中世の覚醒 アリストテレス再発見から知の革命へ

中世の覚醒 アリストテレス再発見から知の革命へ 表紙

中世の覚醒
アリストテレス再発見から知の革命へ
リチャード・E.ルーベンスタイン 著
小沢千重子 訳
紀伊國屋書店 発行
2008年3月31日 第1刷発行

はじめに
12世紀にキリスト教の聖職者たちがムスリムの支配から脱したばかりのスペインの都市で、過去千年近くも西ヨーロッパから姿を消していたアリストテレスの一連の著作を再発見する。
これらの著作は、さまざまな文化を担う学者たちのチームによってラテン語に翻訳され、ヨーロッパ各地に続々と誕生していた大学に広まるや、一世紀におよぶ激しい論争の引き金を引いた。p11

中世盛期の歴代教皇や学者たちは、新しい知識と旧来の宗教のいずれかを採るというより、信仰と理性を調和させることによって教会を新しい潮流に適応させようとした。p13

 

序章 中世のスター・ゲート 西ヨーロッパの覚醒

アリストテレス(前384~前322)の諸々の著作は、中世のキリスト教徒のスター・ゲート(2001年宇宙の旅に出てくる巨大な石柱(モノリス)、惑星間宇宙に広がる未来への入り口)だった。

中世のキリスト教徒が初めてアリストテレスの著作を読んだ時のことをたとえていうなら、現代人が古代のパピルス文書を読んで、恒星間空間の移動法やエイズの治療法が書いているのを発見するようなものだった。
そこに記されていたのは、既存の世界観を覆し、科学を根底から変革し、読者に人間社会の新しいモデルを提示する可能性を秘めた知識の体系だったのだ。p22

信仰と理性の闘争は通説とは異なり、12世紀から13世紀にかけてアリストテレスの思想をめぐって交わされた論争に端を発していたのだ。

ヨーロッパが初めて経験した知的革命の物語は、進んだ思想の伝播に主たる貢献をしたのが非ヨーロッパ文明だったばかりか、よりによってキリスト教徒が古来敵視してきたムスリムの文明だった。
アラブ人が十字軍兵士を野蛮な侵略者とみなし、ヨーロッパ人が恐怖と崇拝、憎悪と羨望の入り交じった思いでイスラーム世界を仰ぎ見ていた。

合理主義的な思考と伝統主義的な思考の雌雄を決する論争は、中世のキリスト教会とそれに敵対する者たちの間ではなく、教会の内部で繰り広げられていた。
教会の枠組みの中で、新しいアリストテレスの学問を擁護する勢力と、それに反対する勢力が闘っていた。p26

 

第1章「知恵者たちの師」 アリストテレスの再発見

レコンキスタ(722-1492)は五世紀初頭の「蛮族」によるローマの奪取に似ていた。というのは、征服された側の社会が、征服した側のそれよりもはるかに進んでいたからだ。p35

トレド大司教ライムンドゥス一世[在位1125-52]は、その真価が正当に評価されていない西洋文化史上のヒーローの一人である。
ギリシャの哲学と科学という知的遺産のラテン世界への導入に貢献するとともに、西ヨーロッパ人がムスリムユダヤ教徒の進んだ思想に接する道を開いた。p41

アリストテレスの著作はまずギリシャで「姿を消し」、
その後ローマで「見出だされた」。
ビザンツ世界のキリスト教徒からは無視されたが、
イスラーム世界では創造的な哲学の華々しい開花を促した。
西方ラテン世界では何世紀もの間読まれることはなかったが、
中世のスペインで発見されるや、ヨーロッパの知の革命の引き金を引いた。p74

 

アリストテレスの著作の際立った特徴は、理性に則って筆を進めていることである。
彼の筆致はあくまで冷静で、一貫して客観的である。
その著述の論調は、教養と分別を併せもった人物が、やはり教養と分別を併せもった人々に語りかける時のそれである。p75

アリストテレスは、地球の外から見るように地球を「見る」方法があると指摘した。
地球が太陽と月の間に入って一直線に並ぶと月食が生じるが、月に映る地球の影は常に曲線を描いている。この事実から、地球は球状であることがわかるのだ、と。p77

 

第2章 「レディ・フィロソフィー」の殺人 古代の知恵はいかにして失われ、ふたたび見出だされたか
紀元430年、病に倒れたアウグスティヌスは、三十年以上も司教をつとめてきた都市ヒッポの悲運を嘆いていた。
その後七百年というもの、聖書とアウグスティヌスの自伝的著作の『告白』を除いては、『神の国』ほど西ヨーロッパ人の思想に大きな影響を及ぼした著作は現れなかった。
神の国』はアリストテレスの世界観を決定的に排斥し、プラトンおよび新プラトン主義者の世界観を受容する立場を表明している。

ローマ帝国の権威が崩壊した時に、西ヨーロッパにアリストテレスの著作の一部がかろうじて残ったのは、主としてポエティウスの努力の賜物だった。p99-100
ポエティウスは自ら難事業に取り組むことを決意した。「手に入る限りのアリストテレスの著作と、プラトンの対話篇すべてをラテン語に翻訳しよう」と。p107

