フランスのクレッソン元首相の思い出

クレッソン首相とミッテラン大統領

 

(毎日新聞の記事から抜粋です)
マクロン大統領は新首相にエリザベット・ボルヌ労働・雇用・社会復帰相(61)を任命したと発表した。フランスで女性の首相は、社会党ミッテラン大統領(当時)が1991年にクレッソン氏を任命して以来、31年ぶり2人目。
首相任命を受けてボルヌ氏は、クレッソン元首相に敬意を表しながら、「夢に向かって突き進む少女たちに、この任命をささげる」と述べた。

かつて首相時には、問題発言で日本でも有名(悪名?)になったクレッソン(クレソン)さん。
二十年ほど前、彼女にお会いしたことがあります。
フランスでのある国際会議。
フランス人同僚と参加してみると日本人は自分も含めて二人だけ。もうお一方は大学教授のお方で、親しくお声をかけて頂きました。
そのお方に紹介頂いたクレッソンさん。何しろ日本人にとっては有名人ですからね。
残念ながら自分の乏しいフランス語力ではたいした話も出来ず、挨拶と名刺交換くらいでした。
その時、自分のような怪しい日本人にも関わらず、朗らかな笑顔で応対して頂きました。悪い印象は全く残らなかったです。

今、改めてその名刺を確認してみると、
左上にEdith CRESSONという名前だけ。そういえばシャンソンのエディト・ピアフと同じ名前なんですね。
左下にはパリの住所、そして右下には電話番号とファックス番号だけのシンプルな名刺で、肩書きとかは特にありませんでした。
wikiによると、その頃は不正により、公職を辞任していたようです。
そういえばその時一緒にいたフランス人同僚はクレッソンさんにあまり近づこうとはしませんでした。元首相とのせっかくの機会なのに、と思ったのですが、やはりそのような経歴が影響していたのかもしれません。
それでもフランスで女性初の首相、という肩書きは三十年以上女性首相が出なかったという面からも、貴重な存在と言えそうです。
もうかなりのお歳ですが、最近フランスメディアのインタビューにも答えておられました。過去のご経験が新しい首相に生かされるのか気になるところです。

 

共通語の世界史 ヨーロッパ諸言語をめぐる地政学 第三部

第三部 ヨーロッパの諸言語とナショナリズムの挑戦
第七章 言語からの号令
言語の運命への人間の介入 私的な道と公的な道
借用は元の言語の用語をそのまま持ち込むこともあれば、受け入れ側の言語の音韻に適応させることもある。借用に対しては、しばしばナショナリズム的態度によって拒否されることがある。その際、改革者たちは土着の語根や、それらの語根の組み合わせからなる複合語に依拠することを好む。p223

言語が民族をつくる
1848年の爆発によって、絶対主義国家がそのこだまを忘却の彼方に追いやろうとしていた古びたことばが再び姿を現した。諸民族が次々と発する声はうねりとなってヨーロッパを揺るがした。それは、中欧や東欧の少数言語にとって、もうひとつの彼らを運命を決定づけた時代、すなわち宗教改革と比することができるほどの希有な時期であった。p226

 

スラブの二つの民族の連合によって1918年に樹立された若いチェコスロバキア共和国の民主主義は、よくある歴史のいたずらで、今度は自分たちの内部のマイノリティの言語的要求に直面しなければならなかった。p238

現代エストニア語の言語改革のために、文の中でドイツ語をなぞったような語順を排除し、廃れていた語根や接尾辞をよみがえらせ、姉妹語であるフィンランド語からの借用語を増大させた。更に言語改革者としてはかなりまれな方式をも導入した。音が意味をなんとなく連想させるような形でこしらえた、人工的な単語を量産した。p245

フィンランド語とハンガリー語は数世紀の間、自分たちの言語を民族の生命の源泉とみなした熱心な言語学者たちのまれにみる熱意のもとで、鍛練され続けてきたという共通点がある。p249

 

民族が言語をつくる 言語の基礎となる国家、ことばの分裂、推進、再生

アイデンティティーを確立したいという意志だけで、ひとつの言語がゼロから創造されるわけではない。むしろ、長い間影に隠れていたり、ほとんど使用されていなくなっていたり、ばらばらの方言により構成されているようなことばに、文章語としての威厳を与える努力が払われる。p260

