Ⅲ 日本語の「仮名遣」の創始 藤原定家
1 『明月記』の定家
治承四年(1180)2月5日、定家は、以後、断続的ではあるが、嘉禎元年(1235)12月30日まで、五十六年間書き続けることになる準漢文体の日記、『明月記』を書き始める。p80
2 「古典」の定位と『仮名遣』の創始
藤原定家の作業(校訂という方法により吟味された書写)がなされるまで、日本には「古典」は存在しなかった。
定家は日本における文化的権威の始祖であり、その権威が古典を創造したとも言える。
文字というものを使用し始めてから約七百年の歳月をかけて、日本人は一つの結論を得るにいたった。
その結論とは、「日本語を書き表すには、漢字だけでも駄目であり、仮名だけでも駄目である」というものであった。
時代は、和漢混交文の時代に入ることになる。p107
3 和漢混交文の時代
『愚管抄』は、神武天皇から順徳天皇までの日本歴史を叙述した書物であるが、単なる事実の羅列の書ではない。
歴史を動かすものは道理であるという歴史観が根底にある。確固たる信念、哲学を有する歴史書は『愚管抄』をもって嚆矢とする。
そして、歴史の書物が、和漢混交文で書かれるのも、これが初めてなのだ。p112
Ⅳ 日本語の音韻の発見 本居宣長
1 日本語の音韻の自覚の歴史
円仁(794~864)が唐で学んだ「悉曇」(しったん。古代インドで使用されていた文字から発達した文字。梵字。またその一覧表。または、これに関する学問)
日本で母音と子音に関する自覚は「悉曇」を学ぶことにより得られた。
反切
二つの既知の文字の音を用いて未知の漢字音を表す方法p122
五十音図は、命がけで渡った中国における音韻学・悉曇学の知識をもとに、平安時代の日本人によって考案された。
2 本居宣長の学問
本居宣長の学問の特質は、「言」を調べ「事」を明らかにし、「心」を把握することにあった。したがって単なる証拠中心の実証主義ではなかった。
彼は、「かがみに見えぬ心」の存在を信じ、これが最も肝腎なものと考えていたのである。p126
(星の王子さまの「大切なことは目には見えない」というフレーズを思い出しました)
現存最古の五十音図は、醍醐寺蔵本『孔雀経音義』(十一世紀初期成立?)の末尾に書かれているものである。p128
17世紀初頭にローマ字で書かれた五十音図がある。ジョアン・ロドリゲス著『日本大文典』(1604年成立)に載っている。p129
Ⅴ 近代文体の創造 夏目漱石
1 時代は天才を必要とした
夏目漱石の思考の原型は、「半分の西洋」が横文字で表され、「半分の日本」が漢字と仮名で表されている。p147
2 二葉亭四迷の悲劇
勝海舟の父、勝左衛門惟寅(夢酔、1802-1850)による懺悔の記録『夢酔独言』
私的文書だが、日本語の歴史の面から見ると、「御家人ことば」(本江戸のことば)による言文一致体の記録として有名になった。p149
(少し引用していましたが、内容も文体も粋な江戸っ子のそれでしたね)
二葉亭四迷は、『新編 浮雲』(明治二十年六月~二十二年七月)において、二つのことを試みている。一つは言文一致の文体の創造であり、他の一つは心理小説の創造である。p156-157
3 夏目漱石 方法へのこだわり
二葉亭四迷の『浮雲』 明治二十年六月
夏目漱石の『吾輩は猫である』 明治三十八年一月
この十八年の遅れが漱石に幸いした。明治二十年代と明治三十年代後半とでは日本語の成熟度が子供と大人のように違っていた。
J.C.ヘボンの『和英語林集成』
初版は慶応三年
第三版は明治十九年
この二十年で総語数は約一万五千語増加した。増加したことばの大部分は漢語だった。p166-167
日本語には、古来、一人称(自称)二人称(対称)を表すことばは豊富すぎるくらいにあったが、三人称(他称)のことばは少なかった。「あれ」「かれ」という表現は指示代名詞であり人称代名詞ではなかった。
「彼」という三人称代名詞が使用されるようになったのは明治以後である。p171
翻訳体の影響が濃厚でない二葉亭四迷に対して、新しい「文」の在り方を考え、新しい日本語の文章の創造を心掛ける夏目漱石の文章には、翻訳体と判断される表現が続々と取り入れられることになる。p180
Ⅵ 日本語の文法の創造 時枝誠記
1 日本語の文法の自覚の歴史
2 明治以後の文法研究史
3 時枝文法 「主体性」の回復