ユーラシア横断紀行

西域探険紀行全集1 ユーラシア横断紀行 表紙

 

西域探険紀行全集(全15巻別巻1)
第1巻 ユーラシア横断紀行
訳者 水口志計夫
発行所 白水社
1966年11月5日 発行

この巻は、イギリス人トーマス・ウィリアム・アトキンソン(1799-1862)により書かれました。原題はTravels in the regions of the upper and lower Amoor and the Russian acquisitions on the cofines of India and Chinaーwith adventures among the mountain Kirghis ; and the Manjours, Toungouz, Touzemtz, Goldi, and Gelyaks : the hunting and pastoral tribesとなっています。
この著者アトキンソンは元来建築家ですが、水彩画をよくしたそうです。この巻でも、さし絵はアトキンソン自身の絵から彫刻した、多数の風景画が含まれています。
原著が出版された頃、中央アジアの探険は、イギリスがインドを根拠として、北に向かって範囲を広げていきます。一方ロシヤは、シベリアから南に向かって、またカスピ海から東に向かって、その勢力を進めていきました。
両国にとって争いの場になるであろう地域であり、この原著も当時、単なる紀行文以上のニーズがあったものと思われます。

本著はセミパラチンスクから始まります。1850年10月、新疆省の旅からアトキンソンはそこに着いたのでした。
本著の前半では、アトキンソンの足跡は、バルハシ湖とカラ・ターおよびアラ・ターとの間に限られています。過酷な自然状況が印象的です。
後半はアムール川に当てられています。その発端は買売城(マイマチン)から始まります。イルクーツクバイカル湖、ネルチンスクまでは旅行記の形をとっていますが、アムール川下りは紀行ではなく、地形の説明や歴史的事件の著述となっています。

 

1 サーカシアの囚人たちの逃亡
戦争の捕虜として、シベリアの鉱山で働くために送られていたサーカシア人が、シベリアの刑務所から、遠く離れた家に逃げようとした事件

2 キルギス人の中にあるロシヤの駐屯地
キルギスの魔神の墓

3 アジアの砂漠を横断する方法

4 ステップの銀鉱
チンギス・ター鉱山をめぐるキルギス人との交渉とお祭り

5 大オルダ内へのロシヤの最初の前進
大オルダ
族長のテント、行宮の意。かつてキルギス人は三オルダ(南部の大オルダ、畜群に適する地域の中オルダ、および欧露のロシヤ領に近い小オルダ)に分かれていた。p80

 

6 コラ川と伝説
コラ川沿いの直立する五つの巨大な石。魔神の墓。
(ギリシャ起源の伝説と全く同じ真実性を持った)キルギス伝説

7 コバルでのできごと
アヘンの喫煙が、金持ちのキルギス人のあいだの流行となっている嘆かわしいこと

8 コバルからの出発

9 地震で水のなくなった山の湖
アク・ター山脈や大峡谷、花崗岩でできた自然のアーチ、悪魔の洞窟などの光景

10 キルギス人の夏の牧草地への移動

 

11 隊商とコサックの道
ステップ上の蜃気楼と砂嵐
前者は幻の水を見せて喉の渇いた旅人をじらすが、後者は旅人の墓となるかもしれない。

12 スルタン・ティムールとジャンギール・ハン
スルタン・ティムールはステップの最も古い有名な家族の代表。彼の家系図の根源は、偉大なチンギス・ハンの家族の中にある。
19世紀のはじめ、有名な酋長ジャンギール・ハンが、カラ・キルギス人の種族を支配し、周囲のあらゆる地域で恐れられていた。

13 キルギスの駆け落ち
両家の息子と娘が結婚しようとするが、カルイム(ラクダや馬などの持参財産)が折り合わず、破談になる。そこで若い二人は駆け落ちするが、最後娘が虎に襲われ殺される悲劇。

 

14 隊商道路と買売城 
買売城は、その名の示すとおり、《交易の場所》

15 トランス・バイカルとアムール川の源

16 ケルレン川すなわちアムール川の本源  
ハバーロフ(生没年不明。17世紀におけるロシヤの探検家、実業家) 