 

分岐点
日本語はおもしろい例を提供している。他に類を見ないという点で奇妙な証言が、第二次世界大戦直後にかなりの精神的動揺に陥った日本人がいたことを示している。1946年4月に小説家の志賀直哉がある論説を発表した。志賀はそこで日本語の「不完全さ」と、そのことによって「文化の進展が阻害され」ることを告発しつつ、国語として、その美しさと文明への貢献度の点からフランス語を採用したらどうかと提案したのである。p265
(ヨーロッパの諸言語がその確立のためにさんざん悪戦苦闘しているさまを読んだ後、唐突に志賀直哉のこの話を読むと、更に愕然としてしまいました。こら!直哉、なんば言うとるけ!という感じですね(笑)。高校の教科書で読んだ「城の崎にて」の中で、ケガした時、「フェータルなものかどうか」と聞いている人に感じた違和感がよみがえってきました)

 

第八章 ことばの城塞
ロシア語、または再統合した帝国
ソ連においては、出発当初の第三世界主義的ともいえる意志が影をひそめ、その後はジャコバン主義(国家的単一言語主義)の方向が取られることとなった。ロシア語推進政策は、連邦を構成する最も大きな共和国であるウクライナベラルーシカザフスタン、さらにはバルト諸国やモルダヴィアの住民にも向けられた。p273

1988年から1990年の間に多くのソ連の共和国によって一連の言語法が採択される。
これらの言語法を検討すると、政治体の定義において言語に割り当てられた重要性があざやかに浮かび上がってくる。p281

ロシアはその歴史を通して、少なくともアジア的であるのと同程度にはヨーロッパ的であろうとしてきた。ツァーリ時代にモスクワは「第三のローマ」(第一はローマ、第二はコンスタンティノープル)とみなされていたし、その後は、西欧で生まれ、ロシアのことなど想定していなかったイデオロギーであるマルクス主義の祖国にもなった。p291

 

西欧と「小さき」言語
他の言語と公的地位を共有する言語
ベルギーのオランダ語アイルランド語、マルタ語、ルクセンブルク
抵抗の砦である言語
カタルーニャ語ガリシア語、サルデーニャ
衰退に立ち向かう言語
オクシタン語、バスク語、ブレイス語、ゲール語、カムリ語

ヨーロッパ東部では、国家の公用語の他に多くの少数言語が話されている。少数言語の数が西ヨーロッパよりはるかに多いだけでなく、話者数の点でも西ヨーロッパの規模をはるかに上回っており、ロシアはその際立った例を示している。p312

ソ連の言語政策には二つの重要な側面がある。ひとつは言語規範の確立であり、もうひとつは表記法の確立である。p320

 

おわりに
言語の習得のためにはテレビによる教育を利用すればモチベーションも大いに高まる。このやり方は日本で広く用いられている。日本人は外国語に対する好奇心が強いので、少なくとも今のところは、自国語と外国語の優位性を争ったりしない。p334

欧州評議会は諮問機関としての役割しかもたず、行政的執行権は持っていない。しかし加盟する際には、欧州人権規約を受け入れることが前提条件となっているが、その中には、言語的マイノリティに対する尊重が含まれている。p335-336

ヨーロッパ人はアメリカ合衆国のような単一言語主義の危険から逃れなければならない。ヨーロッパ人は、多言語の地の市民として、人間言語の多声的な叫びに耳を傾けることしかできない。p339

 

訳者あとがき
アントワーヌ・メイエとアジェージュが異なるのは言語の多様性への態度である。次々と民族語が自立していく状況に恐れおののいたメイエと異なり、アジェージュは言語の多様性への無条件の肯定の姿勢が見られる。
しかしその一方、民族と民族をつなぐ役割を果たす「連合言語」の重要性を認識している点では、メイエの「文明語」への執着と通じる。p344

アジェージュにとってロシア語はフランス語、ドイツ語、英語と並んで、ヨーロッパを支える主要な「連合言語」のひとつであり、その重要性は時と共に増していくとさえ予想している。p345

