エラスムス 闘う人文主義者(前半)

エラスムス 闘う人文主義者 表紙

エラスムス 闘う人文主義

高階秀爾 著

筑摩書房 発行

筑摩選書 0271

2024年1月15日 初版第一刷発行

 

西洋美術史が専門の著者により、エラスムスの一生を叙述しています。

もともと1970年代初頭に発表された文章で、著者の学生運動の経験から感じたことを、エラスムスが生きた混乱の時代に反映させているようです。

 

第1章 我、何者にも譲らず

ロッテルダムの町では今でもなお、人びとが子供たちに向かって、近くの市庁舎の大時計が時を報ずるたびに、エラスムスの像が手に持った本の頁を一枚めくるという言い伝えを語って聞かせるという。

 

エラスムスのコインの裏側に刻まれたテルミヌス神は、彼にとっての守護神であり、「我、何者にも譲らず」は彼の座右の銘だった。

 

何よりも彼は、党派的な闘争を憎んだ。できれば、双方の側の調停者になろうと努めた。

 

第2章 不信の時代

エラスムスの七十年に近い生涯で、十年と同じ場所に落ち着いて暮らすことができなかった。

 

当時の思想界の王者として、生まれながらの貴族のようにきわめて洗練された優雅な物腰と精神的魅力を備えていたエラスムスが、生まれた年もよくわからない私生児だった。

 

エラスムスの生年について、1466年説と1469年説の二つがある。

僧籍に入った父への配慮と、兄との関連があるのだろうか。

 

エラスムスがイタリアに旅していたのは、ミケランジェロやラファエルロが活躍していた時期だが、その芸需品には全く触れておらず、イタリアの食事のまずさなど、もっぱら食物のことばかり書いている。

 

第3章 変革への底流

一千年、または五百年という区切りのよい時代が一つの世界の終わりを示す単位であるという考え方も、洋の東西を問わず見られるところである。

 

「新しい宗教」と神秘主義的傾向を併せ持ったドメニコ派修道僧ジロラモ・サヴォナローラ(1452-98)

 

グリューネヴァルト(1470頃-1528)の「イーゼンハイムの祭壇画」

当時の幻想文学に直接触発されたもの

 

エラスムスが生きたのは、ヨーロッパが激しい興奮状態にあった時代

奇しくも同じ年に生まれたニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)とともに、あくまでも冷静に醒めていた数少ない精神の持ち主

 

第4章 古代へのめざめ

エラスムスの生涯は、古典古代に対する強い情熱に支えられていた

 

エラスムスの残した仕事

・キリストの僕としての業績

古代ギリシャ、ローマの重要な文献の翻訳、校訂といういわゆる人文主義者としての功績

 

エラスムスは近代人としてただひとり、イタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァラ(1407-57)の名前をあげている。

ヴァラは優れたラテン語学者としてのみならず、近代的な批判精神に富んだキリスト教徒として、ある意味エラスムスの先駆者だった。

 

第5章 ふたつの友情

パリ大学神学部付属のモンテーギュ学寮の不潔な環境と過酷な生活、煩雑な神学論議は、肉体的にも精神的にも、エラスムスには耐えがたいものだった。

 

1499年の六か月ほどのイギリスの旅行は、エラスムスの生涯にとって決定的と言ってよい影響を及ぼした。

それは人文主義キリスト者、ないしはキリスト教的ユマニストとしての彼の進む道を決定し、何人かの優れた知識人との交友、ことにトマス・モア(1478-1535)とジョン・コレット(1467-1519)との友情をもたらした。

 

第6章 イタリアへの旅

三年間のイタリア滞在中、レオナルドやミケランジェロ、そしてマキャヴェッリなどとの交渉は持たなかった。

 

1506年には、イタリアの代表的な人文主義者は、みな世を去っていた

エラスムスのイタリア訪問は遅すぎた

 

最初のイギリス旅行からイタリア旅行の六年間のエラスムス

ギリシャ語への傾倒

・ヴァラの『新約聖書注解』の原稿の発見およびその刊行

・『キリスト教兵士提要』の執筆