父 柳田國男を想う

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父 柳田國男を想う 表紙



父 柳田國男を想う
柳田為正 著
筑摩書房 発行
1996年4月25日 初版第1刷発行

柳田國男の五児の唯一の男子であり、理学博士である著者が、長男から見た父柳田國男の想い出を述べています。

世間の評者間には、父の書くものに文学的側面から関心をもたれる向きが多かったようだが、本人自身の積もりでは、多分に人性の客観的・合理的探求を目指していたかに覚えてならない。第一その文体なども、一見持ってまわった晦渋な行文のように見えて、その実本人の念頭には、ヨーロッパ語文脈の道標が貫いていたかのようだ。だからかれの書き物の欧語訳は、やってみれば存外(ある意味で)楽な作業となる可能性もあったはずと思う。p26

父の仕事の“科学的”“実証的”な面をいって下さる向きも多い。父が“方法論”の勉強をどのようにしてやったかは、私はついに知らなかった。ただ、フランス語について、フランス語の会話は難しい(ジュネーブで散々苦労)が、科学のフランス語文は単純で読みやすいものだ”ということをたびたびいっていたし、フランス科学からの感化をどこかで受けていたのではないだろうか?p41 p69

父が貴族院書記官長だった時の思い出は、書記官長公室内に漂う船来たばこの香りだけだった(当時著者4歳)

関東大震災の時、ジュネーブ国際連盟事務局も休暇中で、父はたまたま英本国旅行中だったが、東京の大地震の記事で富士山は爆発消失、江の島も水中に沈没したとのニュースが入っていたとか。p59
(今風にいえば、フェイクニュースですね)

市ヶ谷から成城に移った柳田さん
かねがね念願の仕事部屋ができて満悦だったが、養父養母への心づかいもあって、妻や娘たちはあえて引き連れず、市ヶ谷の旧居に残した。
そして國男さんと、学校が近くなる著者と、家事担当の野沢氏と、岡氏の男4人所帯となるが、2年で終わり、結局家族を呼びよせることとなる。

成城の家は、大正12年晩秋に欧州づとめから帰宅した柳田さんが、子供らが掘り炬燵にかじりつく姿を見て愕然とし、それがこの新居の設計にさいし全館温水暖房用ボイラー設置の敢行につながった。p96
(自分の欧州時代は古い下宿だったが、それでも床暖房のおかげで、冬は快適だったのを思い出す)

ジュネーブ在勤経験のいま一つの所産は、エスペラント語熱で、これは当時フランス語専横だった国際舞台への反応だった。夕食後の団らん時に、子供たち相手に、エスペラント語のレッスンを試みていた。p138

柳田の田は濁らない。著者の知っている柳田は、聞いてみるとみんな濁らない。p139

柳田さんが眠れない時は、天井板の碁盤目を眺めて、新聞とかに出ている詰め将棋や連珠を解きながら眠っていた。p162

柳田さんはリヴィング・シング(生き物)が好きだった。
さいころ、辻川のお堂の下にいた子犬を選んで、自分で飼っていた。
また野鳥も好きだった。p169

柳田さんが息子に自然科学をまずやれということは、それを専門にしろという意味ではなくて、基礎教養のつもりで勧めていた。p181

シャンティイ城のフランス式庭園

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シャンティイ城から見たフランス式庭園など

 

シャンティイ城のフランス式庭園の画像です。
まずどこから撮ったかということですが、どうやら城内部からのようです。
濠が広がり、その向こうがフランス式庭園となります。
この庭園もお馴染みのル・ノートルにより設計されています。
五つの池のような水面があり、上下には円、左右には楕円、そして中央に短辺が曲線の長方形が設定されています。
現地でもらったフランス語のチラシをみるとLes Miroirsと書かれていたので、鏡を表現しているのかもしれません。
そしてこの庭園の左端に上下に伸びている小道は「哲学者の小道」(L'ALLE DES PHILOSOPHES)と呼ばれています。
これはラ・フォンテーヌ、ラ・ブリュイエール、ボシュエ、モー司教、ド・ラファイエット夫人、セヴィニェ夫人らが交流する文学サークル参加者にちなんでそう呼ばれたそうです。
大運河を越えたところに芝生が広がっています。
そのエリアはLE VERTUGADINヴェルトゥガダンと呼ばれています。
この元の意味は、15世紀末のスペイン宮廷モードに由来し、婦人服のスカートを広げるために用いられた枠つきのペティコート、とのことです。
よく当時の女性の肖像画で見られる、幅広いこんもりとしたスカートの元です。
それから転じて?(形から由来するのでしょうか?)、テラスなどに使われる芝生地、という意味もあるそうです。
ちなみにグーグルマップを見ていると、城のすぐ近くに同名のレストランがありました。

(ニコラ・ガルニエ シャンティイー を参考にしました)

シャンティイのグランシャトーへいらっしゃい!

