それからのエリス いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影

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それからのエリス いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影 表紙

 

それからのエリス いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影
六草いちか 著
講談社 発行
2013年9月3日 第1刷発行

少し前にこのブログで紹介した「鷗外の恋 舞姫エリスの真実」の続編とも言うべき本書です。エリスのその後について、鷗外の作品なども織り交ぜながら、更に探求を深めていきます。

序章 続きのはじまり
鷗外の次女杏奴が母から聞いた回想の中に、鷗外が「この女」とその後長い間文通だけは絶えなかったという一文。あんな別れ方だったのに、なぜ文通したのだろう?ひょっとしたら、エリーゼは鷗外の子を産み、ひとりで育てていたのではないか?という疑問。

舞姫の登場人物と、実在のモデルは同じような名前なのに、太田の親友の相沢謙吉だけは賀古鶴所と全く違う名前。

賀古も参加した山縣視察団には、古市公威内務省の二等技師として参加していた。p25

 

第1章 エリーゼは鷗外の子を産んだのか
1 森家の不思議な海外送金
鷗外の母の日記などから、鷗外は毎日かならず、独逸に、八十円などの送金の事実。しかし詳細は不明。

2 戸籍役場に行きなさい
まず教会の記録を探す筆者。だが見つからない
再開した”墓地の彼女”に戸籍役場に行くことを勧められる。

3 クララの子ども
エリーゼの妹クララの子どもが見つかる
フルネームは「ゲルハルト・アルヴィン・エルンスト」
舞姫』エリスの亡くなった父親の名と同じ

 

第2章 ままならぬ思い
1 鷗外の再婚をめぐって
エリーゼの帰国後、母に押しきられ、登志子と結婚
1890年9月、長男於莵が生まれるや、於莵を引き取って離縁
1902年1月、志げと結婚

エリーゼの住所帳
出版年1903、申請年1902まではLucieで帽子製作
出版年1904、申請年1903にはEliseで縫製業に戻している
鷗外の再婚と関係あるのだろうか?

 

2 行きは「姫君」、帰りは「賤女」
独逸の鷗外は充分な資力があったのでは?

エリーゼの一等客室に乗り合わせた人たちの中に生田益雄という留学生。ベルリンの下宿先が鷗外の知己の場所。彼にエリーゼエスコート役を頼んだのでは?

エリーゼの帰りは、最初は一等だったが、途中で二等に変更されている。予算の関係か?

3 モノグラム型とカフスボタン
「ぼ鈕」(ぼは手偏に口)という詩にみるベルリンで買ったぼたんへの熱い想い

 

第3章 ベルリン余話
1 橋本春の恋
エリーゼ=賤女説は全くの誤報
また賤女の相手は橋本春とされたが、当時「賤しい女」とは働く女たち、親の資産や夫の収入で優雅に生活するのではない、自ら職業をもち収入を得る女性たちはみんな、当時の上流階級の尺度では「賤女」なのだ。
春も鷗外も普通の家庭のお嬢さんを好きになり、真面目に交際していた。
また春は女が原因ではなく、過度の勉強がたたってしまった。

2 梅錦之丞の忘れ形見

 

3 考証・鷗外の下宿
鷗外第三の下宿は現存しない、という噂は『新説 鷗外の恋人エリス』の中で爆撃を受け破損した家屋の写真が掲載され、それから建物が取り壊された、という噂が一人歩きしたのではないだろうか?p140

ベルリン森鷗外記念館は森鷗外第1の下宿であるという情報、およびマリーエン通り32番地にあった鷗外の下宿がルイーゼン通り39番地から入る造りに建て替えられたという情報は、事実無根だった。p171

 

第4章 うしろ姿が見えてきた
1 エリーゼは結婚していた
エリーゼは38歳で結婚した。
夫のマックス・ベルンハルトはモザイーシュ、ユダヤ人だった。
エリーゼは1953年没だった。

2 妹エルスペス
エリーゼはクララとの二人姉妹ではなく、エルスペスという十歳年の離れた妹がいた。

エリーゼの夫マックスは1918年12月31日に亡くなっていた。

3 地図を広げた石の段
鷗外ら家族が使っていた日在(ひあり)の別荘
鷗外は亡くなる前年(1921)、そこの川岸でわざわざ夜に地図のようなものを広げて、提灯を置いてしきりに何か探していた。
ベルリンの地図で、妻を傷つけないために隠れて探していたのではないか?

