キリスト教と戦争(中公新書)

イメージ 1

石川明人 著 
中公新書 2360
2016年1月25日 発行

軍隊でも、将軍から一兵卒まで、多くの人が祈りをささげる。
それゆえ、祈りを専門とする要員を有する軍隊も珍しくない。
そうした要員を「従軍チャプレン」(military chaplain)という
日本語では従軍牧師・従軍司祭となどと訳され、軍隊に専属の宗教家のことである。

カトリック教会は現在でも軍事行動を全面的に否定しているわけではない。
確かに平和な世界を望み、戦争を悪として強く非難しているが、現状においてはいかなる武力行使を認めないというわけではなく、正当防衛としてのそれは権利であるとともに義務でもあるとして、条件付の軍事行動には肯定的な立場をとっている。

ルターは決して絶対的平和主義者でもなければ、非暴力主義者でもなかった。
エスの平和主義的な言葉について、ルターは誰よりも熟知していた。
しかしそれでも「戦争」を全否定することなく、むしろ時には「大きな不幸を防ぐための小さな不幸」として、人間社会の秩序を維持するために神の命じたもうわざであると考えられる限りでは、肯定していたのである。

旧約聖書の「十戒」の中には「殺してはならない」という戒めがある。
それにもかかわらず、旧約聖書には数え切れないほど戦争や殺戮の話が書かれている。
マキャヴェッリは「君主論」の中で、もしモーゼが非武装であったならば、人々に長い間律法を守らせることはできなかったであろう、とも述べている。

聖書と言うのは、それぞれの人生や社会状況と重ね合わせて読まれる書物である。
人や社会は、同じ教典を読んでいても、様々な人生経験を念頭に、またさまざまな平和を思い描きながら感じ、考え、行動する。
キリスト教徒といえども、誰もが必ず「愛」と「暴力」は矛盾すると考えるわけではないのである。

単純に考えれば、もし最初からすべてのキリスト教徒が「平和主義的」に振舞っていたら、キリスト教徒は絶滅していたか、せいぜい小さなセクトにとどまっていたのではないか。
後のキリスト教は、実際には、異教徒や他教派を迫害し、戦争や植民地支配を行って勢力を拡大し、安全保障にも現実的に取り組むことで、生存し、仲間を増やしてきた。
キリスト教は真理であるから世界に広まったのだ、などと思い込んでいるとしたら、それはナイーブというよりむしろ傲慢である。

人が社会や武力の行使を決断する際には、しばしば次のような三つの先入観が強く働いている。
①諸悪の根源は外来的なものである
②悪は常に意図的である
③今は特別な時代である
しかし、皮肉にも、これら三つの心的傾向は、反戦平和主義者にも当てはまる。すなわち
①戦争は一部の邪悪で好戦的な連中によって引き起こされるものだ
②彼らは自覚的・意図的に社会を戦争に引きずり込もうとしている
③特に今は、そうした勢力が大きくなっている危険な時代なのだ
こういう危機感と使命感は、日常の倦怠からの「癒し」として機能しうる