歴史探究のヨーロッパ(~第2章)

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歴史探究のヨーロッパ
修道制を駆逐する啓蒙主義
中公新書 2567
2019年11月25日 発行
 
はじめに
14世紀後半から15世紀初頭にかけての、イタリアとアルプス以北の写本作製活動と豊富な蔵書で知られる代表的な修道院が、当時陥っていた知的衰退の悲惨な状況
ボッカチオやボッジオの例
「埃と湿気と鼠こそ、恐ろしい獄につながれた写本を毀損し腐らせる三つの条件
 
第1章 人文主義と宗教論争
ペトラルカはその後の人文主義者のモデルとなる。
その活動は
・同時代の文学作品・活動の純化
・古代の著作家のテクストの発見、編集、賞揚
・歴史的・尚古的研究の推進
 
人文主義者たちは、「永遠の言葉」を伝える言語を純化し、聖書から夾雑物を取り除いて聖書に新しい光をあてようと望んだ。
人文主義は全体としてみると、しばしば言われるよりも遥かに宗教的側面を豊かに内包した思想であった。p21-22
 
第2章 ブールジュ学派の射程
「ブールジュ王国」と言うと、都市ブールジュを中心とした小国という印象を与えるが、決してそうではない。
大まかにいえば、ボルドーを拠点とするギュイエンヌ地方を除外したロワール川以南の南フランス全体が、このブールジュ王国に帰属していたと言ってもよい。p30
 
百年戦争の経過の中で、国民意識の萌芽とも呼べるような心性が国民の中に萌した。
 
1463年、ブールジュの大学は中世最後の創設大学として設立された。
その創設においては。近隣のオルレアン大学やパリ大学が反対した。
 
古代ローマ法が中世ヨーロッパでどのような運命をたどったか?
イタリア半島の外で、ローマ帝国時代に適用された法が、帝国の崩壊の後でもある程度機能した。
・イタリア内部でゲルマン人の一派ランゴバルド人が持ち込んだランゴバルド法の影響を受けながら、か細い水流となって命脈を保ち、実生活の中で継承され教育されてきた。p40-41
 
「モス・ガリクス」すなわち「フランス学派」とは?
16世紀にブールジュに集まったローマ法をはじめとする古代ローマ研究者たちの運動p46-47
 
ギヨーム・ビュデの「君主論
賢明な君主はヤヌスのようになりうる。一つの顔は前(未来)に向け、もう一つの顔を後ろ(過去)に向けるのである。p48
 
ブールジュの法学者たちはローマ法を「流刑」に処するためその研究を行った。
しかし結局は一世紀の時を経てローマ法を骨格とするナポレオン法典の成立をみた。

豪華なアミアンのピカルディ美術館

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ピカルディ美術館内部

 

アミアンノートルダム大聖堂から街中を抜けてピカルディ美術館に達します。
画像はピカルディ美術館の内部を撮ったものです。
手前の彫像の後ろ姿が妙に綺麗です(笑)

 

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 画像でわかるとおり、豪華な内装に目を奪われます。
ピカルディとは、この地方の一般的な名称で、地域圏(州)の名称でもありました。
しかし2016年からは、フランスの地域圏の再編成に伴い、ピカルディ地域圏は合併され、オー=ド=フランス地域圏という味気のない名称になってしまいました。そして行政名称からピカルディの名称が消えてしまいました。
それでもピカルディという名称自体は、長年の歴史の重み故に、今後も親しまれると思われます。
そしてこの美術館はこのところ改装中だったのですが、まもなく3月に再開するとのことです。
ますます美しくなって、よみがえりそうです。

 

 

 

 

 

アミアンの大聖堂のファサードとそばの街並み

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アミアンの大聖堂のファサード

まだアミアンの大聖堂内には入れなかったので、いったん離れます。

街中から大聖堂のファサードを撮っていました。

アミアンの大聖堂のファサードは、他のフランスで見たそれに比べ実に白かったのが印象的でした。

大改修直後の姫路城が白鷺城ならぬ白すぎ城と呼ばれていたのを思い出します。

このアミアンの大聖堂も、背景の白に溶け込むような感じでした。

ただ、どうしても大気汚染や雨のせいで、輝くような白さも時とともに薄れてしまいます。

 