アジェージュの特異性として、ドイツ統一を眼前に見た時、ハンザ同盟ドイツ騎士団を思い浮かべる論者はどれほどいるだろうか。p346

1992年当時と現在で大きく異なるのは、英語の覇権である。当時はまだ「危機感」でしかなかった英語のプレゼンスは、現在はヨーロッパ域内でも圧倒的なものになっている。p354
(2001年頃の欧州評議会の会議でも英語が圧倒的で、議長のフランス語による「メルシーボク」という太い声が妙に印象的だったのを思い出す)

 

共通語の世界史 ヨーロッパ諸言語をめぐる地政学 第一・二部

共通語の世界史 ヨーロッパ諸言語をめぐる地政学 表紙

 

共通語の世界史
ヨーロッパ諸言語をめぐる地政学
クロード・アジェージュ 著
谷啓介 佐野直子 訳
白水社 発行 
2018年12月5日 発行

本書の原題は、Le souffle de la langue:Voie et destins des parlers d'Europe「言語の息吹き ヨーロッパのことばの道程と運命」です。
いったい西洋は、いかなるこだまをこれほどのひろがりのなかに響かせているか。いかなる言語の沈殿をのこしたのか。ヨーロッパの諸言語はいかなる過去にみずからの根を浸し、過去へのノスタルジーにいかなる未来を充填しているのか。
という問いに本書は答えを描こうとしています。

ヨーロッパは、人間どうしのおりなす混沌とした歴史を通じてからまりあった限りなく多様なことばの腐植土 P12

 

第一部 連合言語
もともとの出生地をはるかに越えたひろがりを獲得した言語

第一章 ヨーロッパの共通語
国民語と共通語

ラテン語 西ヨーロッパの支柱

カスティーリャ語の栄光の光と影
国家語となったカスティーリャ語、そしてアメリカ大陸征服
ユダヤ人追放令(1492)、ユダヤ=スペイン語の栄光と苦悩

イタリア語のきらめき

エスペラント語の変遷
自然言語においては、長い歴史を通じた意味論的凝固から大量の慣用表現が堆積しているのが普通だが、エスペラント語には、そうした慣用表現の数が非常に少ない。p40

 

第二章 ヨーロッパと英語
ある共通語の知られざる歴史
ノルマンディー公ギヨーム二世による1066年のヘイスティングスの戦いの勝利と、それに続くブリテン島の征服。これにより、フランコノルマン語は公用語の地位に就く。p44
1399年から1413年まで治世のヘンリー四世。英語を母語とする初めてのイングランド王 p47

アメリカ英語のヨーロッパへの普及

アメリカの回帰

 

第三章 ドイツ語と東方の呼び声
ゲルマン民族の起源と成長

ゲルマン化の高揚
ハンザ同盟ドイツ騎士団、ゲルマン化

ある言語を広めるための三つの有力な道具は、かつては商業、宗教、軍隊であった。p73

スラブ諸語の墓、ドイツ語

ドイツ語話者の保護、戦争の回廊

ヨーロッパのユダヤ人、祖国としてのドイツ語とグローバルな使命

ヨーロッパにおけるドイツ語 過去の闇から未来の輝きへ

東ドイツでよく使われた表現「社会主義的国民語」
ライプツィヒ大学などいくらかの大学では、現代ドイツ語についてのあらゆる学位論文は、東ドイツに固有な言語の存在をふまえねばならなかった。p108

 

第四章 フランス語とその多様な使命
フランス語がヨーロッパでひときわ高い威信を備えていたのは、ひとつは十二・十三世紀であり、もうひとつは十七世紀後半と十八世紀である。p117

1763年のパリ条約は、北アメリカの支配をめぐるフランスとイギリスの間の血なまぐさい戦争に終止符を打ったが、この約束あふれる大陸におけるフランス語の運命を封じ込めてしまった。p134

過去のノスタルジーと未来のノスタルジーのはざまで

フランコフォニーとヨーロッパ

 

第二部 ヨーロッパ諸言語の豊かさと錯綜
第五章 多種多様な声の限りない誘惑
諸言語のヨーロッパとはどこまでなのか?

