日本語はいかにつくられたか(前半)

日本語はいかにつくられたか? 表紙

 

日本語はいかにつくられたか?
小池清治 著
筑摩書房 発行
ちくまライブラリー25
1989年5月30日 発行

日本語は書きことば、読みことばとしては本当に複雑な言語だなぁとよく実感することから、日本語のルーツを調べたくなり、この本を手に取りました。
先人たちの苦労を読み進めていると、中世のシャルトルのベルナールによる「我々は古代人という巨人の肩に乗っている小人に過ぎない。古代人のおかげではるか遠くを見ることができる」というフレーズが思いおこされます。

Ⅰ 日本語表記の創造 太安万侶
1 漢字の衝撃
漢字伝来以前にわが国の固有の文字として「神代文字」があったという説がある。
しかしそれは後世の偽作というのが今日の定説となっている。
古代の日本語は無文字言語として存在していた。p3

馬より低かった漢字の地位
応神天皇十五年(四世紀末から五世紀初頭?)百済の国王が良馬二匹を天皇に贈った。
王仁』と並んで、わが国へ文字(漢字)を伝えてくれた、大恩人「阿直岐(あちき)」は馬の付き添いとして来朝した。その当然の帰結として、わが国でまず与えられた仕事は馬飼の職であった。そして「経典」をよく読むということで、皇太子の家庭教師になっている。p4-5

 

日本人が日本語を文字を用いて書き表すようになるのは、飛鳥時代推古天皇(554-628)の時代まで下らなければならない。p9

2 安万侶の苦心
安万侶は『古事記』上・中・下、三巻をわずか四ヶ月で書き上げている。なぜこのような短時間でこれだけの大業が成就されたのであろうか。
・三十年ほどの歳月をかけて用意された資料が存在していた。『帝紀』『旧辞』など
稗田阿礼という優秀な協力者がいた。
稗田阿礼は「語部」として神話や歌謡を単に暗記していたのではなく、『帝紀』『旧辞』の文献の読み方まで暗誦していたのでは?

安万侶は結局、日本語を漢字を用いて書き表すには、「訓」だけではだめであり、また「音」だけでもだめだと判断している。「音訓交用」の道を選んだ。p20

本居宣長は『古事記』を読み解くのに三十五年の歳月を要している。なぜこのようなことになるのか。
・遥か昔の古語を見極めることの難しさ
・『古事記』にはよい出本が現存しない
(最も古い真福寺本でも応安四・五年[1371・2]であり、和銅五年[712]以来、六百六十余年も経過している)
・安万侶の表記法が不完全だった?というか、漢文・漢字を主体とした文体では、日本語の文章語・書きことばのスタイルを創造するのは不可能だった。

 

Ⅱ 和文の創造 紀貫之 
1 『万葉集』と『古今和歌集』との相違 
大伴家持の撰した『万葉集
天皇の相問歌(恋愛歌)から乞食の詠んだ歌まで入っている。「国民歌集」
紀貫之の撰心した『古今和歌集
貴族・僧侶の和歌ばかり。「知的エリートの詞華集」

万葉集には、文字化された資料のほか、撰者、大伴家持自身の筆録によって書きとどめられた歌が多数入集している。
家持の時代には文字化したくても文字化する能力を持たない人々が多かったはずである。あえて極端な言い方をすれば、この時代は文盲ということで人々は平等であった。その結果、和歌の前でも平等であったのである。
一方、貫之の時代には、既に、「仮名」という日本人にとって至極便利な文字体系が出来上がっていた。p35

2 仮名の発明
「仮名の発明」は、日本語の創造という分野における最大級の発明であったにも関わらず、いつ、どこで、誰が、どのようにして発明したか明らかではない。

漢字の意味を捨てて音だけを利用して表現するということ、即ち漢字を仮名として用いること。このようにして用いられた漢字を「万葉仮名」という。

 

歌謡は定型ということで、表現のための「文法」と「コンポジション」(文章構成法)を既に有していた。
その長ったらしさにも関わらず、安万侶が安心して、これを万葉仮名表記できたのは、歌謡がこれらを備えていたからに違いない。p41

万葉仮名の欠点は意味を捨象しきれないこと
あと漢字そのものの欠点でもある字種の多さと字画の多さp42

万葉仮名は仏典の陀羅尼(サンスクリット語を漢字で音写したもの)の影響を受けたもので、日本人の独創ではない。p44

草体化した万葉仮名を「草仮名」という。「草仮名」は漢字と平仮名の中間形である。p44

「平仮名」化の動きは、延喜五年(905)に成立した『古今和歌集』で一応の完成を見る。「仮名」が公的な場で公的文書に用いられた最初のもの。p46

 

古今和歌集』を平仮名で書き表すという決断、即ち、公的文書の表記法を変えて、新しい表記法を採用するという決断に匹敵するものを日本語の歴史の上において別に求めるならば、それは、はるかにくだった昭和二十一年(1946)の「当用漢字」1850字の決定・告示になる。p50-51

「片仮名」は、漢字の字画の一部を採り他の部分を省略する「省画」という技法を万葉仮名に適用することから生じた。
片仮名は講義ノートをとるための一種の実用的速記文字として寺院で発生し、発達した。p51

和歌・消息等の分野を「平仮名」に抑えられ、「片仮名」は独自の分野を開拓することが出来なかった。そのため、いつまでも、漢字の補助的符号という身分に甘んずるほかなかった。
片仮名が社会的に通用するようになっていたであろうことを示す現存最古の資料は、天暦五年(951)頃のものとされる、醍醐寺五重塔天井板に残されている落書きの和歌三首である。p52

 

3 日本語の文章(和文)の創造
仮名で日本語が書き表せると意識した時に「平仮名」が生まれ、「平仮名」が生まれた時に、日本語の書きことばは成立した。p54

伊勢物語』の「東下り」における「だらしなさ」を引き起こしている元凶は、繰り返し。そして、この繰り返しの多さは、口頭言語の特徴でもある。
音声言語の段階を半歩しか離れていない。眼の吟味を経ていないものだった。p61

『土左日記』は土佐の地で失った幼いわが女児への哀傷が中心的主題であることが疑いようがないが、大恩人の醍醐天皇や主君の藤原兼輔の死を悼む挽歌の隠れ蓑であったのではないか。