コンスタンチノープル遠征記

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ロベール=ド=クラリ 著
伊藤敏樹 訳・解説
筑摩書房 発行
1995年7月25日 初版第一刷発行
 
フランス北部の街、アミアンから車で約30分ほどの村に住んでいた最下層の騎士ロベール=ド=クラリ。
今から800年前、クラリはピカルディの美しい田園を後にして、第四回十字軍に参戦する。
1171年ごろの生まれだった彼はこのとき30歳ほど。ピカルディの外にはほとんど出なかったであろう彼が、陸路ヴェネツイアまで行き、リド島で三カ月足止めを食らった後、アドリア海沿岸を経てザダル攻囲に加わり、イオニア海から地中海に出る。
そのまま中東に行くと思いきや、艦隊はエーゲ海に入り、ダーダネス海峡を経て、1203年6月にボスフォラス海峡に達し、コンスタンチノープルに到着した。
1205年4月かの地を離れ、無事にに帰国する。
その時コンスタンチノープルで奪った54点もの聖遺物を、ちゃっかり持って帰っている。
その後アミアン領コルビの僧院でこの遠征の体験を口述し筆記させた。
 
フランスからの一群はヴェネツイアに到着するが、資金不足で困難な状況に陥る。
それでもなんとかヴェネツイア長殿の慈悲で足りない分は戦利から出せばよいということにしてもらえる。
しかしこの結果ヴェネツイア側の影響が強くなってしまい、なんだかんだといううちに中東へ行くはずが、コンスタンチノープルへといざなわれてしまう。
策略があったのか、それとも力の複雑な要素の結果なのかは、様々な説がある。
ともあれ、資金の心配が無くなった陣営は、ともしびやろうそくの明かりで軍団中が燃えさかるようであった。
 
コンスタンチノープルの宮殿、聖堂、城門、競技場、銅像、柱塔に魅せられるクjラリ達。リアルな女人像や当時のフランスの素朴な形状の像とは違い、(まさに二世紀先のルネサンスを見るかのようであった)。
僧院や教会や寺院や宮殿や街中の美しさ、豊かさ、神々しさの百分の一しかお話ししなくても嘘と思われようし、とても信じてもらえないだろう。
 
この第四回十字軍は愚劣きわまる十字軍の歴史の中でも特に酷いと批判される。そんななかでもかろうじてなった果実は、このコンスタンチノープルの豊かな文化の種の移植、と言えるかもしれない。
 
この作品の中にある、記録作家、歴史家、旅人の要素。
記録作家として遠征のいきさつを語り
歴史家として時代をさかのぼって
旅人としてコンスタンチノープルでの眼を見張る素晴らしさやそれにまつわる逸話を伝える。
十字軍の乱行については多くを割かれないが、その分自らが見た出航や皇帝即位式、戦場の模様、また半生を自分たちとは反対方向の一大巡礼に費やすヌビアの王、などの模様が実感で描かれる。
 
クラリの感性を磨き表現をつややかにしたのは、彼の未曾有の体験そのものであり、おのれの日常から遠く離れた別世界の、異文化の中での様々な出会いであった。