 

第5章 あともう一歩
1 ユダヤ人墓地へ
エリーゼの妹エルスペスの夫の名はリヒャルド 

2 『普請中』と『即興詩人』
『普請中』は再会に見せかけた隠れ簑?
妻を安心させるため? 

3 マックスの墓
ユダヤ人墓地のマックスの墓
他の墓石には、故人の名前と日付だけ記したものが多いなか、マックスの墓には「私の愛する夫マックス・ベルンハルトは、ここに、神のもとに安息する」と刻まれていた。p274

 

第6章 その面影に
1 「暗号」の幻
エリーゼが住所帳に「ルーツィ」と名乗っていたことが妙に気にかかった。もしかして「ルーツィ」はふたりの間で決めた暗号だったのではないかと。p288

2 ああ、ルーツィ! ルーツィだ
エリーゼの妹エルスペスの息子クルト
そしてクルトの息子フェターさんにたどり着く

3 エリーゼの写真
フェター家を訪問。エリーゼの日本風ティーセット、エリーゼの写真を見る。
ルーツィと呼ばれていた理由は不明
エリーゼが日本に行ったことは知っていた。
子供はいない、と即答したが…
埋葬された墓地も不明
エリーゼは二つ目の名前からマリーとも呼ばれていたため、マールチェンとも呼ばれていた。
長女の茉莉はそこから来ていた?

 

終章 つらいことより喜びを
1919年1月1日付のベルリナー・ターゲブラット紙に掲載されたマックスの死亡広告
冒頭に死亡広告には見られない「書状に代えて」の一言
ルーツィだけでなく、旧姓のヴィーゲルトも書いてある
広告の多くは葬儀の場所を知らせるだけだが、エリーゼは住所も書いてある。
そしてこの新聞は鷗外が定期購読していた。

1944年3月、第二次世界大戦中、エリーゼからエルスペスに書かれた手紙。
このような苦しい状況でも、二度も「幸せ」という言葉を書いている。なんと強い、なんと美しい精神の持ち主なのだろう。
鷗外も彼女のこういったところに惹かれていたのではないか。

 

すごいトシヨリ散歩 池内紀・川本三郎 編

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すごいトシヨリ散歩 池内紀川本三郎 編 表紙

 

すごいトシヨリ散歩
池内紀川本三郎 編
毎日新聞出版 発行
2021年11月5日 発行

ドイツ文学者、エッセイストの池内紀さん(2019年8月逝去)と、評論家の川本三郎さんによる対談集です。もとは月刊誌『望星』で2016年9月号から2019年9月号に連載されていたものです。

普通、ヨーロッパの都市の真ん中は「旧市街」といわれるいちばん古い地域で、王宮や官庁など由緒ある建物が集まっている。ところが東京の中心は、巨大な空間に一家族だけが住んでいる。中世や近世ならそれもわかるんですけど、21世紀の神話みたい。これにも外国人は驚きます。p22

一つ目小町
有名な町の、一つ隣にいいところがあるという見方。
忠臣蔵で有名な播州赤穂の隣に坂越(さごし)という町がある。赤穂は昔から塩の産地だが、その塩の積み出しを行っていた港町。p32

 

山形は井上ひさし丸谷才一藤沢周平などたくさんの文学者を輩出している。ところが隣の秋田県からはほとんど出ていない。山形の人に言わせると、理由は簡単で、戊辰戦争のときに山形を含めて奥羽越列藩同盟が負けたから。東北では秋田の佐竹氏のところ(久保田藩)は官軍側で、維新後は立身出世の道が開けた。かたや山形の庄内藩は負けた方だから、出世の道が閉ざされたため文学の方へ行った。p35

