第4章 家康外交の変遷
スペインやポルトガルだけでなく、遅れてやってきたオランダやイギリスとの関係も積極的に模索する家康
布教をを通じて、日本を支配しようとするスペインの野望を感じ取る家康
メキシコからの使者ビスカイノ
その中で政宗はメキシコとの通商を模索し始める。
マニラ・メキシコ航路が仙台沖を通ることも利用する。
支倉常長の旅
1615年10月にローマ入り。歓迎を受ける。
1616年1月、ローマからマドリードに入った支倉一行に対して、スペイン政府の態度は冷淡になる。
1620年9月 支倉常長がマニラから長崎を経て仙台に帰着
帰着二日後、禁教令の高札が政宗領内に立てられる。
(支倉常長のストレスは、相当なものだったと想像できます。)
政宗のスペインとの軍事同盟説の疑問点
第6章 政宗謀反の噂と家康の情報戦
「仙台陣」の噂
病床の家康と対面し謀反の噂を弁明する政宗
洋の東西を問わず、当時の大名は、国を治める「王」として諸外国から認識されていた。p247
終章
戦国時代の群雄割拠により
・分裂国家。キリスト教勢力による日本征服戦略の働く余地があった。
・戦国大名間の軍拡競争体制
あとがき
日本は当時のヨーロッパ人から「帝国」とみなされていた。
当時の日本は、世界の中でも軍事パワーと政治パワーが突出した存在だった。p274
秀吉が「唐・南蛮・天竺」征服構想は、スペインに対する反抗と挑戦だった。
しかし隣国を蹂躙した歴史は、世界史レベルの因果関係とは別に真摯に受け止める必要がある。p276