なぜ故ヨハネ・パウロ2世がこんなに早く聖人に認定されるのか

聖人となるためには、ここに書いてあるように「奇跡」を行い、認められなければならないのですが、故ヨハネ・パウロ2世は、勿論それだけではないようです。
1979年、彼は当時共産圏だった故郷ポーランドを訪問しました。
これはポーランドだけでなく東ヨーロッパ全体に大きな衝撃を与え、宗教的だけでなく政治・外交的にも非常に重要な意味を持ちました。
そして1980年8月、ポーランドにて「連帯」が結成されます。
1981年5月には、法王は狙撃されますが、一命を取り留めます。
そして1981年12月にはポーランド戒厳令がしかれますが、アメリカなどとの外交を進める一方、1983年6月に、戒厳令下のポーランドを訪問します。
そして1989年6月の総選挙で、ポーランド共産党は崩壊します。
1989年12月、ゴルバチョフバチカンを訪問しますが、法王を「われわれと同じスラブ人」であると語ります。
この発言はバチカン共産主義が敗北したことを意味し、まさに20世紀末の「カノッサの屈辱」と論評されます。
このような世俗社会との戦いにおける勝利も、ある意味「奇跡」とも言えます。
偉大な業績が、この異常に早い「列聖」への道を開いたともいえます。
 
バチカン近現代史 中公新書 を参考にしました)