大きな集合
キリスト教の支柱ともいえる福音伝道こそが、東ヨーロッパのインド=ヨーロッパ系諸言語において知られる最初の記念碑的文書を生産した。p166

西ヨーロッパでは、聖なる文献が大言語を固定したのではない。
古英語の現存する最古の記念碑的文書は『ベオウルフ』。11世紀初め頃完成した叙事詩
ドイツ語の最古の文献は760年にフライジングで刊行されたラテン語とゲルマン語の対訳語彙集『アブロガンス』
フランス語の出生証明書とみなされている『ストラスブールの誓約』(842年)は政治的文書 p169

16世紀から17世紀初めにかけてのキリスト教世界の分裂がもろもろの国民語に大いに役立った。改革派はラテン語聖書の翻訳を推し進め国民語を聖化し、カトリックも同様の武器を用いた。p170

 

西において、ほとんどの国家はほぼ完全に言語的に均質になっている。少数言語は人口の10パーセント以下によってしか話されていない。
かたや東では、大部分の国家において、自分の母語を日常的に使用する民族的マイノリティが総人口の10パーセントを超えている。p180

 

第六章 錯綜するコード
輪舞する諸言語

双子の名前の象徴性

相互浸透
互いに緊密に混じりあっているヨーロッパの諸言語
・狭いひろがりの同じ領域上にいくつものことばが共存している
・そのうちの多くのことばの中で、その歴史のさまざまな時期に対応する層が相互に干渉している。p206

1850年頃の現在ポーランド領のビャウィストクの住民
ポーランド系、ロシア系の官僚、プロイセン系植民者、ユダヤ系の商人と従業員
この街で1859年、諸言語間の対立を克服しようとしてエスペラント語を発明したザメンホフが生まれる。p208

 

ハンザ「同盟」の歴史 中世ヨーロッパの都市と商業

ハンザ「同盟」の歴史 中世ヨーロッパの都市と商業 表紙

 

ハンザ「同盟」の歴史
中世ヨーロッパの都市と商業
高橋理 著 
創元社 発行
2013年2月20日 第1版第1刷発行

自分とハンザとの出会いは、エストニアのタリンに行った時でした。昼ごはんを食べた中世風のレストランがOlde Hanzaという名称でした。タリンもハンザの一員だったのか、と思った記憶があります。しかしこの本ではタリン(当時はレーヴァル)はほとんど出てきません。
この本自体はハンザの総合的な通史です。その中でも特に中心都市であったリューベクに対する、著者の研究対象を越えた深い愛情を感じます。

 

序章 ハンザ「同盟」とは何か
1 中世ヨーロッパの都市と商業
中世の南方の地中海貿易の取扱商品は各種の異国的で珍奇な商品
ハンザ商業の舞台であった北方貿易は主として生活必需品
2 ハンザのなりたち  
ハンザの基本的な意味は「団体」 
ハンザ全体に共通する同盟条約締結はなかったから、その結束は自然発生的で、要するに経済的利益共同意識に駆られて、国際法的行為の媒介なしに成立した。p30
ハンザは国際法上の同盟でもなければ、団体法上のギルドでもない。それでは何かといえば、歴史上ただ一回限りのユニークな存在であったと答えるほかない。p31
史実として、「ハンザ」が制度的に明確化する場所は、ドイツではなく、当時の経済的先進地であるフランドルにおいてであった。p32

 

第1章 ハンザの前史 
1 ハンザ商業展開の前夜
2 リューベクの建設
第2章 商人ハンザの時代
1 ハンザ史の時代区分
12世紀頃から14世紀中頃までが商人ハンザの時代
14世紀中頃からハンザが事実上姿を消す17世紀までが都市ハンザの時代
2 ドイツ商人のバルト海進出
ドイツ商人がバルト海を越えてロシアまで赴いた具体的な目的は毛皮
3 バルト貿易初期の様相

4 北西ヨーロッパ貿易初期の様相

 

第3章 都市ハンザの成立
1 バルト海岸諸都市の建設 
2 リューベクの発展
3 自然発生の都市連合
4 北方都市同盟の発生
5 対デンマーク戦争と都市ハンザの確立
デンマーク戦争を契機として東西の連携が実現したことはやはり重大
またシュトラールズント条約がハンザ勢力の頂点を示すことにも変わりがない。
同条約以後はハンザは膨張的野心を抱かず、既得権維持のための守旧政策に転じたという真相 p109

