ペトラルカ 生涯と文学

ペトラルカ 生涯と文学 表紙

ペトラルカ 生涯と文学

近藤恒一 著

岩波書店 発行

2002年12月20日 第1刷発行

 

ペトラルカの生涯と思想・文学について述べた本格的な入門書です。

イタリア人で、なおかつフランスのアヴィニョンにも深い関りがあったペトラルカに興味を持ち、この本を手に取りました。

戦争やペストによる乱世の中、イタリアやプロヴァンスを中心として、ヨーロッパをさまよわざるを得なかったペトラルカに同情的になってしまいます。

 

まえがき

ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョ。

十四世紀に活躍したこの三人は、イタリア文学の三巨星をなしているばかりか、それぞれにヨーロッパ文学の最高峰に名を連ねている。

 

ペトラルカは偉大な抒情詩人、叙事詩人であるだけでなく、古典学者・文献学者・歴史家であり、弁論家、哲学者にして宗教文学者、更には考古学者・地理学者・旅行家・登山家・造園家でもあった。リュートの名手でもあった。

 

ペトラルカの生きた十四世紀は、西欧史上で最も悲惨な時代のひとつであった。慢性的な飢餓状態、戦争、そしてペストであった。

 

文芸の革新と再生のための苦闘によって、ルネサンスの幕開けを告げるユマニスム(人文主義)の真の父となり、ルネサンス運動の偉大な先達となる。

 

序章 山頂にて

 一 二つの山頂

南仏プロヴァンスのヴァントゥウ山に登るペトラルカと著者

 二 最初の近代的登山

 三 寓意としての登山

ペトラルカ兄弟の登山ぶりの対比は、二人の対照的な生き方の寓意。まっすぐ高いところを目指す弟に対し、回り道をするペトラルカ

 四 山頂の内省

山頂で、アウグスティヌス『告白』を開くペトラルカ

 

第一章 地上のさすらい人

 一 出生

父の亡命の地アレッツォで生まれるペトラルカ

 二 トスカーナからプロヴァンス

乳飲み子の頃から放浪の人生。まずアヴィニョンへ。

 三 キケロとの出会い

早くから、古代ローマ切手の名文家キケロの文体に夢中になるペトラルカ

 四 モンペリエ遊学

法律学習、文学研究への憧憬、母の死

 五 ボローニャ遊学

ローマ法や古代ローマの勉強、母国の俗語文学である清新体派やダンテの抒情詩の研究

 六 無常感

 七 アヴィニョン帰住

父の死

 八 虚栄の生活

 九 ラウラとの出会い

1327年4月6日、アヴィニョンの聖女クララ教会(サント・クレール教会)で、人妻ラウラに出会う。

 十 アウグスティヌスの出会い

剃髪をうけて聖職者になるペトラルカ。自分の文学活動に必要な自由と閑暇のための経済基盤を聖職禄に求める。

教皇書記や司教職を辞退し、司教座聖堂参事会員を各地に求め、自分は任期におもむかず、現地代理人を通じて給与を受け取った。

 

第二章 自由と再生をもとめて

 一 憧憬の地ローマへ

息子誕生に対する罪悪感

 二 隠棲 都市の「虚栄」から森の「孤独」へ

ローマからアヴィニョンに戻ると、寒村ヴォ―クリューズにひきこもる

 三 古代ローマ再生のために 史書叙事詩

 四 「再生」の祝典 桂冠詩人の誕生

 五 プロヴァンスと祖国のあいだ

二人目の私生児の誕生

キケロ書簡集の発見

六 コーラ革命 ローマの再生とイタリア統一のために

 七 悲惨の年

コーラ革命の挫折とペストの流行

 八 フィレンツェの友人たち

ボッカッチョとの交流

 九 母国フィレンツェからの誘い

 十 最後のプロヴァンス滞在

 