日本を大きく分けると、国の動向を察知し、それに即して動くところと、それはそれとして、自分たちはこうだからと、国の意向にはすぐには従わないところがある。ぼく(池内)のふるさとは、わりと前者の方で、版籍奉還の第一号が姫路藩。時代を見る目が早かったのかと思いきや、そうではなくて、潮目を見て、さっと舵を切り換えたらしい。p36

龍野がいいと思ったのは、姫新線本竜野駅を降りると、駅の周辺はスーパーや市役所が集まる新しい町で、揖保川を渡ると旧市街になっていること。新しいものと古いものの住み分けがちゃんとできている。p37

 

菅江真澄の旅は仕事ではなく、目的は特になし。自分では、神社・仏閣、珍しいものを見て回りたいとだけ述べている。旅費などお金のことは、いちばんわからない。p170

菅江真澄は18世紀の半ばから19世紀の人ですけど、ゲーテと生没年がほぼ同じで、ゲーテのイタリア紀行と同じように小さな町町を旅している。p172

菅江真澄は和歌の技能者であり、薬草に詳しかったよう。新しい町に来ると、必ず医者を訪ねている。おそらく、それを生業としていたのではないか。p173-174


高峰秀子曰く
「大スターなんて、なるもんじゃない。女優でいちばんいいのは、脇役。いまいちばん幸福な女優は誰かっていうと、沢村貞子さん。あの方はたくさんの映画に出ているから、出演料はいっぱいもらっているし、大スターじゃないから出費も少ない。ああいう人が、実はお金を持っているのよ」p184

最近は、自分(川本)よりも若くして世を去っている作家には興味がなくなってしまった。芥川や太宰は70代を経験していない。その点、荷風や谷崎は、70代を経験している。p269

 

ドゥ・ゴール 佐藤賢一 著 (後半)

第6章 フランス共和国臨時政府 
ローズヴェルトの戦後構想では、アメリカ、イギリス、ソビエト連邦、中国による「四大国の執政官政府が諸々の問題を取り決める。国際連合の議会が、この四大国の権力に民主主義的な様相を与える」というものだが、そこにはフランスは含まれていなかった。p182

アルザス、ロレーヌを取り戻せば、それで十分なのではなかった。少なくとも「偉大でなければフランスではない」と考えるドゥ・ゴールには受け入れがたい。仮に敗戦国でなくなったとしても、まだ戦勝国ではないからだ。勝ったと声を大きくしたいなら、フランスは他の連合国に増して、ドイツに攻め入らなければならないのだ。p198
その結果ヤルタ会談で、フランスにドイツにおける占領区域のひとつが委ねられた。
また国際連合においても安全保障理事会常任理事国の席が与えられることが決まった。p201

ヴィシー政府のみ代表されていたら、フランスは戦勝国になっていなかった。
ジローの政権が続いていたら、アメリカの傀儡国家になっていた。p210

 

第7章 第四共和政 
政界から引退し、シャンパーニュの片田舎、コロンベ・デ・ドゥー・ゼグリーズに退いたドゥ・ゴール
しかし1947年4月7日、ドゥ・ゴール人気の高いストラスブールでフランス国民連合(RPF)が結成され復活

アルジェリアは他のどんな植民地とも違っていた。すでに百二十年余の歴史があり、地中海の対岸という地理的な近さがあり、フランスと一体であるという感覚は、もはや揺るがなくなっていた。p229-230

アルジェリア問題をきっかけに、ドゥ・ゴール待望論が再燃

 

第8章 第五共和政
1958年6月4日、アルジェリア総督府のバルコニーに進んだ。その大きな身体で長い腕をいっぱいに伸ばし、V字を作るという得意のポーズを見せたから、もう人々は増すばかりの期待感に、いっそうの歓呼を叫ばざるをえなくなったのだ。p248
(ペクレスさんも、大統領候補に指名された時、同じようなポーズをしていたかな?)
 
