現代人の論語 呉智英 著

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現代人の論語
呉智英 著
2015年8月10日 第1刷発行

論語について、原文に忠実でありつつも経学(キリスト教における神学のようなもの)的解釈から離れ、歴史学民俗学、宗教学などの研究成果を踏まえた論語像、孔子像、儒教像を描くように試みた書です。
自分は以前中島敦の名作「弟子」を読んでいるので、孔子の弟子について書かれた部分が一番興味深かったです。

論語は目上の者に随順たれと述べた書物だと思われている。しかしその一方陽貨篇17-5では、叛乱軍への加わる意欲を持つ孔子の姿が描かれている。

王妃である南子に謁見する孔子
高弟である子路孔子が南子の様な不徳義な女と会っただけでも不愉快である。先生、なぜあのような女と、、、と詰め寄った。
それに対し、孔子は誓っていった。私が間違ったことをしていたら、天がこれを許すまい、天がこれを許すまい。  
と、最後繰り返している。通説ではこれを強い断言と見るが、その一方、孔子の内心の動揺の表れとは見えないだろうか。

孔子の思想、すなわち儒教の歴史における画期的な解釈者はまず12世紀宋の朱子であった。
朱子学は一言で言えば厳格主義(リゴイズム)である。
だが、論語の中には厳格主義に反するようなユーモラスな孔子像がたびたび現れている。その大半に子路が脇役として登場する。

古来、悪王といえば、夏の桀王と殷の紂王であった。しかし両者とも王朝の最後の帝であった。新しい王朝の立場で歴史が描かれるため、必然的に悪逆非道な人間として描かれてしまう。

弟子の学団の中で既に孔子の解釈をめぐって意見が分かれている。思想家の一個の人格を離れたとたん、思想はばらばらに分かれ始める。
仏教だろうと、キリスト教だろうと、国学だろうと、マルクス主義だろうとあらゆる思想が逃れ得なかった宿命が、人類最初の思想家である孔子の思想に既に現れている。

思想史上「軸の時代」と称される今からおよそ二千五百年前、別々の文化圏で全く別個に、三人の哲学者が生まれた。孔子、釈迦、ソクラテスである。
東アジアにおいては、思想史は論語の変奏曲であった。

駄本に等しい論語俗界書は書店にあふれていた。井上靖孔子」もそうした潮流の一つだろう。この本はここ半世紀の儒教研究が全く反映されていないどころか、伝統的な論語解釈まで踏まえていない通俗人正論に過ぎない。
(こうした井上靖のような「批判し難い権威」に対する批判はさすが呉智英先生ですな)