戦国大名と大航海時代 第4章~

第4章 家康外交の変遷
マニラだけでなくメキシコも視点に入れていた家康。それが伊達政宗による慶長遣欧使節の派遣ともつながってくる。
スペインやポルトガルだけでなく、遅れてやってきたオランダやイギリスとの関係も積極的に模索する家康

布教をを通じて、日本を支配しようとするスペインの野望を感じ取る家康

メキシコからの使者ビスカイノ

第5章 伊達政宗と慶長遣欧使節

家康のキリスト教やスペイン・ポルトガルに対する拒否姿勢
その中で政宗はメキシコとの通商を模索し始める。
マニラ・メキシコ航路が仙台沖を通ることも利用する。

政宗の宣教師派遣要請は幕府の方針と異なる。それでも政宗が通したのは「布教特区」ともいう考え方

スペインのセビリアに1614年10月、マドリードには12月に到着する。スペインとの通商については保留
1615年10月にローマ入り。歓迎を受ける。
1616年1月、ローマからマドリードに入った支倉一行に対して、スペイン政府の態度は冷淡になる。
1620年9月 支倉常長がマニラから長崎を経て仙台に帰着
帰着二日後、禁教令の高札が政宗領内に立てられる。
支倉常長のストレスは、相当なものだったと想像できます。)

政宗のスペインとの軍事同盟説の疑問点

第6章 政宗謀反の噂と家康の情報戦

「仙台陣」の噂
大坂の陣が終息した後、徳川の最大の難敵は政宗だった。
病床の家康と対面し謀反の噂を弁明する政宗

第7章 戦国大名型外交から徳川幕府の一元外交へ

室町幕府の将軍は大名連合の君主であり、幕府は連邦政府のようなものだった。p240

1582年にスペイン・ポルトガル両国とローマ教皇のもとに派遣された天正遣欧少年使節も、戦国大名と宣教師による独自外交だった。
九州のキリシタン大名である大友宗麟大村純忠有馬晴信の名代として派遣された。特に信長の許しを得たわけではない。p243
洋の東西を問わず、当時の大名は、国を治める「王」として諸外国から認識されていた。p247

伊達政宗と同時期に外交交渉を行っていた佐賀の鍋島勝茂

政宗の遣欧使節、すなわち政宗の外交の失敗こそが幕府による外交権の一元的掌握を可能にした。

支倉の旅行記仙台藩の切支丹所に明治初年まで残されていたが、残念ながら現在は所在が知れない。見つかれば世紀の大発見になるだろう。p259

終章

戦国時代の群雄割拠により
・分裂国家。キリスト教勢力による日本征服戦略の働く余地があった。
戦国大名間の軍拡競争体制

あとがき

徳川家康は「皇帝」で伊達政宗は「奥州国王」
日本は当時のヨーロッパ人から「帝国」とみなされていた。
当時の日本は、世界の中でも軍事パワーと政治パワーが突出した存在だった。p274

秀吉が「唐・南蛮・天竺」征服構想は、スペインに対する反抗と挑戦だった。
しかし隣国を蹂躙した歴史は、世界史レベルの因果関係とは別に真摯に受け止める必要がある。p276