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シャンティイ城のグランシャトーとプティシャトー

 

「古の写真でめぐるフランス」シリーズ、今回からはシャンティイになります。
訪問したのは2001年の1月です。天気は良かったのですが、冬で、なおかつ緯度の高いフランスということで、太陽光線がいかにも斜めという画像になっています。
シャンティイ駅からの途中の写真は以前取り上げていたので、シャンティイ城エリアに入ってからの写真となります。
まずはシャンティイ城の全景から。
城を大まかに区分すると、右側がグラン・シャトー、左側がプティ・シャトーとなります。
何の芸もなく直訳すると、大きな城と小さな城という意味です。
ちょっと工夫すると、大城館と小城館という訳がいいかもしれません。
グランシャトーと聞くと、自分なんぞは京橋のそれ、を思いだしてしまいます。
思わず、♪シャンティイはええとこだっせ♪、と歌いたくなります。(笑)

シャンティイの城を撮る角度ですが、パンフレットとかを見ると運河というか水路というか濠というかに城を反映させている画像が多いようです。
その一つにプティ・シャトーを中心に撮っている画像がありました。
この時はプティ・シャトーが工事中で、その角度は諦めていたようです。
掲載した画像の角度は、ちょうど礼拝堂が中心にきており、城をまんべんなく捉えているように思います。
シャンティイのような城館はどうしても平板な構図に成りやすいのですが、礼拝堂の尖塔のおかげで高さに変化を与えてくれています。
礼拝堂に感謝、です。

東京するめクラブ 地球のはぐれ方

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東京するめクラブ 地球のはぐれ方 表紙

 

東京するめクラブ 地球のはぐれ方
村上春樹 吉本由美 都築響一 著
文藝春秋 発行
2004年11月15日 第一刷発行

村上春樹さんを隊長とする、東京するめクラブが、名古屋・熱海・ハワイ・江の島・サハリン・清里を訪問し、独自の視点で書き、語っています。
表紙の安西水丸さんのイラストも呑気さに花を添えて(笑)います。
サハリンを描いた「サガレン」から、こちらの本にたどり着きました。するめクラブでは2003年に訪問していることもあり、それから15年ほど経た「サガレン」よりも更に、この地のワイルドさを感じます。
それでも夏の七月の訪問のため、サハリンの一番いい時期を味わえたようです。村上さんは以下のように書いています。

 

でもそこはとても素敵な世界の端っこである。こんな深い静けさの中に入ったのは、本当に久しぶりだ。僕は自分の身体の中のスイッチみたいなものを切り、その静けさの中に心を溶け込ませる。そこはとても安らかな世界だ。サハリンに来なかったら、こんなしんとした気持ちにはなれなかったかもしれない。遠くまで来ただけのことはあったな、と思う。地図を見れば、そんな遠くでもないのだけれどね。p280
 

教養としての「フランス史」の読み方

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教養としてのフランス史の読み方 表紙
教養としての「フランス史」の読み方
福井憲彦 著
PHPエディターズ・グループ 発行
2019年10月8日 第1版第1刷発行


この本はまずフランス史を語り下ろして、それを編集するという形をとっているそうです。よって非常に読みやすく感じました。

カペー朝は1328年まで、15代341年間続いた。
これは歴代の王が直系の跡継ぎに恵まれた、から。
これは「カペー朝の奇跡」と呼ばれている。p64-65

フランス革命は従来言われていたような、「古い王政が頑固に市民の自由を抑圧していたので、市民が自由を求めて起こした革命」というほど単純なものではなかった。
むしろ現実は逆で、民衆は当初、強い中央集権のもとでの安定した生活を求めていた。p175

1789年10月から議会の法令づくりがはじまる。
その一つが、中央集権的な行政体制を可能とする、空間の改編。
プロヴァンス/州」を廃止し、「デパルトマン/県」を置いて、行政システム改編の基盤づくりにあたる。p201

 

1790年の段階では、市民・民衆は、革命のリーダー同様、国王のもと立憲王政を目指していた。
しかしルイ16世の情勢を読めない優柔不断な態度や、周囲に流されやすい性格が災いし、フランスが立憲王政の国として生まれ変わる機会を逃してしまった。p221