17 アムール川上流 
アムール川のスヴェルビーフ岬。ロシヤの地理学者が犯した愚行。でこぼこした崖からその独特の名前を奪って、探険に従った若僧の名前という無意味な名に変えてしまった。p388

18 アムール川中流 

19 アムール川下流
ゴルド人、マングーン人などの原住民

 

霧の彼方 須賀敦子

霧の彼方 須賀敦子 表紙

 

霧の彼方 須賀敦子
若松英輔 著
集英社 発行
2020年6月30日 第1刷発行

(シエナのカテリーナの)小聖堂は険しい坂道の下にある、そう彼女(須賀)は記憶していた。案内表示に従って行った場所は違った。聖堂にはたどり着いたが、あるはずの坂道が見つからない。そのことに須賀は驚きを隠せない。もちろん、目的は聖女の生家跡の訪問だった。だが、同時に彼女はかつて降りることのできなかった坂道も、もう一度この足で踏みしめたいと願っている。「驟雨のような祈りの声が聞こえてくるカテリーナの小聖堂にはついには入らないで、私は太陽の照りつけるだらだら坂に戻った」と須賀は書く。ここで坂道を降りるという行為は、霊性的世界の深みへ向かうことの隠喩にもなっている。p72

 

カトリック左派」という言葉は、須賀敦子の作品を読みとく重要な鍵となる。しかし、用いるときには一定の留意がいる。「あたらしい神学」が両義的だったように、コルシア書店の運動を象徴する表現なのだが、それは同時にコルシア書店に集った人々にとっては半ば自虐的な呼称でもあった。党派、宗派の壁を打ち破り、言説ではなく、その精神、心において交わり、対話し、ときに討論する場を作ろうというのが彼らの願いだったからだ。p94
ここでの左派とは、非教条的であることを意味する。p95

 

彼女(須賀)はしばしばさまざまな教会のファサードに世界の深みからやって来る呼びかけを聞く。「ファサード」という言葉が出てくる多くの文章で須賀はよく言語を媒介としない歴史との対話をめぐって何かを語ろうとする。「霧」という言葉が此岸と彼岸をつなぐものだったように「ファサード」は異界への扉になる。p102

 

エマウスの運動体の創始者であり、2007年に94歳で亡くなるまでそれを牽引したのがアベ・ピエールだ。「アベ」は名前ではない。「神父」を意味するフランス語で、直訳すると「ピエール神父」ということになるのだが、この呼称には、そこに収まらない親しみと敬愛の情がある。
19歳のときアンリ・グルエス(アベ・ピエールの本名)は、自身の財産権を慈善団体に寄付し、フランシスコ会の中でも戒律の厳しいことで知られるカプチン会に入会
1939年、第二次世界大戦に従軍
その後、レジスタンスに参加。ド・ゴールの弟を救い、ピエールとド・ゴールを結ぶきっかけになる。
戦後、1951年まで国会議員となる。
1949年、自殺未遂の男が最初のエマウス共同体の会員となる。
議員としての給与はすべてエマウスに注がれたが、その職を退くと街に出て物乞いをした。
しかしその後、寄付や参加申し出により、エマウスは運動体として大きく飛躍する。
p119-123

 

文筆家須賀敦子の出発は翻訳だった。翻訳はかたちを変えた批評である。原文のある一語にどの日本語を当てるかによって文章の姿は一変する。語学力ももちろんだが、訳者には優れた批評精神が求められる。近代日本の優れた批評家がいくつかの優れた翻訳を残しているのも偶然ではない。p173

誰の人生にも三つの「季節」があるかもしれない、とは(須賀は)書いている。
それは人間が、自らの「肉体」、「精神」、「たましい」の固有の役割とその限界を痛切に感じる時期でもある。肉体が、かってのように動かなくなってきたとき、人は精神に目覚め、精神の限界を知ったとき、たましいの存在を深く感じとる。p217

 