 

第4章 一四世紀前後のハンザ貿易 
1 ハンザのスカンディナヴィア進出
2 バルト貿易の進展
3 フランドルの情勢
4 イングランドにおけるハンザの経済進出
イタリア商人はイングランド貿易で占めながら人数が意外に少なく、ハンザ商人は貿易量は少ないのに参加商人数が多い。p126

 

第5章 ハンザの機構および貿易と都市の態様
1 ハンザ総会
成員相互の意思疎通のための機関はハンザ総会のみ
2 ハンザの中央機構
ハンザ加盟者の権利は何よりも海外におけるハンザ特権、つまり低関税、自由通商、居住権等の諸権利を享受できること。p136
ハンザの中央機関として存在するのはハンザ総会のみ。
ハンザの事務はリューベクのラート(市参事会)がとったに過ぎない。p137
ハンザの中央財政は不備だったが、財源としては、商人の商活動を課税対象とする方法と加盟都市ごとの分担金 p138

3 ハンザの外地商館
ロンドン、ブリュージュ、ベルゲン、ノヴゴロドの四大商館を「商館(コントール)」と呼び、他を「支所(ファクトライ)」と呼ぶ。p143
ロンドン商館(スチールヤード)
ブリュージュ商館
リューベクの比重が低かった。
ロンドンと違い、ハンザの建造物も敷地もなかった。
ヨーロッパ随一の先進地だった。
ベルゲン商館
独身の男が粗末な木造家屋に集団で暮らしていた。
リューベクが優位を占めていた。
ノヴゴロド商館(聖ペーター・ホーフ)
聖ペーター教会が商人活動全般の中心として極度に重要
現地ロシア人に対してハンザ商人が徹底した不信を示す。

4 ハンザ貿易の態様
・冬期航海禁止の慣習
スウェーデンデンマーク間にあって北海・バルト海を繋いでいるズント海峡の航行問題
・陸路、特にハンブルク・リューベク間の重要性
船舶共有組合
一隻の船舶を複数人の出資によって建造し、出資の割合に応じて持分とし、航海から生ずる利益を持分の大きさに応じて配分 p158
ハンザの商業活動は堅実である反面、信用経済を発達させようとする大胆さに欠ける。その結果、南方の地中海貿易で発達した銀行・保険業はハンザ圏ではほとんど発達しなかった。p161

5 中世ハンザ都市リューベクの完成
1375年神聖ローマ皇帝カール四世のリューベク訪問

中世都市の市政を担当したのは、ラートと呼ばれる一握りの有力者
その中の何人かが市長(市長は複数で存在)となった。

中世ヨーロッパでは都市は田舎よりも衛生状況が悪く、ペストの流行は農村より都市の方が悲惨だった。p173

6 ゴシック都市リューベクの完成
中心教会が大聖堂ではなく、聖マリア教会という商人教会だというのがリューベクの性格
ローマ帝国崩壊後、街を維持したのは司教だったが、リューベクは古代文化の背景を欠く新開地に商業を目的として12世紀に建設された都市だったため、保護者あるいは支配者としての司教は存在しなかった。p177

聖マリア教会を名高くした18世紀前半の音楽家大バッハの逸話
この教会のオルガニスト、ディートリヒ・ブクステフーデにより、リューベクでの感動が大きく、休暇期間を勝手に延長してしまう。p181
ゴシックのみに終始したことはリューベクの歴史を理解する上で重要。全生命力を中世北方世界のために捧げ尽くし、果たすべき歴史的役割の一切を果たし終え、中世の終焉とともに歴史の舞台から退いたリューベクの生涯がそこに集約的に表現されている。p187
1942年3月28日、リューベクはイギリス空軍の爆撃を受け、聖マリア教会を含め市内の大部分が破壊された。しかし戦後のリューベク市民はゴシックの旧様式をそのまま再興した。p188

 

