去年、
ラファエロ没後500年だったのですが、今年でダンテ没後700年になるのですね。
芸風は違うとはいえ、どちらも最重要な
ルネサンス人です。強引にいえば、
ルネサンスはダンテに始まり、ラファエロで終わったのかもしれませんが。(個人の感想です)
フィレンツェに行った時、ダンテの家はなぜか正月1月1日から開けてくれていて、訪問出来ました。
神曲の煉獄編の前半は時々読んでいるのですが、
キリスト教的価値観という風船を、現世の愛憎入り交じった人間模様のエピソードという気体でキンキンに膨らましているような感じです。
ダンテ没後700年 文学の巨匠にまつわる五つのこと
【AFP=時事】世界文学の巨匠ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)は、著作「神曲(Divine Comedy)」が最も有名だ。「イタリア語の父」としても知られるダンテが死去してから、今年で700年となる。ダンテについて知っておきたい五つの事柄をまとめた。
14世紀初頭に世に出された「神曲」では、地獄、煉獄(れんごく)、天国の三界を遍歴する空想の世界が描かれている。
ダンテは、それまで広く使われていたラテン語ではなく、当時のトスカーナ語でこの傑作を生み出したことから、イタリア語の確立に一役買ったとされている。
「神曲」の人気を受け、ペトラルカ(Petrarch)やボッカッチョ(Boccaccio)など他の中世のイタリア人作家も、トスカーナ語で執筆するようになり、こうしてイタリア語文学の基盤が築かれることとなった。
ダンテの「神曲」は、叙事詩であり、個人的なあがないの物語でもあるが、それはまた最も影響力のあるSF作品の一つでもある。
オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin)の彫刻「接吻」は、地獄編の二つ目の圏谷で出会うパオロとフランチェスカの不義を描いている。
ダンテは1265年にフィレンツェ(Florence)で生まれた。1302年にフィレンツェから追放され、1321年9月の13日(もしくは14日)にイタリア東部アドリア海(Adriatic Sea)沿岸のラベンナ(Ravenna)でその生涯を閉じた。
貴族ではないが、裕福な家の出であるダンテは、食べるために働いたことはなく、政治や文学、哲学、天文学にも興味を示した。
ダンテはフィレンツェ市政に積極的に参与し、1300年には統領の一人に選ばれた。
ダンテは当初、ゲルフ党員(中世のイタリアで教皇を擁護した民衆派)だったが、教皇ボニファティウス8世(Boniface VIII)と結びついた勢力からフィレンツェを追放された。これにより、教皇の干渉にますます批判的になった。
政変が起き、新たな政権が実権を掌握するとダンテは裁判にかけられ、フィレンツェから追放された。その後、ダンテがフィレンツェに戻ることは生涯なかった。
「神曲」は、ダンテが政敵らへの恨みを晴らす場にもなった。とりわけ、ボニファティウス8世に対しての強い思いは、地獄編に登場することからも見て取れる。【翻訳編集】 AFPBB News