2016年に刊行された『須賀敦子の手紙』と題する本。
題名のとおり、須賀が友人の画家スマ・コーン(大橋須磨子)、そしてその伴侶であり、日本文学研究者であるジョエル・コーン、この夫妻に宛てて須賀が二十余年にわたって送った書簡集。p413-414
その中で、夫を喪ったあとの彼女にも、自身が恋と呼べるような交わりがあった。
この手紙から二ヶ月後の便りには「もう私の恋は終わりました」と記されている。p419
(この本について、このブログに書いた時(当時はYahoo!ブログ)、その記事に対して、「須賀さんが(伴侶との死別後)恋をしていて本当によかった」というコメントを頂いたのを思いだしました)

 

1981年、須賀が上智大学の常勤講師となって二年後の秋、彼女は、ダンテの『神曲』を読みたいという若者に出会う。
その学生に須賀を紹介したのはラテン文学の研究者である藤井昇で、学生は今日、日本におけるダンテ研究の第一人者である藤谷道夫である。
(藤谷は当時)無名な須賀と、短くない期間を近しい関係の中で過ごし、文字通りの意味においてダンテ研究の衣鉢を継いだ。p420-421

ランボーとダンテ、二人に共通するのは、時代とその文化を代表する詩人だったという点だけではない。彼らは共に正統なる異端者だった。古い教えに忠実であろうとするために時代の常識に抗わなくてはならなかったのである。須賀はユルスナールに、ダンテ、ランボーの血脈に連なる者の姿を見る。p433

 

ある日、彼女(須賀)はがん治療をしていた病院を抜け出して、教会へ行った。そこで彼女は神父にこう話した。「私にはもう時間がないけれど、私はこれから宗教と文学について書きたかった。それに比べれば、いままでのものはゴミみたい」
最後の「いままでのものはゴミみたい」という言葉には「歴史」がある。
1273年12月6日、この日をさかいにトマス・アクィナスは『神学大全』の著述を止めた。
続行を懇願する僚友に対してトマスはこう言った。
兄弟よ、私はもうできない。たいへんなものを見てしまった。それに較べれば、これまでやってきた仕事はわらくずのように思われる。私は自分の仕事を終えて、ただ終わりの日を待つばかりだ。
三ヶ月後、トマスは帰天した。
須賀は1998年3月20日、逝去。p465-467

 

フランス大統領選挙 マクロンさんの勝利

フランス大統領選挙に勝利したマクロンさんの支持者集会

 

フランスの大統領選挙、予想通りマクロンさんの勝利となりました。
画像は支持者集会の様子です。
マクロンさんの基本理念を反映して、フランス国旗だけでなく、EU旗も目立ちます。
前回の勝利時には、ルーブルのピラミッド前だったと思います。
今回はエッフェル塔前のシャン・ドゥ・マルスのようです。
ここは野外コンサートなども開かれているような場所です。自分がパリにいた時でも、小澤征爾ジョニー・アリディのコンサートが行われていました。
前回よりも広々として良い場所を使うことが出来るのは、やはり現職の強みでしょうか?よくわかりません。
さて、今回の大統領選挙を振り返えると、自分には一位二位より、三位以下の結果が気になりました。

極左のメランションの二位に近い三位という躍進です。
全体的に右派に押された中、左派の受け皿を極左が引き受けるという形になってしまいました。
本来受け皿となるべき社会党のイダルゴさんは惨敗。
同じく伝統政党の共和党から出馬で、個人的にひそかに期待していたペクレスさんも大敗でした。
既存政党からゼムール氏を含む極端への動き、フランス社会の分断という考え方が一般的ですが、それに加えて、SNSの浸透による団体から個人への動きとも思ってしまいます。
カトリックのヴァチカンからルターによる宗教改革。神の代理人ではなく個々が神と対話する。そしてグーテンベルク活版印刷による情報革命。
当時の宗教改革のような流れが今の政治状況になっているのかもしれません。
でもSNSで考えを表明できるといっても、所詮は無力な一個人のつぶやき、単なる幻想に過ぎないのですが。

 

ウラジオストク 日本人居留民の歴史 1860~1937年

ウラジオストク 日本人居留民の歴史 1860~1937年

 