大聖堂という歴史的建造物の近くの街並みもこの写真で見ることができます。

建物は白と茶系統の落ち着いた色で、表示看板は一階に小さく見られるだけです。

目立たなく、非常に落ち着いた感じで、歴史的建造物周辺にふさわしいものとなっています。

この時はコダック富士フィルム、アートギャラリーや自動車学校などの店舗が見受けられました。ちなみにフランスの自動車学校には、実際に車を運転するコースは無いようです。

ただ、最近のグーグルマップで見ると、表示はそれなりに大きくなっていたようです。

この写真を撮った20年前と規制が変わったのか、あるいは単にこの写真の写っている範囲や角度によるだけなのかはよくわかりません。

とにかく、歴史的建造物を極力損なわない街並みを造ってほしいものだなあと、思ってしまいます。

アミアンの大聖堂正面の左右の扉口(フランス)


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アミアンの大聖堂正面の右扉口

アミアンの大聖堂の西正面には、前回の中央扉口の左右両側にも扉口があります。

それぞれ同じような構図でも、登場人物は異なります。

まず右側の扉口から。

こちらは中央が聖母子像となっています。

そして左右に並ぶ像は、旧約聖書に登場するソロモン王やシバの女王の像とのことです。

 

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こちらは左側の扉口です。

こちらの中央の像は聖フィルマンという、アミアンの初代大司教の像であるとのことです。

それゆえこの扉口は「聖フィルマンの扉口」とも呼ばれています。

左側に並ぶ像は別の聖人とかでしょうか。自分の首が斬られた後、その首を持って歩いたとの伝説を有する聖人の像も見受けられます。

これらの像の下には四つ葉型の浮彫が刻まれています。

この浮彫の上段は12か月の星座が表現されているそうです。そして画像には入っていませんが、その下にはその月の労働の様子が描かれているとのことです。

大聖堂の入り口に一般人の労働の様子が描かれることは珍しいそうですが、それはこの地の農民が昔から農業技術に長けていたことに由来するのではないか、とのことです。

 

(週刊ユネスコ世界遺産 第82号 講談社 を参考にしました)

 

 

 

 

アミアンの大聖堂の中央扉口「救世主の扉口」

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アミアンの大聖堂の「救世主の扉口」

アミアンの大聖堂の正面に回ってきました。

まず入り口の彫像に圧倒されます。

これらの彫像は「石の百科全書」と呼ばれているそうです。それぞれに意味をもっているそうです。

正面には三つの扉口があります。

まず今回紹介する画像は、中央の扉口になります。

「救世主の扉口」と呼ばれるそうです。

画像の右下、扉口中央の柱に位置するのはキリスト像で「ボー・デュー」(Beau Dieu 美しい神)と呼ばれています。

その上は、最後の審判を描いた彫刻群です。

キリストの左側の人たちは、キリストの弟子たちでしょうか。

一番手前の本と剣を手に持つ人物は、使徒パウロのようです。

その上の彫像群も、きめ細やかです。

天使のような彫像もありますね。

みんな天に舞っているようにも見えます。

続いてほかの扉口も見ていきます。

 

(週刊ユネスコ世界遺産 №82 講談社 を参考にしました)

ローマ法王 竹下節子 著

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令和元年10月25日 初版発行
 
普段からこの著者の方のブログを愛読していますが、著書を読ませていただくのはこれが初めてです。
ローマ法王についての一般知識、歴史、そして最近の法王についてわかりやすく書かれています。
そのブログによると、今のフランシスコ法王にも生前退位の噂があるそうです。
 
序章 ローマ法王とはだれか
 
第1章 ローマ法王のホームグラウンド
 
第2章 ローマ法王とヨーロッパの歴史
 
2世紀以降、次第に権威を獲得するローマ教会
ローマはペトロとパウロの死の地であり、最初の殉教者の教会であった上に、いわゆる「西洋」に位置する唯一の使徒教会であったから。
カトリック(普遍)という呼称もそのころ生まれた。
 
ローマ司教の権威がローマ皇帝の権威によって傾いてきたころ、330年、コンスタンティヌス帝がビザンティンに帝国の首都を移す。
ローマ皇帝が自らローマを去ったことで、ローマ司教が首長としての権威を名実ともに手に入れた。
 
