柳田國男先生随行記

柳田國男先生随行記 表紙

 

柳田國男先生随行

今野圓輔 著

河出書房新社 発行

2022年3月30日 初版発行

 

昭和16年、柳田國男66歳当時の九州までの講演旅行にお供した時の記録です。

 

「君は人造スレートっての知ってる?」

「いいえ」

「この前の世界大戦のとき、私(柳田)の弟(松岡静雄大佐)がチェコスロバキアかで、それを見て、ぜひ日本に売ってくれというわけで、日本で個人でやっていたのを、今は浅野セメントで買い取って作っているよ」p36

 

「私(柳田)は、50くらいまでは、飲まなかったんだよ。西洋に行っていたとき、一人であんまり淋しかったから飲み始めたんだ。フランスから帰った時に帰ったら飲もうと思って、そのころは自由がきいたから、ブドー酒をたくさん持ってきたんだ。そしたら結膜炎をやってね、家の者が「今これ飲んだら死にますよ」なんて言うんで、とうとう人に分けてやってしまった。…」p62

 

日本では、古典で我々の教養を形作られていなかったのです。プルタークの英雄によって養われた生活は、今日までヨーロッパの文化層を作っていましたが、日本では古典にょって養われることは許されていませんでした。p121

 

森鷗外(1862~1922)は兄貴の友達で、例えば「即興詩人」などは、原本と比べると、逐語訳で、よい日本語にわかりいい文章をすらりと使っているところは偉い。その点にかけてはね。私はだいぶあの人に影響を受けています。詩を訳すのに韻まで含んでいます。」p129

 

ここの娘たちは、結婚前ほとんど全部が各地で遊女になって銭をため、結婚資金を稼いでから村に帰って結婚するという。稼ぎ方が多ければ多いほど、いい結婚ができるなど、天草一円がそうであるが、ことにこの辺は日本婚姻史上、多くの史料を蔵している所である・・・p137

(ちょっと信じられない)

 

「僕が13のとき、はじめて播州を出て東京へ出たんだが、家で雇った人力(車)に乗って、15里かそれ以上もかけてここ(神戸)まで来た。・・・」p149

 

「・・・来年の今月の今日の、まったく同じ時刻に通ったとしても、天候も風の具合も光の加減も違っているだろう。だから全く同じ景色というのは、決して二度と見られるものではない」p160

 

柳田先生出講の日、たまたま学生が佐藤(信彦)先生たった一人というときがあった。しかし柳田先生は、はじめっから終わりまでも寸毫もいつもと変わらずに、原稿に従って音吐朗々と講義を続け、終わってそのまま静かに教室を出ていかれた。p163

 

柳田先生が、弟子にあたる人たちを、どんなによく世話なさったか、涙の出るような実話を聞かされた。先輩たちの結論は「先生は冷たくしているが、温情の人だ」ということだった。そして橋浦さんから「先生に優しくしてもらうような境遇になってはいけないよ」と戒められた。p169