ウラジオストク
日本人居留民の歴史 1860~1937年
ゾーヤ・モルゲン 著
藤本和貴夫 訳
東京堂出版 発行
2016年8月2日 初版発行
 
自分がウラジオストクに興味を持ったのは、石光真清の「曠野の花」を読んでからでした。石光は明治32年から、ウラジオストクを起点として大陸で活動します。ウラジオストクでは僧に扮していた花田仲之助少佐と出会っています。
ウラジオストクには近場ということもあり、一度行って見たかったのですが、昨今のコロナやウクライナ侵攻もあり、当分の間は行くことは難しそうです。

 

第1部
ウラジオストクへの最初の日本人の出現から日露戦争終結まで

ウラジオストクの建都は1860年6月20日と考えられている。
コマロフ少尉補に指揮された40人の下士官と兵士の部隊が軍事輸送船マンジュール(満洲)号でここに到着した。p15

1871年は、ウラジオストクの歴史上特筆すべき年となった。ロシア政府は港と軍務知事の官舎をニコラエフスクからウラジオストクに移転することを決定した。p18

日本外務省は、職員である瀬脇寿人に、太平洋岸ロシアの拠点としての展望がすでに見えているウラジオストク港の状況視察を命じた。p18
瀬脇はウラジオストク訪問後に覚え書きを残した最初の日本人であった。彼の残した『ウラジオストク見聞雑誌』p19
1875年4月16日、彼らはロシアの軍用輸送船に乗船した。p20

 

ウラジオストクの日本人に関する情報が現れるのは、1862年のこと。
日本人ジャーナリスト大庭柯公は、1925年に刊行された『露国及び露人研究』の中で1862年渡航者について書いている。
1862年に稲佐の若い日本人たちがロシア船マンジュール号に乗ってウラジオストクに到着した。
幕末の徳川将軍最後の時期(1853~1867)に、長崎、稲佐とロシアの結びつきが確立した。ロシアの船舶は糧食の調達のために、一方沿海州を目指す軍艦の水兵たちは1860年彼らのために稲佐に建設された娼家で休息するために寄港した。p26-27

 

1855年、下田で調印された日露通好条約において、二国間の外交関係が樹立された。
日露通好条約により、長崎は太平洋艦隊の越冬拠点となり、船は冬に備えてウラジオストクから温暖な長崎港に入った。長崎港は太平洋艦隊の第ニの母港だった。
長崎港対岸の稲佐村に、特別にロシア人船員たちのための滞在拠点が建設された。ここは「ロシア・セツルメント」(おろしあ租界)と呼ばれるようになった。p44

おエイ(道永エイ)という日本人女性は長崎とウラジオストクの歴史に鮮明な足跡を残した。彼女の運命は、19世紀末から20世紀初頭の稲佐の女性たちに関する一連の作品の中で、日本人著者らによって敬意をもって描かれている。p48

 

第2部
ポーツマス条約から日本の軍事干渉終了まで(1905~1922)のウラジオストク日本人居留民
 
中島正武少将は、石光真清(日本軍の情報機関と関わる幹部軍人)と有能な島田元太郎(ニコラエフスク・ナ・アムーレの大商人)と共にブラゴヴェシチェンスクに到着し、革命派との戦いに没頭した。ブラゴヴェシチェンスク日本人居留民会では、日本人義勇団(30人)が結成された。p158

第3部
日ソ外交関係の樹立前後から1937年の全日本人引き揚げまでのウラジオストク日本人社会
 
解説 ウラジオストク小史

現在のロシア沿海地方南部にあたる地域は、8~10世紀初頭には中国東北部から朝鮮半島北部に広がる渤海国の版図に入っており、日本との間でも使節団の往来があった。p299

ウラジオストクという名前をいつ誰がつけたかという点は、よくわかっていない。マトヴェーエフは『小史』のなかで「ウラジオストクに関する最初の報道は1859年のペテルブルグの新聞に現れた」と書いている。
ウラジオストクの研究者A.A.ヒサムトジーノフ氏によれば、それは『サンクトペテルブルク報知』紙に掲載された記事で、1859年7月1日に書かれた。p301
この記事を誰が書いたかということも、なぜウラジオストクと名づけられたかもわかっていない。
ヒサムトジーノフ氏は軍事技師D.I.ロマノフが書いたと類推している。p302
 
