李陵・山月記 弟子・名人伝 中島敦 著

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李陵・山月記 弟子・名人伝
中島敦 著
昭和43年9月10日 初版発行
平成28年4月20日 改版67版発行
角川文庫

中島敦の本については、以前、家にあった古い文庫本を読んだことがあった。
それには、「宝島」の作家、ロバアト・ルイス・スティーブンスンの南の島での暮らしを述べた「光と風と夢」、そしてこの文庫にもある「李陵」そして「弟子」が書かれていた。旧字体で読みにくかったが、それでも強い印象を残した。
また「山月記」は高校の授業で読んだものだった。
あと「名人伝」などの作品も、一部読んだことがあった。
この文庫の表紙を見ると、若い人向けのようだが、中島敦の内容自体は堅苦しく感じても、無駄のない文体で、かえって若い人にはうけるような気もする。

「李陵」は武人の李陵の運命と、それに絡んだ司馬遷の悲劇。そして第三の男として現れる蘇武という義人。それぞれの人生を描いている。
司馬遷史記の記述において、「作る」ことを警戒するゆえ、「述べる」ことに専心しようとする。しかしそれでは史上の人物はハツラツたる呼吸を止める。
登場人物が乗り移ったかのような生気溌剌な述べ方、異常な想像的視覚で書いていかないと結局彼らが生きてこないのではないか、という思いで書いていく。
その司馬遷の心の動きの叙述が面白い。文中では高校の漢学の授業で学習した「四面楚歌」の場面が例示されているが、確かにこのような文章を書くにおいて、上記のような思いがこめられていたのかなという気がする。

「弟子」において、孔子というプリズムに対して、子路という真っ直ぐな光を投げかける。
明哲保身を最上智と見なす傾向が孔子の中に見えてくる。
そんな子路に対して、尋常な死に方はしないだろうと子路の悲劇を予言する孔子

「悟浄歎異」において、三蔵法師の澄んだ寂しげな眼を思い出す悟浄。
常に遠くを見つめているような、何者かに対する憐れみをいつも湛えているよな眼。
師父は永遠を見ているのではないか。それから、その永遠と対比された地上のなべてものの運命をもはっきりとみている。
(ここを読んで、ランボーの「永遠」の冒頭「もう一度探し出したぞ/何を/永遠を)を思い出した)

昭和6年の夏、中島敦はアマノソウフを勉強した。
天野宗歩とは江戸時代の将棋の天才のことである。