戦勝国国際連合常任理事国フランス、その地位の危うさが1956年のスエズ動乱で顕れた。だからこそ、アルジェリアを譲れなくなってしまった。

アメリカと距離を置いて、なお一等国たる地位を保つためには、政治的、経済的、軍事的にドイツと連帯するのが、ドゥ・ゴールの構想だった。p271

ドゥ・ゴールは核兵器の開発を叱咤した。金に糸目をつけない急ピッチの開発だった。p274

 

第9章 アルジェリア問題
1961年のアルジェリアの反乱は終息。
ドゥ・ゴールは声だけで叛徒と戦い、それに勝利した。
それゆえ「トランジスタの勝利」と呼ばれる。p289

何度もテロの標的になるドゥ・ゴール
1962年8月22日のテロ未遂が一番危なかった
仕事鞄の中の亡き娘アンヌの写真の金属製の額の縁で、また別の弾丸が止まっていた。p299

 

第十章 偉大なるフランス
学生運動に対するドゥ・ゴール
以前ならデモでも、暴動でも、クー・デタでも、扱いを取り違えることなどなかったと。それが見通し甘く、無理押し一辺倒になったあげく、事態を悪化させたとするなら、おかしいと。政治家としての力が落ちたのかと。じき七十八を迎える男の、これが老いというものかと。p326

エピローグ
ドゥ・ゴールの墓はパンテオンではなく、コロンベ・デ・ドゥー・ゼグリーズに置かれている。墓石にはシャルル・ドゥ・ゴール(1890-      )とだけ刻み、あとは何も刻むなかれ、と遺言に書かれていた。
(森鷗外の墓を思い出した)

 

ドゥ・ゴール 佐藤賢一 著 (前半)

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ドゥ・ゴール 佐藤賢一 著 表紙

 

ドゥ・ゴール
佐藤賢一 著
平成31年4月26日 初版発行
(株)KADOKAWA 発行

今のウクライナ情勢を見てまず思い出したことは、第二次世界大戦でのナチスドイツに攻められたフランスでした。その時に亡命政権を作り抵抗したドゥ・ゴール(ドゴール)たちのことが気になりました。今までは書物や映画「ジャッカルの日」や「BON VOYAGE」で断片的には知っていたのですが、改めて一冊の伝記で彼の一生を通読したくなりました。
この本はドゥ・ゴールの激動の人生を分かりやすく書いてくれています。やはりフランスでは、ウェルキンゲトリックス(ヴェルサンジェトリックス)、ジャンヌダルク、ナポレオンと並ぶ英雄だなぁと思いました。
書名のドゥ・ゴールですが、こちらの方が実際のフランス語の発音に近いです。deを日本語では「ド」と表記していることが多いのですが、一文字でシンプルとはいえ、発音的には違和感がありました。この書名のようになるべくフランス語発音に近い方を表記してくれる方が、言語間の齟齬が少なくなり望ましいと思います。

 

第1章 反逆児
第一次大戦では大半を捕虜として過ごしたドゥ・ゴール。それでも五回も脱走を試みている。

ドゥ・ゴールはフランス史上の人物には珍しく、女性関係の醜聞とは無縁で通した。ナポレオンやミッテランも艶福家で、かえって月並みな感じがある。ドゥ・ゴールの潔白こそ類例がなく、むしろ秀でた印象だ。p30
(あとはマクロンさんくらいか・笑)

 

第2章 六月十八日
実際のところ、ペタンによる降伏の意思表明はフランスにおいて、必ずしも反感をもって受け止められたわけではなかった。フランスでは厭戦気分が強かった。勝ったとはいえ、死者百五十万人を出した第一次世界大戦は壮絶な戦いだった。あんな目に遭わされるなら負けた方がマシとする判断も、フランスにはありえたのだ。p67