4世紀の終わりから5世紀にかけて、それまですべての司教に共通だった「父」(papa 教父)という呼称は、ローマ司教の独占状態となる。
 
496年のクリスマス、クローヴィスはランスで洗礼を受ける。
フランスは今でも、クローヴィスの洗礼を建国の日とみなしていて、1996年には建国1500年祭があった。
といっても、これはあくまでもカトリック国としてのアイデンティティであり、フランス革命以来共和主義を旗印にしたフランスには不適当だという論議もなされてきた。
 
グレゴリウス1世の死(604年)をもって、キリスト教の古代時代は終わったといえる。
その後7世紀初めに、地中海世界イスラム教が誕生した。
 
第3章 ローマ法王の盛衰
 
フィリップ4世は1309年に法王庁を南フランスのアヴィニョンに移してこれを完全に支配するようになる。
この期間は法王庁の亡命時代で「バビロン捕囚」にもたとえられるが、実際は、アヴィニョンを正式に買い取って法王領としたし、フランス人法王がフランス王の機嫌だけを取っていればいいので、イタリア諸侯との争いやドイツの皇帝の確執からも逃れ、それなりの平和を享受してルネサンスを先取りするように栄えた。p113
 
カトリック教会の強みとは、民族雑居のヨーロッパの中で、ラテン語を共通語にしながら複雑な権威体系を作り上げて使い分けてきたことだろう。
教会大分裂の危機で法王の権威がなくなっても、必要とあらば神聖ローマ帝国パリ大学という世俗の権威や学問の権威が出てきて事態を収拾にかかるという柔軟性があった。p116
 
ピウス5世(1566-72)はもとドミニコ会士の異端審問官で、白い修道服を着続けて、これまでの君主的法王から精神的リーダーへとイメージチェンジをはかった。これ以来法王は白服を着ることになる。p121
 
1870年のイタリア統一から1929年のラテラノ条約まで
ローマ法王が国家の首長としての俗権力を全く失い、しかし過去のように亡命したわけでなく、ともかくヴァティカン内部で宗教法人として機能していた期間
 
ラテラノ条約によって初めて法王は公式にイタリア国と首都ローマを認めた。
法王はヴァティカンを独立国としてその首長になる。
 
第4章 ヨハネパウロ2世と歴史の激動
 
西ヨーロッパがローマ・カトリックと二人三脚で歴史を築いてきたこと
ポーランドカトリック国であったこと
1978年に初めてのポーランド法王が誕生したこと
この三点は、実はソヴィエト共産主義の終焉を導いた最大の原動力である。
 
第5章 21世紀のローマ法王
 
第6章 ローマ法王と地球の未来
 
新法王は選ばれてから嘆きの間と呼ばれる更衣室で、自分の背負うことになる重荷を前にして一人泣くこととなっている。それからバルコニーに出ていく。p224
神曲第19歌の中のフレーズ「(法王の)法衣がいかに重いものであるか私は一か月余り身にしみて感じた。/それに比べれば他の職責はみな羽のように軽やかだ。」を思い出しました。)

 

 

 

アミアンの大聖堂の羞じらう後ろ姿

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アミアンの大聖堂の後ろ姿

アミアンの駅から、大聖堂方面に向かいます。
そしてまず、画像のような、大聖堂の後ろ姿に出逢いました。
この角度だと何本もの補強用の梁が目立ちます。
もともと大聖堂は神々しさを出すため、内部の高さを追求しています。
更にアミアン大聖堂は東側、つまり後ろ側に縦長のステンドグラスが密集しています。
つまりかなり脆弱な構造になっており、それを補うためには外側の多量の梁、飛び梁が必須です。
梁にも装飾は施しているようですが、基本的には縁の下の力持ち、的な役割です。
威風堂々としたファサード(正面)や横からの姿、更に内部の神秘的な雰囲気と違い、このような角度で見られるのは、恥ずかしいことかもしれません。
でも地味に支えて維持し続ける姿も、やはり一つの神々しい姿であると言えるでしょう。
この姿を心に刻みながら、大聖堂正面に廻っていきます。

(週刊ユネスコ世界遺産 第82号 講談社 を参考にしました)