中世に生きる人々

中世に生きる人々 表紙

中世に生きる人々

アイリーン・パウア 著

三好洋子 訳

東京大学出版会 発行

1990年10月5日 第15刷

 

マルコ・ポーロ以外は中世の平凡な無名の人を扱っています。

著者のアイリーン・パウア(1889-1940)はロンドン大学の経済史の教授で、二度世界一周旅行を試みています。

 

第一章 農夫ボド

シャルルマーニュ時代の田舎の所領の生活

 

吟遊詩人は親切にしてくれたシャルルマーニュに恩返しをした。

彼らは王に不滅の栄誉を与えたのである。

中世全体を通じて、シャルルマーニュ伝説が栄えたのはこのためであり、大帝はアーサー王とともに、中世の最も大きい物語群の一方の英雄としての栄誉を与えられた。

 

第二章 マルコ・ポーロ

第十三世紀のヴェネツィアの旅行家

 

マルコ・ポーロは、本の中で個人的な話題に触れていないのが欠点である。

私たちは彼が中国でどのような生活をしたかよくわからない。

彼が中国人よりもむしろ蒙古の汗と交際したこと、中国語を習わなかったことの証拠は残っている。

 

フビライ汗はマルコ・ポーロたちのヴェネツィアへの帰国を許さなかった。

しかしペルシャの汗が蒙古種族から花嫁を迎えたいと頼んできたので、その航海を利用して、ペルシャからヴェネツィアに戻ってきた。

 

マルコ・ポーロは余生、フビライ汗の話をヴェネツィアの若者にしていたが、領地の広さ、何百万という年収、何百万というジャンク、何百万という馬を飼う人々、何百万という都市について話したので、若者たちは「百万のマルコ殿」というあだ名をつけた。

 

十二世紀には人跡未踏だった境を旅行したマルコ・ポーロ

北京にいる大汗の耳に快く響くキリスト教会の鐘

商人がまったく安全に旅行できる中央アジアを通る長い道

杭州の街を歩いたことがある「大ぜいの」ヴェネツィア

これが十三世紀の末から十四世紀のはじめ、すなわち軽蔑されたあの頑迷な中世のことなのである。

しかし十四世紀の中頃、あらゆるものが変化した。

タタール朝が滅び、中国の新支配者は昔の排外政策に帰った

回教徒が中央アジア全土を征服し、極東と西洋の間の城壁となった。

 

マルコが死んでから一世紀半ほど経って、ジェノアの船長がその本を読み漁って、欄外に書き抜きをした

チパングに行くために、西へ行こうと決意したその男は十五世紀には草葉の陰でアメリカを発見した。

 

第三章 マダム・エグランティー

チョーサーの描いた尼僧院長の実際の生活

 

第四章 メナジエの妻

十四世紀のパリの主婦

 

メナジエ・ドゥ・パリ(パリに家を持つ人、あるいは家長という意味であろうか)は彼の若い妻を教育するために、この書を1392年から94年の間に書いた。彼が裕福で、学識もあり、実務の経験も深く、たしかに堅実で教養ある『上流市民階級』の一員であった。

 

第五章 トマス・ベトソン

十五世紀のステープル商人

 

中世の英国においてもっとも注意すべき商人は、羊毛を取引するステープル商人の一群である。

羊毛貿易は、長い間英国で最も大規模で、最も儲けの多い商売であった。

ステープルとは羊毛その他特定の重要商品を取引する指定市場をいう。

 

ステープル商人は為替の複雑さに苦労した。やたら貨幣の種類が多く、品質の悪いものが多かった

 

ステープル商人は

羊毛を買うためにコッツウォルドの畑に遠出し、

マーク街の勘定場で働き

ロンドンからカレーへ

続けてまたカレーからロンドンへと船で旅行し

カレー市場で外国商人と取引し

市の季節にはフランドルの市市を馬で駆けまわる

 

第六章 コークサルのトマス・ペイコック

ヘンリー七世時代のエセックスの織元

 

家屋・記念碑・遺言はいずれも中世の最後の二世紀の間に大勢力となって繁栄してきた中流階級の非常に急激な発展を示す絶好の資料である。