1940年6月18日、ロンドンのBBCからフランスに向けて放送を行ったドゥ・ゴール。その時はまだ無名に等しかった。

「将軍、音声のテストをお願いします」
「フランス」
「完璧です。これで準備ができました」p70
(いかにもドゥ・ゴールらしいマイクテストですね)

 

第3章 自由フランス
ドゥ・ゴールの政権名 自由フランス(La France libre)

植民地を用いるドゥ・ゴールの作戦
北アフリカには多くを期待できなかったが、カメルーン、チャドなど、いわゆる「黒色アフリカ」はドゥ・ゴールの呼びかけに感触は悪くなかった。

第4章 戦うフランス
ジャン・ムーランの首の赤いスカーフ
1940年6月、占領のドイツ軍にドイツ兵の罪を擦り付けられるような声明文に署名を迫られるが拒否。拷問に負けて署名してしまうのを恐れ、ガラス片で喉を裂いて自殺未遂
占領されるとは、こういうことだ。軍政が敷かれるとは、こういうことだ。p117

 

第5章 フランス国民解放委員会
為政者は簡単に軍政を敷くというが、敷かれる方の国民にはひどい。要するに無防備で抵抗の術もないような人々を、武装の兵士が支配する。理由もない暴力が、日常的に加えられる。p161

マキ
元はコルス島の原生林のことだが、転じてフランス国内でも森や山林に潜んで、神出鬼没のゲリラ活動を行うレジスタンス運動の意味p164

 

100年かけてやる仕事 中世ラテン語の辞書を編む

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100年かけてやる仕事 中世ラテン語の辞書を編む 表紙

100年かけてやる仕事
中世ラテン語の辞書を編む
小倉孝保 著
2019年3月22日 第1刷発行
プレジデント社 発行

第Ⅰ章 羊皮紙のインク
中世ラテン語で書かれたマグナ・カルタ

英国で中世ラテン語の辞書づくりが始まったのは1913年
英国の知識人はそれ以前、1678年作成の『中世ラテン語辞典』を使用
フランス人ラテン語学者、デュ・カンジュにより編纂

第Ⅱ章 暗号解読器の部品 
英語の場合、面白いのはラテン語から直接影響を受けた言語とフランス語を経由したものがあり、そのため二つの言葉がよく似た意味で使われるケースがある。
secure ラテン語から直接英語
sure フランス語を経由
由来はラテン語のsecurus p37

 

第Ⅲ章 コスト削減圧力との戦い

第Ⅳ章 ラテン語の重要性
一般向けの中世ラテン語辞書がほとんど出ていない理由
・中世ラテン語には古典のような基準点がない。中世はその期間が長いため時代や地域によって文法、語彙、綴りが異なっている。今回英国がつくった中世ラテン語辞書は文献の対象を英国に限定し、期間をはっきり区切った。
・教育課程の問題。教育的需要がない 

第Ⅴ章 時代的背景
『英国古文献における中世ラテン語辞書』の対象となったのは6世紀中旬から17世紀初頭までの文献。
主なテーマには国家や都市の歴史、法律、税務記録、科学や哲学の発表、詩など p104

 

第Ⅵ章 学士院の威信をかけて

第Ⅶ章 偉人、奇人、狂人
国際社会において英語が確固たる地位を築いたのはここ二百年にすぎない。
1066年イングランドがノルマン人に征服される。ノルマン王族はフランス語を話していた。そのためイングランドでは支配層はフランス語、一般市民は英語を使うという言語の二重構造が出来上がった。さらに知識層は書き言葉としてラテン語を使用していた。

英国の辞書の父、サミュエル・ジョンソン(1709~1784)
彼の英語辞典に見え隠れする遊びの精神は『新明解国語辞典』(三省堂)に影響しているように思われる。

OEDの目的は、その言語の意味を知ることよりも、その言語が使われてきた歴史的背景を知ることにある。p161

 