第6章 ハンザの衰退
1 中世末期のハンザをめぐる国際情勢
ハンザ勢力が極点に達してしまっただけでなく、ハンザに対する積極的な挑戦も15世紀には顕著になった。その根本原因として、各国における市民層=商人層の成長と、近世的中央集権国家の確立をめざす努力のはじまり p189
2 中世末期におけるハンザとイングランドの関係
3 オランダ商人との競争
オランダ人はハンザ側の妨害に関わらず、ズント海峡を積極的に活用した。
「公海」の観念がなかった中世においては海洋もしばしば土地を領有するのと同じように支配できると考えられた。p208
4 ハンザ内部の動揺

 

第7章 ハンザ諸都市の群像
1 ライン地方
ケルン
輸出産業都市で、リューベクの性格とは正反対
ゾースト
ケルン都市法に源を有するゾースト都市法を北のハンザ諸都市に伝える。
2 ハンブルク
今日でもなお正式に「ハンザ都市」と認められているのは、リューベク、ハンブルクブレーメンのみ
3 ブレーメン
ハンブルクはリューベクを助け常にハンザに協力的だったのに対し、ブレーメンはハンザの一員でありながら、その態度においてハンザに冷淡だった。
4 バルト海岸諸ハンザ都市
ヴィスマル
ロストク
シュトラールズント 
グライフスヴァルト
ロストクに次ぐハンザ第二の大学が1456年に設立される。
5 ダンツィヒ
6 リーガ

 

第8章 ハンザの末路
1 外地商館の没落
2 イングランドにおけるハンザ貿易の末路
3 ハンザ最期のあがき
ハンザ建て直しの試み
・ハンザ諸都市の群別再編成
・ハンザ官僚任命の試み
4 ハンザの滅亡
ハンザ連合勢力唯一の象徴的機関であるハンザ総会の最後は1669年
その年が通説ではハンザの終焉

 

終章 ハンザの文化遺産
「文化」を論ずる場合、文学、絵画、彫刻、音楽という部門のみを考えがちだが、ヨーロッパ文化史を論ずるにあたっては「都市」という芸術のジャンルを建てる必要がある。p272

著者としてはハンザ固有の文化的遺産として、17世紀に開花した北ドイツの教会音楽をぜひ挙げたい。p277

フランス大統領与党「再生」に名称変更

2019年の欧州議会選挙におけるマクロン陣営名簿のポスター

 

仏大統領与党「再生」に名称変更 下院選へ新連合で共闘

【パリ共同】フランスのマクロン大統領を支える与党、共和国前進(REM)のゲリニ代表は5日の記者会見で、党の再構築を始め、名前を「再生」に変更する方針だと明らかにした。別党派の議員らの合流を見込んでいるもようだ。

 またゲリニ氏らは、6月の国民議会(下院)総選挙に向け、与党連合を組んできたREMと中道政党、民主運動のほか、右派出身のフィリップ前首相が結成した新党「地平線」も加わって新たな連合「結集」をつくり、共闘すると発表した。

 フランスのメディアによると、577選挙区のうちREMが約400、民主運動が100超、地平線が約60で候補を擁立することで合意した。

《最初このニュースを見た時、「再生」のフランス語が何かなぁと思ったのですが、Renaissanceとのことです。華々しいですね。この党名はマクロン大統領にとって目新しいものではなく、画像のポスターのように、2019年の欧州議会選挙において、マクロンさん率いる候補者名簿(欧州議会選挙は拘束名簿式比例代表制)で既に使われていたものです。
ちなみに他の党名のフランス語は「民主運動」はMoDemと電子機器のようですが、Mouvement démocrateの略称です。
そして新党「地平線」はHorizonsとなります。
そしてこれらの党が集まった連合が「結集」Ensembleって、そのまんまですね(笑)》

 

 

羊皮紙に眠る文字たち再入門

羊皮紙に眠る文字たち再入門 表紙

 

羊皮紙に眠る文字たち再入門
黒田龍之助 著
白水社 発行
2022年1月30日 発行

ロシア語など、いわゆるスラヴ語派などの言語について、著者の体験を含め、ユーモラスに語っているエッセイ集です。

二十世紀末、第二外国語の不人気ナンバー3はアラビア語、ロシア語、韓国語だった。この三つに共通するのは「見知らぬ文字を使っている」という点だった。
でも知らなかったことが分かるようになるのは、喜びではないか。

 