カッシオドルスはあたかもシェークスピアの悲劇に最後に登場して台詞を述べる人物のように、この物語の最後に出てくる。ポエティウスの翻訳書と著書を保管し、ギリシャとローマの著作を蒐集した。
そして南イタリアのスキュラケウム近郊に居を移して、修道院を創設した。これは画期的なことだった。というのは、古代の文書を保管し筆写するという修道院の伝統の嚆矢となったからだ。p114

 

529年、ユスティニアヌス一世はアテナイプラトンアカデメイアを閉鎖した。
この頃にはすでに、ビザンツ帝国の独立心旺盛な思想家たちは、キリスト教徒であると異教徒であるとを問わず、メソポタミアやペルシアに逃れていた。p128
西方ラテン世界のキリスト教徒が祈祷に埋没し、東方ギリシャ世界のキリスト教徒が形式化した論争に明け暮れている間に、ビザンツ帝国ではついに生じなかった文化の覚醒が、イスラームに栄光をもたらしていた。p130

アリストテレスのものの見方が正統派キリスト教の信仰と矛盾することに最初に直面した西ヨーロッパ人の学者は、トレドで翻訳に従事した人々だった。
これはまさに文化と文化を媒介する事業であることを思い知った。p134

 

第3章 「彼の本には翼が生えている」 ピエール・アベラールと理性の復権


1136年、パリのピエール・アベラール(1079-1142)

若き日のピエール・アベラールがパリで学問を始めた時、フランスにはまだ大学と呼べるものはなく、学生が師を選ぶ方法も確立されていなかった。
教師たちは教会や聖堂の付属学校で開業し、その評判と教授の才によって学生を引き寄せ、聴講を認める代価を学生に請求した。
教師や学生が置かれた状況は、十二世紀の西ヨーロッパ全般にいえることだが、混沌として刺激に満ちていた。p176

 

第4章 「そなたを打ち殺す者は祝福されるだろう」 アリストテレスと異端


十二世紀の大半をつうじて、キリスト教圏に属するヨーロッパの哲学者は、アリストテレスその他のギリシャ人の著作を読むのに忙殺され、批判的・独創的・系統的に思索するゆとりがなかった。

インノケンティウス三世と教皇庁の難問
・南フランスとイタリアに根を張ったカタリ派の運動
・西ヨーロッパ全域に広まった福音伝動的な反教権運動
・ヨーロッパに誕生したばかりの大学へのアリストテレス思想の「侵入」p238

インノケンティウス三世が非凡だったのは、このアッシジ出身の高潔な人物(フランチェスコ)には教会の政治的覇権や教義上の主導権に挑戦する気は毛頭ない、と見て取ったことだ。p245

 

ヨーロッパのさまざまな地方から来た学生たちは、共通語としてラテン語を用いていたが、出身地ごとに設けられた「国民団」や、年少の学生を監督するために設けられた学寮で共同生活を営んでいた。
パリ大学には
フランス[ノルマンディー以外の全フランスとイタリア、スペイン]
ノルマンディー
ピカルディー(ベルギー)[パリ北方からベルギーまで]
イギリス-ドイツ[イギリス、オランダとライン以東の全ヨーロッパ]
の四つの「国民団」があったが、民族集団どうしの喧嘩が頻発し、それはしばしば街の通りでも繰り広げられた。p248

 

第5章 「ほら、ほら、犬が吠えている」 アリストテレスパリ大学の教師たち


パリ大学ストライキ

トマス・アクィナスの画期的な業績を貫いている主要なテーマは、「神の恩寵は自然を破壊せず、自然を完成する」という思想だった。p299

 

第6章 「この人物が知解する」 パリ大学における大論争
信仰と理性に対する西ヨーロッパ人の姿勢を決定づけた闘争において、重要な役割を果たしたブラバンのシゲルス p311

1273年、ミサが終わったトマス・アクィナス
トマスはレギナルドゥス(1290年頃没)という親しい修道士に「私はこれ以上著述しない」といった。のちにレギナルドゥスが著述活動を続けるように懇願すると、トマスは「もう書けないのだ。私に新たに啓示されたことに比べると、これまで書いたものはどれも藁くずのように思えるからだ」と応えたという。p341

 

第7章 「オッカムの剃刀」 信仰と理性の分離
事物を単純化する傾向は「オッカムの剃刀」、すなわち、概念上の実体を必要なしに多数化してはならない、という有名な原理で頂点に達した。p377

 

第8章 「もはや神が天球を動かす必要はない」 アリストテレスと現代の世界
アリストテレスの『天体論』の一節
地球の形状について著述し、船で地球を一周する可能性を示唆していた。
この書物はコロンブスがサンタマリア号でスペイン南西部のカディスを出航する1800年以上も前に書かれていた。p406

中世は無知に覆われた時代だったという神話の誤りを暴くには、ジャン・ビュリダン(ヨハネス・ブリダヌス、1300-58)とニコル・オレーム(1325頃-82)の例を引くだけで充分だろう。
彼らは後世の大胆な科学者たちと同様に、既存のパラダイム(アリストテレスの運動理論)を出発点としながら、最後にはそれを根本から変革したのだ。p408