第Ⅷ章 ケルト文献プロジェクト 
『英国古文献における中世ラテン語辞書』の兄弟プロジェクトである『ケルト古文献における中世ラテン語辞書』

「イングリッシュ」とはあくまでイングランド人を示し、「ブリティッシュ」には「ブリテンの人々」「ブリテン語を話す人々」という意味がある。つまりケルト系民族を含む言葉p172

言語はその地理的要因に強い影響を受けるという。 
ローマ地域には沼地が少なかったため、アイルランドの人々は沼地を表すラテン語を自分たちでつくる必要があった。
またローマの中心は地中海で内海であるため潮位の変化が緩やかであるため、古典ラテン語には潮位を表す言葉が1つしかなかった。それに対し大西洋など外海に面したケルト人は潮位の変化を表現するため自ら言葉をつくる必要に迫られた。p178

ケルトの辞書の方はプロジェクトが遅れてスタートしたため、ケルト古文献をすべてコンピューターでデータベース化し、そこからコンピューターが言語を探してくる。

 

第Ⅸ章 日本社会と辞書
日本の辞書の歴史は古い
平安時代の830年以降にできたとされる『篆隷万象名義』
空海が編集、漢字の説明書という側面が強い
930年代に生まれた『和名類聚抄』
中国語・漢語の理解を最大の目的とする。

中世の人文主義者、ソールズベリーのジョンはラテン語の自著『メタロギコン』の中で、12世紀のシャルトル学派総帥、ベルナールの言葉を孫引きするかたちでこう記している。
〈私たちは巨人の肩の上に乗る小人のようなものだとシャルトルのベルナールはよく言った。私たちが彼らよりもよく、また遠くまでを見ることができるのは、私たち自身に優れた視力があるからでもなく、ほかの優れた身体的特徴があるからでもなく、ただ彼らの巨大さによって私たちが高く引き上げられているからなのだと〉p252-253

「巨人の肩の上に立つ」ためにも先人たちの成し遂げた業績を理解する必要がある。英国人の中世ラテン語辞書にかける思いは決して過去の言葉を固めるためだけではなかった。人々が前に向かって進むために必要だったのだ。p256

第Ⅹ章 辞書の完成
「英国古文献における中世ラテン語辞書」プロジェクトは2014年9月に終了。辞書自体はその前年末に完成。

 

鷗外の恋 舞姫エリスの真実

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鷗外の恋 舞姫エリスの真実 表紙

鷗外の恋 舞姫エリスの真実
六草いちか 著
2011年3月8日 第一刷発行
講談社

森鷗外の「舞姫」のエリスのモデルとなった女性の真実を、現地ベルリンで挫折を繰り返しながら探索した、貴重な記録です。

鷗外の実の妹である小金井喜美子によるエリスのイメージ
美人ではあるが、人の話を真に受ける、どこか足りないと思えるほどお人好しの哀れな女。エリス=路頭の花
この虚構が崩れるきっかけ
星新一(ショート・ショートで有名・小金井の孫)による『祖父・小金井良精の記』
この本により、エリスは名前を失い、喜美子は信用を失った。
そして翌年1975年、石黒日記が発表
この中で、鷗外は石黒に恋人の来日予定を報告するなど鷗外の苦悩がわかる。
1981年、海外航路の乗船員名簿から、鷗外の恋人の名Elise Wiegertエリーゼ・ヴィーゲルトを発見

 

エリーゼは一等船室に乗っていたことにより、旅費は誰が払ったかという問題
エリーゼ=裕福な家庭の娘」説も出てきたが、鷗外が支払う余裕もあったかもしれない。

エリーゼ=賤女」説はドイツ滞在中の小池正直が石黒に宛てて送った手紙が朝日新聞紙上で省略され過ぎたためによる誤報

エリーゼユダヤ人人妻」説は1989年のテレビ番組が発信源
名前が似ていただけ。船室名簿ではすべて未婚のMiss
番組内でさらし者にされた、エリーゼ・ワイゲルトさんが気の毒