ウラジオストク市を含む沿海地方は、行政単位として複雑な変遷をたどっている。
1888年以降、ウラジオストク沿海州の州都
1921年極東共和国の樹立により、極東共和国沿海州
1922年末に極東共和国がロシア・ソビエト社会主義共和国と合併すると、旧極東共和国の領域は極東州となる。
1926年にハバロフスクを中心とする極東地方が成立し、それが9管区に分けられ、ウラジオストクウラジオストク管区の行政の中心都市となる。
1938年10月、極東地方はハバロフスク地方と沿海地方に分割され、ウラジオストク沿海地方の中心都市となる。p318p321
 

出かける時のにゃんこの表情

驚いた表情するにゃんこ

うちのにゃんこです。

「ちょっと出かけてくるからね」

えっ、出かけちゃうの~

じっと見つめるにゃんこ

え~さみしいニャ~

帰りを待つにゃんこ

早く帰ってきて欲しいのニャ~

 

フランス中世の文学生活

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フランス中世の文学生活 表紙

 

フランス中世の文学生活
ピエール=イヴ・バデル 著 
原野 昇 訳
白水社 発行
1993年5月31日発行

(中世においては)教会が文化を独占しており、それを
修道院付属学校、ついで
司教区付属学校(11世紀)、そして
大学(13世紀)において伝授していった。p47

百年戦争のさなかに書かれた『パリ一市民の日記』は、たとえば物価の値上がり、貨幣価値の下落、食料品の不足など、日々の生活の細やかな出来事を書き留めている点で大変貴重な史料であるが、そのような現実を乗り越えるために総括を試みるといったような点はみじんも見られない。p60-61

ロベール・ド・クラリはコンスタンチノーブルに魅了され、またワラキア地方の近くに住むクーマン族の風習に興味を寄せている。p61

 

聖職者の教養は教会の教えに由来する倫理だけでなく、古代人の智恵から学んだ倫理にも依っている。
このような聖職者は、自分たちが古代作家の後継者であることを自認している。
いうところによると、学問はアテネに生まれ、ローマに渡り、今はフランスあるいはイギリスにある。中華思想は今に始まったものではないのである。
ベルナール・ド・シャルトルをはじめ、彼らは次のように言っている。「巨人(すなわち古代作家)の肩に乗った小人であるわれわれは、彼らよりもよりよく、より遠くまで見える。それはわれわれの視力がより優れているとか、われわれの方がより背が高いからではなく、彼らがわれわれを支え、その巨大なる背丈の上に高く持ち上げていてくれるからである」p82-83

 

われわれが読む中世作品には、自分の想像力による着想または公衆の期待に対して、初めに作品の形を与えた人、その後それに修正を加えた人、記憶に頼る語り手、写字生の介入または不注意、最後に19世紀、20世紀の校訂者の校訂方針、などが関与している。
その中で、ジョングルール(旅芸人)と学僧が重要な役割を果たしている。p111

トゥルヴェール
狭い意味では伝統的にトゥルバドゥールの北フランスにおける模倣者、すなわち恋愛歌(シャンソン・ダムール)の作者。抒情詩人
広い意味では作者一般
p114

 

キリスト教の権威的作家と世俗の著作家
最初の権威的作家といえば聖なる書の作者
モーセモーセ五書』、ダヴィデ『詩篇』、ソロモン(知恵の書)、使徒(聖パウロ)、『黙示録』
万人が認めるその他の著作家といえば教父
聖ヒエロニムス、聖アウグスチヌス、聖グレゴリウス
非宗教的権威的作家
キケロセネカホラティウス、オヴィディウス、ウェルギリウス、スタチウス、ユヴェナリス
文法家
ドナートゥス、プリスキアヌス
p142-143

 

