フン族 謎の古代帝国の興亡史(後半)

アッティラの撃退(ヘリオドロスの間、ラファエッロの間、ヴァティカン美術館)

第六章 アッティラの敗北

Ⅰ アッティラ、アエティウス、西ローマ帝国

Ⅱ ガリア侵入以前の出来事

451年のガリア侵入と452年のイタリア侵入

Ⅲ ガリアから撃退

フン族は気勢をあげてオルレアンを包囲し、撤退を迫る同盟軍が来ないうちにその領内に入った。

しかしアッティラは当時のカタラウヌム平原、現在のおそらくシャンパーニュ全域、へ撤退する。

Ⅳ フン族のイタリアでの失敗

教皇レオ1世を使節団長とする使節団と和解するアッティラ

アッティラがイタリアを離れたのは使節団のおかげではなく、イタリアの疫病や飢饉のためか?

Ⅴ アッティラの死

453年、アッティラは夜遅くまで飲んだ後、ひどく出した鼻血で睡眠中に窒息死した

アッティラは高血圧だったのだろうか?)

Ⅵ フン族の瓦解

アッティラの死後、息子たちは被支配諸国を自分たちのあいだで平等に分割した。

彼らは父が支配した領土を分割したのではなく、その領土を占めていた諸部族を分けた。

Ⅶ 新たな遊牧民、東ヨーロッパへ流入

ステップは大勢の新手の好戦的な遊牧民蛮族にあふれていた。フン族はあわれな残存しか残らなかった。

 

第七章 アッティラ治世下のフン族社会

Ⅰ フン族の富の増大

アッティラは平時においてもまったく独裁的ハーンだった。

Ⅱ 服属諸民族の搾取

Ⅲ フン族社会の女性

Ⅳ アッティラの地位

アッティラだけに家臣がいたのは、王が家臣に十分な報酬を与えられるからだ。

フン族の宴会での飲み物はワインであったが、その後数種のゲルマン族のビールにも馴染むようになった。

Ⅴ 交易

Ⅵ フン帝国瓦解の要因

フン族社会弱体化の最も直接の原因は、大規模な征服がもたらしたフン族軍事力の大分散だった。

 

第八章 ローマの外交政策フン族

Ⅰ プリスクスの社会的考察

Ⅱ テオドシウス帝諸大臣に対する同時代人の批評

Ⅲ 元老院議員、フン族への貢納金支払に反対

Ⅳ 軍事的に困難な遊牧民攻撃

Ⅴ テオドシス帝の歴史的伝統政策

 

第九章 結論

Ⅰ アッティラの偉大さの限界

アッティラは祖先の支配から既成もしくはそれに近い帝国を受け継いでいた。

モムゼン曰く、アッティラの最大の業績は、フン族社会内の中央権力を強化したこと

Ⅱ ローマ帝国フン族支援

Ⅲ フン族ヨーロッパ史

フン族はヨーロッパの発展に直接寄与しなかった。

ゲルマン諸民族を絶滅させ、ローマ帝国へ逃亡させた恐怖以外提供するものはなかった。

 

後記(ピーター・ヒーサー)

トンプソンはとりわけアッティラが天才的指導者であり、その個人資質のみで、フン帝国の突然の興隆と劇的な崩壊の原因となったという意見の仮面を剥ぐことに努めた。p245

 

補遺A フン族の歌

補遺B 441年戦争の諸原因

補遺C ヴァリプス

補遺D 441-443年の軍事行動

補遺E 449-450年に関する年代学的注釈

447年 アッティラ東ローマ帝国侵略

448年 アナトリウスの和平交渉

449年 懸案の諸問題がコンスタンティノープルでエデコ、アッティラの本陣で、マクシミヌスによりそれぞれ論じられる。

450年 アナトリウスとノムスによる完全な平和解決の調停

補遺F アッティラの本陣の位置

補遺G ゴート語と推定されるフン人名

 

訳者あとがき

本書はフン族黒海以北の東ゴート大部隊をはじめて撃破した375年から、453年、アッティラ王の死後中央ヨーロッパから姿を消していく、強大なフン帝国瓦解に至るまでのフン族の歴史である。

著者はアッティラの偉大さはフン族社会への潜在力への際立った洞察力にあったとする反面、その軍事的才幹と外交的手腕については、さまざまな理由を挙げて認めてない。