ウクライナの美しい景色 (「私たちの東欧記」より)

「私たちの東欧記」の中に、美しいウクライナの景色を美しい、夢のような文章で表現した箇所がありましたので、ウクライナに平和が戻る願いを込めて、引用させていただきます。最後はオチがついていて、ちょっと笑ってしまいますが。


ウクライナの景色
さっきから汽車は同じところを走っているらしい。窓の外は一時間前と同じ景色がまだ続いている。線路はまっすぐで、全然まがっていない。
線路の両側にはひょろひょろとよく伸びたポプラの木が二、三メートルおきに植えられ、まるで緑の屏風のように立っていた。この木は風よけのためにあるのだろうか。それとも、何かほかの目的のためにあるのだろうか。
ポプラのむこうは果てしなく続く麦畑だった。地平線まで、さえぎるものは何もない。刈り入れ前の麦の穂先が風に波打っているだけだ。ソ連の穀倉ときかされてきたウクライナはまさに黄金の大洋だった。
見はるかす大海原をわたしたちの船は一直線に走っていく。たまに視界に入ってくるのは刈り入れのコンバインで、漁船のように見える。漁船は一すじの線を残してすすんでいく。その線は地平線までつづく、長い長い線であった。
麦畑がおわって、つぎにあらわれたのは、ひまわりの畑だ。映画『ひまわり』のあのシーン。今、わたしは本物のひまわり畑を見ているのだ。真夏のグリーンのなかに、まるい黄色の点々があざやかに目にとびこんでくる。ぎらぎらした太陽に敢然とむかって咲き誇っている大輪のひまわりは、さながら天に向かって輝く地上の星であった。
その先は、とうもろこし畑。しなやかにのびた茎から、幾重にも細長い葉っぱが波のかたちをなしてさがっていた。その葉のつけ根のところに、うすみどりの髪をたらした若い実が宿っている。
汽車の窓からのながめといえば、「まわり灯籠の絵のように」かわるものとしか知らなかったわたしに、地球的規模でひろがるウクライナの畑は、まさに豊穣の海そのものに映った。
うっとりと眺めるわたしのとなりで声がした。
「ねえ、おかあさん、あのとうもろこし、一本もいできて、焼いておしょうゆつけて食べたらおいしいやろなぁ」
子どもの言葉はいつもわたしを夢から現実の世界につれもどす。