ケールの「母なるキンツィヒ」の数奇な運命(独仏国境)

ケールの「母なるキンツィヒ」


ナンシーからアルザスを越えてライン河を渡り、ドイツの国境の街ケールに翔びます。
以前にもこの街の画像で記事を書いたことがあるのですが、改めて詳しく調べてみました。
画像のモニュメントは1870年から71年の普仏戦争の際、ストラスブール包囲戦に参加した27人のケール出身のドイツ兵を記念したものです。
前面の女性像はドイツ語でMutter Kinzigと呼ばれています。
Kinzigキンツィヒとはライン河の支流の川名で、ケールの街のそばを流れています
英語ではマザーキンツィヒということで、日本語なら「キンツィヒ母さん」とか「母なるキンツィヒ」とでもなるのでしょうか。
母というより、娘さんのような感じの、若々しくてみずみずしい(川というだけあって・笑)女性裸像ですが、調べてみると、その数奇な運命に驚きました。
まずこの像は、1861年にフランスとドイツ連邦により、ストラスブールとケールの間に建設された鉄道橋に設置されました。
その時は日本語では「父なるライン」と呼ばれる男性像とペアで橋に飾られました。
しかし1870年7月22日にドイツ軍は橋の西側部分を爆破しました。フランス軍によるケールへの侵攻を防ぐためと言われています。
その際、マザー キンツィヒの像とファーザーラインの像はライン河の川底に沈んでしまいます。
しかしながら、1900年頃、ライン河港の浚渫により、行方不明になったと思われていたマザー キンツィヒのオリジナルの像が発見されました。
そしてケールの議員は、1905年に建てられた 1870/71 年の戦争の記念碑の主役をその像にすることを決定しました。
その後二度の世界大戦をくぐり抜け、その美しい姿を現在に至るまで、横たえてくれています。