更なるユダヤ人説について
ヴィーゲルトという姓自体、六十万人のユダヤ人の中でわずか五人しかいなかった。
そしてベルリンにはユダヤ人街、いわゆるゲットーは存在しなかった。

 

ドイツの名付けの習慣では、現代でもファーストネームを二つ持つことはよくある。戦前までは当然だった。鷗外の時代には最低でも二つ、一般的には三つ、中には五つ以上も持つ人もあった。p93

エリーゼは森家によって追い返されただけで、喜美子も「旅費、旅行券、皆取り揃えて、主人が持っていって渡した」と書いていることから、出発時点では片道の日本行きだったと考えるのが妥当p116

調査に行き詰まった時、エリーゼの立場で考えてみる筆者
…ハンカチイフを振って別れたのは私がバカだからじゃない。あれは精一杯のプライドだった。金さえ握らせれば片が付くと思っている小金井のような男の前でなど絶対涙を見せたくなかった。私は負け犬ではない。毅然と帰ってきたのだ。だから泣き暮らしてばかりいないで仕事を探した。…十年後にはしっかりとした生活を送っている。で十年後の資料を調査する。p136

 

舞姫』発表時、鷗外のペンネームは「鷗外漁史(ぎょし)」だった。
ベルリンのシュプレー川沿いの料理店から、何舟もの小船が岸に寄せられひしめきあう様子や、飛び交うカモメを眺め、その姿を自分になぞらえ、外国から来た鷗、魚ならぬ西洋文学という史(料)を獲る鷗になぞらえて、「鷗外漁史」の名が生まれたのでは、という筆者の説
1870年以降、鷗が渡り鳥としてベルリンに飛来しシュプレー川で越冬しているとの記録も確認済みp225

堅信礼
12、3歳になると子どもたちは教会の聖書学校に通いはじめ、その後、クリスチャンであることを自分の意思で表明する儀式。
教会簿には洗礼などと共に記録に残っている。

 

エリーゼのフルネームはElise Marie Caroline Wiegert
1866年9月15日、シュチェチン生まれ、その後一家はベルリンに落ち着いた。p278
(シュチェチンは現ポーランド。自分がベルリンに行こうかと計画を建てていた時、国境を越えてこの街に行けないかなぁと思った記憶がある。結局ベルリンには行かなかったが)

鷗外の子どもの名前
杏奴(あんぬ)Anne
妻の反対にも関わらず鷗外が妻に隠れて届けを出した。 
エリーゼの妹アンナAnnaあるいは祖母のアンネAnneから?
茉莉(まり)Marie
エリーゼの二つ目、あるいはエリーゼの母親マリーMarieから?p288

エリーゼは当時の法律では21歳は成人であり、日本に行くにあたり親権者の承諾の必要はなかった。p292

 

鷗外はマルセイユの港からフランス船で帰朝し、エリーゼブレーメンの港からドイツ船で来日。
コロンボでは鷗外の10日後にエリーゼが入港しており、その時に託すべき本を残していた。
この一冊の本は、エリーゼが日本へと向かって来ていることを鷗外が好意的に承知していたことを裏付ける重要な証拠では?p295

帰国時のエリーゼが憂いを見せなかったのは、プライドと精神を持ち合わせた女性だったからだと思っていたが、実はエリーゼは本当に憂うる理由がなかった、つまり鷗外はとりあえず騒ぎを収めるためにエリーゼを帰国させたが、すぐにエリーゼの後を追うつもりでいたのではないか?p300-301

 

エリーゼが穏やかに帰って行った理由が鷗外との約束にあったとしたら、ベルリンで鷗外を待っていたエリーゼは、鷗外の結婚をどのようにして知ったのだろう。
エリーゼが帰国した2ヶ月後、鷗外の親友、賀古が、実際に山縣有朋随行して欧州視察へと旅立っている。
ベルリンを訪問した際、賀古はエリーゼを訪ねているのでは?p311

これまでの各氏の研究の中で、十分な調査が行われていなかったものとして教会簿調査を挙げることができる。
第二次世界大戦でほとんどの資料が焼失してしまったベルリンで、豊富な情報がそこに残っていた。p321

