33年(1900)7月だった。

その直前の3月に「産業組合法」という法律が議会を通っていて、それを施行するために役人として採用された。

産業組合とは、今の農協(JA)のルーツにあたるもの。p91

 

柳田さんのすぐれた独自の農政理論。

その考え方の基本にはドイツの経済学者フリードリッヒ・リストの国民経済論の考え方がある。

「農商工鼎立併進論」一国の経済が発展していこうとするためには、農業、商業、工業の三つの産業が鼎の足のようにバランスをとっていくことが重要、という考え方。p92

 

柳田さんの商人資本に対する批判。

もともと金貸しや高利貸を「悪」とするような考え方。

ヨーロッパの宗教改革をリードしたカルヴィンが金貸しや商人でも勤勉であれば神の祝福を受けることが出来ると説く。

一種の「悪人正機説」。日本で親鸞が説いたのと軌を一にするところがある。p102

 

国木田独歩の「武蔵野」

ツルゲーネフの「あひびき」から「散歩」というものを知り、「武蔵野」という文学作品に反映させる。

柳田は武蔵野から水と道路の問題に関心を持つ。

 

大正十年代という時期、また戦後の十年間、沖縄が非常に阻害されていた二つの時期に、沖縄を自分の手で自分のもとに引き寄せる、そのことを学問の形でやったのが柳田だった。

時代の先端のなかに入っているというか、時代の最先端の問題とともにあるのが民俗学。p248

 

地名というのは最も堅固で古い固有名詞。

地名は日本人の共同感情の最小単位。

地名の研究の先鞭をつけたのは、ほかならぬ柳田国男

 

梅棹忠夫の指摘

日本の民俗学にはどのようなポテンシャリティがあるか、日本における思想の発展に日本民俗学はどんな風に役立つことが出来るか。

・日本文化のもつさまざまな特質を正当に理解するための科学的な拠り所を提供する。

・日本民俗学は、思想が、日本の国土の上で空転することを避けるための、有効な接地点を提供する。

・日本民俗学は、まったく新しい思想が生まれる基盤になる可能性がある