望遠鏡以前の天文学 古代からケプラーまで(後半)

第8章 イスラーム世界の天文学

9世紀から15世紀までの間、ムスリムの学者は科学的知識のあらゆる分野において卓越していた。特に天文学と数学への貢献は著しいものだった。

 

天文学が異なる二つのレベル、

すなわち理論を持たず空に見えるものだけに基づいた民間天文学

組織的な観測と数学的な計算や予知に関わる数理天文学とにおいてイスラーム世界で栄えた。

 

アラビア語で書かれた最古の天文学テクストは、7世紀にはすでにムスリムに征服されていたスィンド(インダス川下流域)とアフガニスタンで書かれたと思われる。それはテクストと表から成っており「ズィージュ」と呼ばれた。

 

ムスリムの暦は太陰暦である。暦月は三日月が最初に見えた時に始まる。月の初めと終わりを正確に決定することは、断食の月であるラマダーンや他のさまざまな宗教的行事にとって特に重要である。

 

ラマダーンの始まりに関する混乱が、今ではしばしば見られる。この混乱は、三日月がある場所では見えるが別の場所では見えないという事実と、まさしく新月の最終通告をする宗教学者天文学者に耳を傾けたがらないことに由来している。

 

第9章 中世ヨーロッパの天文学

かつての属州にあったローマの学校が姿を消し、ギリシア語が忘れ去られていた西洋では、ローマ帝国の崩壊によって、基本的に二言語併用であった文明が消滅した。

 

一般に科学史、そして特に天文学史において、この「暗黒の」世紀について報告するに値する理由

・天地の創造者としての唯一の神というキリスト教の信仰の伝播が、自然に対する一般的に態度を変え、かつて自然現象に関係があると考えられた多くの神や霊魂を排除することで、自然現象に学問的アプローチの道を作った。

キリスト教典礼が、時間の計算に対する新たな需要を生んだ。

 

カロリング朝時代(800年頃)以降、通常は田舎にあった修道院の学校以外には、数を増しつつあった司教座聖堂の学校があった。これは都市部に置かれ、俗人と聖職者の門弟の両方に開放されていた。

 

1200年以前はどの学問分野においても現存するギリシア語作品のほとんどが、イスラームの地で生まれた多くの著作とともに、ラテン語に翻訳された。

 

中世の学生は少なくとも天文学宇宙論の初歩を習得することなしに修士の学位を取ることができなかった。

 

自分自身の持つ豊かさに気付かなかったコペルニクスは、もっぱら、自然ではなく、プトレマイオスを代弁することを引き受けたのだ。それにもかかわらず、彼は誰よりも自然に近づいた人物であった。

 

第11章 中世後期およびルネサンスの天文器具

本格的な天文観測が始まる本当の転換点は、1492年にクリストファー・コロンブスがスペインから西に向かって出帆した15世紀末に訪れた。

南北アメリカ大陸の発見によって、正確な天体観測に対する実用的な必要性が生じた。

 

第12章 中国、朝鮮、日本の天文学

グノーモン

地面に垂直に突き刺した棒。1年のさまざまな時の正午の日影を測定することであり、その結果、太陽暦を採用することを促した。

 

第13章 現代における古代天文学の活用

古代史に記録された天文現象

日食と月食超新星現象として知られる巨大星の爆発、彗星、太陽黒点、流星雨、隕石、そして北極光

 

古代や中世の長期にわたる観測記録で、太陽の活動や地球の自転が識別できる。

また超新星爆発のように稀にしか起こらない現象の記録は、古代のデータが有効

 

前8世紀末頃に、ようやく最古の組織的な観測記録が、バビロンと中国で始まる。

 

1006年5月の初め頃、ヨーロッパ、イスラーム、そして東アジア(藤原定家の明月記の中で記述あり)で観測した人々は、南の空で光り輝く超新星が現れたのに気づいた。

 

1181年の秋、おそらく歴史上最も暗い超新星が見られた。中国と日本の天文学者だけが発見していた。

明月記に記録があるが、ヨーロッパでもイギリスのネッカム(1157-1217)も著書の中でこの超新星に言及していた。

 

古代の天文学者が残した観測記録がなければ、われわれは、宇宙の遥かなる広がりの中や、地球それ自体の上で起こる多くの変化に気付かなかったかもしれない。

現代の天文学者が、十分な装備を持たずとも勤勉であった先人たちに感謝するのは当然である。