第三章 ラウラ讃歌

 一 ラウラと『俗語断片詩集』

ペトラルカの生涯に運命的な重みをもった出会い

・少年期のキケロ

・青年期のラウラ

・壮年期初期のアウグスティヌス

こんな中で、ラウラは氏素性がはっきりしない。実在の人物でないかもしれない

 二 ラウラ讃歌

 三 内なる葛藤

 四 「港」願望

 五 無常感

 

第四章 「孤独」讃歌

 一 「孤独生活」の日常

 二 「孤独生活」と「都市生活」

 三 「孤独」の思想 「孤独」の意味の深化

 四 「人間的」交わりのために

 五 文学活動の場

 六 人間性の涵養

 七 文学的工房

ペトラルカの文学的工房は、研究・著作活動の場であるばかりか、古典収集活動の根拠地であり、良質の写本をつくりだす工房でもあった。

 八 「孤独生活」の宿命

写字生や使用人や召使いにより、孤独生活は都市生活の縮刷版になってしまう。

 

第五章 都市の「孤独」を求めて 北イタリア彷徨

 一 ミラノ移住 森の「孤独」から都市の「孤独」

共和制だった都市コムーネは一般に、十三世紀後半から徐々に有効な統治能力を失い、僭主制に移行して空洞化し、やがて君主制に移行して崩壊する。

 二 反響

ペトラルカのミラノ移住はフィレンツェなどミラノの脅威を感じている諸都市で否定的なものが強かった。

ペトラルカにとって、本当に祖国といえるのは、理想化された古代ローマと一体を成す理念的「イタリア」であり、現存する中小の国家群のいずれでもなかった。

47年のコーラ革命までは共和主義的傾向が強かったのに、その革命の挫折後は君主的傾向を強める。

だから専制政治的下のミラノに住むことは抵抗感なかった。よく統治されているかどうか、治安がよいかどうかであった。

 三 大都市の「孤独」

ヴェネツィアプラハやパリへの外交使節の任も受ける

ペトラルカの不幸の一因は「詩人の桂冠」にあった。極度に高い「有名」税を支払わされていた。

 四 ペストの惨害

 五 都市の「孤独」をもとめて

 

第六章 文芸復興(ルネサンス)のために ボッカッチョとともに

 一 文学的共同

ペトラルカの二つの歴史的使命

・古代の文化的遺産の継承。現存する古典作品を後世に伝えるだけでなく、忘れられ失われた作品をなるべく発見し、あるいは復元して、後世に伝える

・時代の「不毛」に抗して自分自身の豊かな文学的成果を創出し、後世の人に贈り伝えること

 二 自著の交換

ボッカッチョとの交友

 三 古典文学研究

 四 ギリシャ文芸の復興

 五 安らぎの港をもとめて

 六 ピエトロ・ペトローニ事件

ピエトロ・ペトローニという修道士から自分の死のお告げを聞かされ動転するボッカッチョ

冷静にボッカッチョを諭すペトラルカ

 七 友情の提案

四年ほどペトラルカのもとで写字生の仕事をする優秀なマルバギーニ。しかし四年でペトラルカのもとを離れてしまう。

 八 逆境のボッカッチョ

 九 共同戦線

 十 ユマニスム(人間主義

 

第七章 丘の「孤独」

 一 都市の「孤独」から丘の「孤独」へ

1370年、六十歳代なかばにアルクアの山荘に終の棲家を定める

 二 政治参加の軌跡

 三 皇帝と教皇 二つの希望

共和主義の幻想性を嫌というほど思い知らされたペトラルカ。そして君主主義的傾向を強める。

この点、十六世紀のマキアヴェッリを先取りしていた。

神聖ローマ皇帝カール四世や教皇にローマ帰還を訴える。

 四 教皇のローマ帰還のために

 五 最後の希望 フマニタス(人間性)研究

 六 巨星逝く

 

終章 ペトラルカとルネサンス

 一 ユマニスムの父

ユマニスムの父でルネサンスの父であるペトラルカ

 二 後継者たちの活動

 三 ユマニスムの発展とルネサンス美術の開花