第i章 スラヴ語学入門
それぞれの言語がどの文字を採用するかは、言語学にみれば全く恣意的、つまりどれでもよいはずである。ロシア語をラテン文字で書き表そうというのならば、それはそれで可能である。ところが実際には文字というものはそれぞれの言語を使う地域の文化、特に宗教と深い関わりをもっている。どの宗教もその教えを伝えるためにはそれを書き残す必要があるわけで、文字はそのための重要な役割を果たすのである。
もっともインドネシアやモンゴルやトルコなどの例外はある。この場合、文字は宗教ではなく政治体制と関係がある。p29-30

 

ロシア人の名前は「名」+「父称」+「姓」という三つの部分から成る。
父称は父親の名前に接尾辞をつけてつくられる。
父称を使うということは、文化人類学的にはロシアが父系社会であったことを示すのだと思う。そんなことよりも実際困るのは、父親がいない、あるいはよくわからない子供が生まれてしまった時である。p54-55

新『現代ロシア標準語辞典』や『11世紀ー17世紀ロシア語辞典』、『18世紀ロシア語辞典』、『スラヴ諸語語源辞典』、『古ベラルーシ語辞典』、『標準セルビアクロアチア/クロアチアセルビア語学習辞典』など、完結していない「未完の辞典」を持っている筆者p59-60

 

第ii章 中世スラヴ語世界への旅

教会スラヴ語
読み書きにしか使わない文章語。その中でももっぱらキリスト教文献に使われたため、名前に「教会」と付いている。12世紀以降に書かれた言語。それより前の言語は「古代スラヴ語」という。p75-76

単数や複数で無い「両数」または「双数」
特に《2》を表すための数
現代ロシア語には無いが、中世のロシア語には存在した。
また現代でも、スラヴ諸語の中で、上・下ソルブ語スロヴェニア語には両数が残っている。p85-86

 

筆者がミンスクベラルーシ大学で、ベラルーシセミナーに参加していた時の、ハレールカ(ロシア風にいえばウォッカ)飲みながらの話
あるベラルーシ人曰く
ロシアは古代ルーシ伝統から離れたところで、モスコーヴィヤ(モスクワ公国)に過ぎない。
本当のルーシと言えるのはウクライナ
ベラルーシは、実はリトアニア。今はバルト系の民族が住んでいるが、ベラルーシの心の故郷といえばやはりヴィリニュス。ベラルーシの歴史にとって、リトアニアは重要な舞台で、ヴィリニュスこそはベラルーシのもう一つの首都 p111-112
(酒の席とはいえ、複雑な国民感情が垣間見えます)

 

古い時代のロシアでは、白樺の皮を剥いで、紙の代わりに使っていた。
1951年、ノヴゴロドという歴史ある町で、文字が刻みこまれた白樺の皮が見つかった。今日に至るまで発掘作業が続けられている。これを白樺文書(もんじょ)という。
木の皮にインクや木炭で書かれることは珍しくないが、この白樺文書は先の鋭い筆記用具で引っかくようにして文字を記しているのが特徴的 p113-114

 

古代スラヴ語
文献の言語、つまり書かれたことば
9世紀後半から11世紀末の言語とはっきりしている。
なぜはっきりしているのか?そういうふうに決めたから。その期間だと規定したから。 
なぜ9世紀後半なのか?この頃にスラヴの地で文字が考案されたから。もっとも残っている文献のほとんどは11世紀のもの。p124-125

第iii章 文字をめぐる物語

 

第iv章 現代のスラヴ諸語
チェコ語は他のスラヴ諸語をいくつか齧った者から見ると、不思議な言語。
たとえば軟変化タイプの形容詞。男性、女性、中性とどの名詞と結びついても同じ形。
スロヴァキア語はチェコ語に似ているが、スラヴの言語らしく形容詞は名詞の性に合う。p197-198

ブルガリア語の特徴
南スラヴ諸語の一つ
語彙についてはロシア語に近い
文法構造はロシア語と著しく異なっている。
ブルガリア語の名詞類は格語尾がなくて、後置冠詞があり、また動詞は時制や法に多くの形態を持つ。p201

追章 ギリシャ語通信

 

 