 

柳田國男 その原郷

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柳田國男 その原郷 宮崎修二朗 著 表紙

 

柳田國男 その原郷
宮崎修二朗 著
1978年8月20日 1刷発行
朝日選書 115

柳田(松岡)國男の辻川成育時代にとどめた、幼少年体験を綴っています。地図や写真もありますので、この本片手に辻川のある福崎町を探訪したくなってきます。ただ、四十年前ほどの本ですので、現在とはかなり街並みも変わっていると思います。
なお、著者は『故郷七十年』の口述筆記の作業に、わずかながら携わっていました。

旅の原点
十歳のとき、日光寺山に登る。その山頂が恐らくは柳翁にとって最初の旅の場だった。
初めて海を見る、といっても、五月の夏霞に遮られて、家島は見えたものの、ただ藍鼠色の、夢のかたまり見たようなものであった。p6

 

先祖の話
明治二十年にふるさとを後にして以後、帰郷したのは13回ほど。
展墓よりも氏神詣でがなぜ先行していたのだろう?
柳翁は仏教徒ではなかった。神道の家系に成育した者として墓に対する「死者崇拝」ではなく、氏神を通しての「祖霊崇拝」を重んじた人だった。p20-21 

明治三十年七月第一高等学校を卒業し、九月に東大に入学して、農政学を学ぶ。当時、東大では松崎蔵之助がヨーロッパ留学から持ち帰った農政学の講義をしていた。p33

 

辻川あたりの紀行文   
上田秋成の「秋山記」
羽倉外記の『西上録』 
天保十七年五月、水野忠邦の幕僚(納戸頭)として、江戸から生野銀山の視察に赴いた際のもの
姫路から市川沿いに北上
当時姫路藩の家老河合寸翁が設けた飢餓備蓄の「固寧倉」が出てくる。
國男は固寧倉についての質問を父に発したのではないか。135-136

 

くにょはんの幼年絵帖
〈春〉
若い酔っぱらいが、門の前で大の字になり、何かを怒鳴って動こうとしなかった。彼はしきりに「自由の権」という言葉を連発した。
それを聞いて以来、自由という言葉が嫌いになる柳翁。自由とは、本当の意味では我が儘を通すということでは?p153-154

くにょはん時代の言語生活は、言葉のしつけにきびしかった母の規制と、儒者であり平田篤胤の流れをひく国学者であった父の解説が、日常生活の中で施されていたこと。この二つが柳翁の学問の原郷の一部では?p171

 

〈夏〉
十歳の初夏、くにょはんは日光寺山の頂上から家島と帆掛船を見る。島影が藍鼠色の夢のかたまりにしか、とらえられなかった。
気落ちしながらも、くにょはんは幼心に確かな決意を固めた。
憧れの心情が、ようやくここで人生の目標という具体性を帯びた形を結びはじめた。p186-187

その三年後の晩夏九月一日、くにょはんはまさめに海に接する。
須磨に近い海辺だった。
西洋人が海水浴をして、女が裸になってサルマタみたいなものをつけて海に入っていく風景。p188

『定本』の総索引に当たると、柳翁の犬に関する記述項目の多さに目を見張る。幼少年期の犬に関わった体験にそれは無意識にしろ関わることなのだろう。p195

 

〈秋〉
くにょはん自身、神隠しに類した事件の主人公になった経験が三回もあった。
四歳の秋もかかりの季節、辻川の東南に当たる荒野の西光寺野の中の一本路を、南に向かってすたすた歩いていた。
それから三、四年後の秋、茸狩に行った時、神隠しにあったような心理にとらわれた。
やはり七、八歳の頃、青年のいたずらで突然連れ去られ、神隠しのような目にあった。

兄の通泰は二年おきに三、四回帰郷したが、その時ドイツの童話をくにょはんに話してくれたことがあった。あとで考えると、グリムのそれを原書で読んでいたものだった。p225