ナポレオンは歴史の正当な展開の上に立脚し、革命が生み出した「自由」という新たな文明的価値を広めるために占領に来た、という身勝手といえば実に身勝手な論理のもと、行動していた。p252

フランスにとってナポレオンは「ヤーヌス的存在」
独裁者と英雄という、プラスとマイナス両面を持った存在だった。p263
(毛沢東の、功績第一、誤り第二、という評価を思い出した)

 

イギリスは17世紀に政治的混乱をくぐり抜けて、18世紀中にすでに立憲王政の体制を成立させていた。
多くのヨーロッパ諸国が18~19世紀初頭にかけて直面していた様々な問題をすでにクリアしていた。p275

サン=シモン主義
科学技術を発展させることで政治は変わっていく、という考え
ユートピア社会主義とも言われる。p282

ナポレオン3世による第二帝政については時代錯誤的な政権、と考えるのが一般的だったが、最近では、ある種の開発独裁なのではないか、という見方もされている。p296-297

普仏戦争
プロイセンとフランスの戦争だと言われているが、ビスマルクバイエルンをはじめとするドイツ領邦諸国の協力を取り付けていたので、その実態は全ドイツ連合軍とフランス一国の戦争だった。最近では独仏戦争と表記されることも多い。p305

 

フランスにおいては、共和政とカトリック教会というのは、うまくなじむものではなかった。
共和政のスタンスは、あくまで個人の信仰の自由は認めるけれど、宗教がそれ以上の力を国家・社会に行使することは絶対に認めない、というもの。p329

第一次世界大戦
全国から兵士が動員されたために、戦死者の四割は農民、主戦場はフランス北部だった。
ほぼ全ての町や村に、「出征戦没兵士の記念碑」が建てられ、終戦の11月11日には毎年、記念集会がもたれる。1922年からは、この日は国民の祝日として制定されている。p364

世界恐慌の時のフランスは、経済の中心を大企業ではなく、中小企業が占めていた。その分恐慌の影響は少なかった。p376

 

パリ陥落の4日後、ドゴールは自由フランスを名乗り、イギリスのBBC放送を借りて、フランス国内に向けて発信していた。
でも、この時点のドゴールは、まだ軍隊も指揮権も持っていない、ほぼ単身に近い状態だった。軍人としても名を馳せていなかった。見ようによっては誇大妄想の大ぼら吹きに見えても不思議ではなかった。p397

1944年9月9日、ドゴールはフランス解放軍とともにパリに入る。
民間のレジスタンスには、ほとんど無視の姿勢をとっている。これにはレジスタンスが共産党と強く結びついていたのも関係しているのではないか。p399-400

サンジェルマンアンレーから見たラ・デファンスの夕焼け

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夕焼けのラ・デファンス

 

サンジェルマンアンレーを離れる前、再びラ・デファンスを眺めていました。
この間にはセーヌがU型に流れています。
セーヌに育まれた豊かな緑の上に、パリらしからぬ未来都市が浮かび上がっていました。
緑も高層ビルも、平等に夕陽を浴びています。
パリの新市街は、静かに燃えていました。
RERに乗り、たそがれの旧市街に戻ります。
 

十五の夏(下) 佐藤優 著

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十五の夏(下) 表紙
十五の夏 下
佐藤優 著
幻冬舎 発行
2018年3月30日 第一刷発行

上の方は東欧中心だったのに対し、下の方はソ連のモスクワ、サマルカンド、ブハラ、タシケントハバロフスク、ナホトカを訪問しています。
東欧と違い、地元の住民との接触は無く、インツーリストの職員や、日本人旅行者との会話が目立ちます。
食事も美味しそうに描かれており、インツーリストの職員の世話も行き届いていて、他のソ連旅行記に見られるような不快さは、わりと少なく描かれています。

第六章 日ソ友の会
ソ連での抑留や北方領土に関する国会答弁

 

第七章 モスクワ放送局
モスクワ放送局の日本課長のレービンさんとの出会い。インタビュー。

空港で出会ったドイツ人
東欧とソ連は全然違う。見た目は大きく違わないが、ロシア人は中東の人たちに近い感じがする。

第八章 中央アジア
学生運動に幻滅し、高校の教師になった人
政治には固有の悪がある。個人を利用するという発想。学生運動ではセクトの影響が強まって、その都合に付き合わされることになる。p364

第九章 バイカル号
元北大生にそそのかされて、関税をごまかしてしまう筆者。
バレてしまい反則金を払う羽目になる。

第十章 その後
著者自身や、旅で出会った人たちのその後について