ストラスブール大聖堂の丸天井の修復について

シャトー広場から見たストラスブール大聖堂

ストラスブール大聖堂の丸天井

La cathédrale de Strasbourg en chantier pour deux ans afin de restaurer sa grande coupole

大きな丸天井を修復するために2年間工事を行うストラスブール大聖堂

 

(特に建築についてはよくわからないのですが、とりあえず訳してみました。とりあえず丸天井あたりの修復に限定されるようです。あと、シャトー広場ってこんなに広かったかなぁとふと思ってしまいました。二十年前なので記憶もたよりないですが)


D'importants travaux vont être lancés en ce printemps 2022 pour restaurer la grande coupole qui surplombe le chœur de Notre-Dame de Strasbourg. Une grue sera installée place du château pour mener à bien le chantier prévu pour durer jusqu'en 2024.


ストラスブール大聖堂の内陣を見下ろす大きな丸天井を修復するために、2022年の春に主要な作業が開始されます。2024年まで続く予定のプロジェクトを実施するために、シャトー広場にクレーンが設置されます


C'est un ouvrage monumental "dans un état de grande intégrité", mais dont l'aspect a été dégradé par plusieurs restaurations pour certaines mal réalisées : la grande coupole qui couvre le chœur de la cathédrale de Strasbourg a été construite entre 1180 et 1200 et fait partie de la première phase de la reconstruction de l'église, qui s'est achevée au 15e siècle.


これは「完全性の高い」記念碑的な建造物ですが、何度もの修復によって外観が劣化し、その一部は不十分に行われました。ストラスブール大聖堂の内陣を覆う大きな丸天井は1180年から1200年の間に建てられ、 15世紀に完成した教会の再建の第一段階の一部をなしています。

 

Elle a aujourd'hui besoin d'être restaurée et mise en valeur, car "elle présente des désordres, conséquences des sinistres subis depuis la guerre de 1870 et de certaines restaurations inappropriées de la fin du 19e siècle", précise la direction régionale des affaires culturelles, qui pilote le chantier.

「1870年の戦争以降の被災の結果と19世紀末の不適切な修復を改善する」ため、今、修復および強化する必要があると、作業を指示する文化担当地域局は述べています。

Ainsi, l'enduit de ciment qui recouvre l'ouvrage sera remplacé, à l'extérieur, par une couverture de plomb. Les grandes baies de la tour dite Klotz, pour l'instant fermées par des menuiseries, pourront alors être rouvertes. Pour réaliser cette phase de travaux, une grue sera installée sur la place du château.

そのために、構造を覆うセメントコーティングは、外側が鉛カバーに置き換えられます。その後、現在木工で閉鎖されている、いわゆるクロッツと呼ばれるタワーの大きな開口部を再開することができます。この段階の作業を実行するために、シャトー広場にクレーンが設置されます。

 

A l'intérieur du monument, grâce à des échafaudages qui vont être installés au courant du mois de mai, les maçonneries seront nettoyées, "purgées des sels qui les ont contaminés", avant qu'en nouvel enduit à la chaux ne soit appliqué.

記念建造物の内部では、5月中に設置される足場のおかげで、新しい石灰塗料が適用される前に、石積みを「汚染していた塩分を一掃」するために洗浄されます。

 

Un chantier de 21 mois et 1,7 millions d'euros

 

21ヶ月と170万ユーロのプロジェクト

Ces travaux doivent durer 21 mois, et devraient être achevés en 2024. Ils seront suivis par l'architecte en chef des monuments historiques, Pierre-Yves Caillault, sous l'égide de la direction régionale des affaires culturelles du Grand Est. Ils sont chiffrés à 1,7 millions d'euros.

この作業は21か月続き、2024年に完了する必要があります。これらの作業は、グラン・テスト地域圏の文化当局の支援の下、歴史的建造物の建築責任者であるPierre-Yves Caillaultによって監督されます。そのプロジェクトには170万ユーロかかります。


Les activités liturgiques, et touristiques, de la cathédrale ne devraient pas être impactées, puisque la structure nécessaire aux travaux sera suspendue au-dessus du chœur.

大聖堂の典礼や観光には、作業に必要な構造が内陣の上に吊り下げられるため、影響を受けないようにする必要があります。