霧の彼方 須賀敦子

霧の彼方 須賀敦子 表紙

 

霧の彼方 須賀敦子
若松英輔 著
集英社 発行
2020年6月30日 第1刷発行

(シエナのカテリーナの)小聖堂は険しい坂道の下にある、そう彼女(須賀)は記憶していた。案内表示に従って行った場所は違った。聖堂にはたどり着いたが、あるはずの坂道が見つからない。そのことに須賀は驚きを隠せない。もちろん、目的は聖女の生家跡の訪問だった。だが、同時に彼女はかつて降りることのできなかった坂道も、もう一度この足で踏みしめたいと願っている。「驟雨のような祈りの声が聞こえてくるカテリーナの小聖堂にはついには入らないで、私は太陽の照りつけるだらだら坂に戻った」と須賀は書く。ここで坂道を降りるという行為は、霊性的世界の深みへ向かうことの隠喩にもなっている。p72

 

カトリック左派」という言葉は、須賀敦子の作品を読みとく重要な鍵となる。しかし、用いるときには一定の留意がいる。「あたらしい神学」が両義的だったように、コルシア書店の運動を象徴する表現なのだが、それは同時にコルシア書店に集った人々にとっては半ば自虐的な呼称でもあった。党派、宗派の壁を打ち破り、言説ではなく、その精神、心において交わり、対話し、ときに討論する場を作ろうというのが彼らの願いだったからだ。p94
ここでの左派とは、非教条的であることを意味する。p95

 

彼女(須賀)はしばしばさまざまな教会のファサードに世界の深みからやって来る呼びかけを聞く。「ファサード」という言葉が出てくる多くの文章で須賀はよく言語を媒介としない歴史との対話をめぐって何かを語ろうとする。「霧」という言葉が此岸と彼岸をつなぐものだったように「ファサード」は異界への扉になる。p102

 

エマウスの運動体の創始者であり、2007年に94歳で亡くなるまでそれを牽引したのがアベ・ピエールだ。「アベ」は名前ではない。「神父」を意味するフランス語で、直訳すると「ピエール神父」ということになるのだが、この呼称には、そこに収まらない親しみと敬愛の情がある。
19歳のときアンリ・グルエス(アベ・ピエールの本名)は、自身の財産権を慈善団体に寄付し、フランシスコ会の中でも戒律の厳しいことで知られるカプチン会に入会
1939年、第二次世界大戦に従軍
その後、レジスタンスに参加。ド・ゴールの弟を救い、ピエールとド・ゴールを結ぶきっかけになる。
戦後、1951年まで国会議員となる。
1949年、自殺未遂の男が最初のエマウス共同体の会員となる。
議員としての給与はすべてエマウスに注がれたが、その職を退くと街に出て物乞いをした。
しかしその後、寄付や参加申し出により、エマウスは運動体として大きく飛躍する。
p119-123

 

文筆家須賀敦子の出発は翻訳だった。翻訳はかたちを変えた批評である。原文のある一語にどの日本語を当てるかによって文章の姿は一変する。語学力ももちろんだが、訳者には優れた批評精神が求められる。近代日本の優れた批評家がいくつかの優れた翻訳を残しているのも偶然ではない。p173

誰の人生にも三つの「季節」があるかもしれない、とは(須賀は)書いている。
それは人間が、自らの「肉体」、「精神」、「たましい」の固有の役割とその限界を痛切に感じる時期でもある。肉体が、かってのように動かなくなってきたとき、人は精神に目覚め、精神の限界を知ったとき、たましいの存在を深く感じとる。p217

 

2016年に刊行された『須賀敦子の手紙』と題する本。
題名のとおり、須賀が友人の画家スマ・コーン(大橋須磨子)、そしてその伴侶であり、日本文学研究者であるジョエル・コーン、この夫妻に宛てて須賀が二十余年にわたって送った書簡集。p413-414
その中で、夫を喪ったあとの彼女にも、自身が恋と呼べるような交わりがあった。
この手紙から二ヶ月後の便りには「もう私の恋は終わりました」と記されている。p419
(この本について、このブログに書いた時(当時はYahoo!ブログ)、その記事に対して、「須賀さんが(伴侶との死別後)恋をしていて本当によかった」というコメントを頂いたのを思いだしました)

 

1981年、須賀が上智大学の常勤講師となって二年後の秋、彼女は、ダンテの『神曲』を読みたいという若者に出会う。
その学生に須賀を紹介したのはラテン文学の研究者である藤井昇で、学生は今日、日本におけるダンテ研究の第一人者である藤谷道夫である。
(藤谷は当時)無名な須賀と、短くない期間を近しい関係の中で過ごし、文字通りの意味においてダンテ研究の衣鉢を継いだ。p420-421

ランボーとダンテ、二人に共通するのは、時代とその文化を代表する詩人だったという点だけではない。彼らは共に正統なる異端者だった。古い教えに忠実であろうとするために時代の常識に抗わなくてはならなかったのである。須賀はユルスナールに、ダンテ、ランボーの血脈に連なる者の姿を見る。p433

 

ある日、彼女(須賀)はがん治療をしていた病院を抜け出して、教会へ行った。そこで彼女は神父にこう話した。「私にはもう時間がないけれど、私はこれから宗教と文学について書きたかった。それに比べれば、いままでのものはゴミみたい」
最後の「いままでのものはゴミみたい」という言葉には「歴史」がある。
1273年12月6日、この日をさかいにトマス・アクィナスは『神学大全』の著述を止めた。
続行を懇願する僚友に対してトマスはこう言った。
兄弟よ、私はもうできない。たいへんなものを見てしまった。それに較べれば、これまでやってきた仕事はわらくずのように思われる。私は自分の仕事を終えて、ただ終わりの日を待つばかりだ。
三ヶ月後、トマスは帰天した。
須賀は1998年3月20日、逝去。p465-467