今日、常套句(リュー・コマン)といえば平凡ということになるが、その元の意味はそうではなかった。
修辞学の教本によればリュー・コマンというのは、雄弁家がいつでも好きなときに利用できるように、弁論の論拠を集めたものであり、それらの論拠はどんな問題にも通用するものであった。
あらゆる雄弁家は弁論の冒頭で、自分はこの問題を論ずるに値するだけの資格がないというが、それも常套句である。p148

中世の言葉の遊び
「填め込み」
脚韻や音節数など非常に厳密な詩法が守られていたり、完璧な統語法に従って文が構成されているところに、意味がそれらとは全く無関係な語を填め込むこと
たとえば諺、猥褻な言葉、動物の名前、文学的暗示、恋愛の暗喩など
p268

 

ユマニスムとは「古代」を認識することと定義すれば、中世は古代をよく知っており、古代を滋養として自分の肉体としていた。
十四、五世紀にはラテン語作品の翻訳物が増大する。p285

 

付録 中世作品の校訂
中世の作品はひとえに写字生たちのおかげで、今日われわれの手元まで伝わってきている。
その過程での変更が不注意や物理的要因であるとは限らない。
写字生は誰でも、潜在的意識においては、作家であり修正者である。
実際テクスト変更の第一の理由は、写字生が顧客を満足させようと注意を払っているところにある。
写字生が廃れた語や語形や表現を捨てて時代に合ったものと取り替えたり、綴りや語形も、写字生やその顧客の住んでいる地方の方言に固有の形のものが用いられる。p287-288

原作者たちの言語はその出身地に関係なく、共通の文学語で書いていたという驚くべき事実。
十二世紀末のこの共通語はフランシアン方言を基本とし、ピカルディ方言など他の方言に特徴的な発音や語形が若干含まれていた。p293

 

パリのノートルダム大聖堂再建とその採石場

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再建中のパリのノートルダム大聖堂

 

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オワーズ県にある、パリのノートルダム大聖堂に使う石の採石場

 

まずはパリのノートルダム大聖堂再建のニュースです。

仏大聖堂、24年の再開確認 火災3年、大統領修復視察

 【パリ共同】2019年4月のパリ・ノートルダム大聖堂の火災から15日で3年を迎えた。フランスのマクロン大統領は修復に向けた作業が続く現場を視察し、24年に一般開放を再開する目標を改めて確認した。同国メディアが報じた。

 マクロン氏は修復に関わる関係者に対し、作業の進展をたたえ「新型コロナウイルス流行から脱しつつある一方、欧州で戦争が続く中、希望の証しとなる」と述べた。

 大聖堂では天井や壁、床のクリーニング作業が近く完了。今月中旬には一部が崩壊した石造りのアーチ天井を再建するのに使う石材をパリ周辺の採石場で切り出す作業が始まった。

 

続いてフランスアンフォから大聖堂に使用する石の採掘に関する記事です。

 

Notre-Dame de Paris : dans l'Oise, Benoît et Jean-François Horcholle extraient les pierres de la reconstruction


ノートルダム大聖堂:オワーズでは、ブノワとジャン・フランソワ・オルコールが再建のために石を採掘します

Une équipe de France Télévisions s'est rendue dans une carrière de pierres de l'Oise, à la rencontre d'artisans œuvrant pour la reconstruction de Notre-Dame de Paris. Les opérations d'extraction ont débuté, un travail à la fois titanesque et méticuleux.


フランステレビジョンの取材班は、ノートルダム大聖堂の再建のために働いている職人に会うために、オワーズの石切り場に行きました。採石作業が開始されました。これは、超人的で細心の注意を払った作業です。

 

Depuis des semaines, seul dans sa carrière de Bonneuil-en-Valois (Oise), Benoît Horcholle extrait des blocs. Sa concentration est extrême. "C'est une pierre dure, donc elle résiste au gel, aux intempéries. Elle a été sélectionnée pour Notre-Dame pour aller sur toutes les parties extérieures ou exposées", confie-t-il. Les pierres sont en de nombreux points similaires à celles utilisées au Moyen-Age pour édifier la cathédrale. Elles se sont formées il y a 45 millions d'années, quand la mer recouvrait encore le bassin parisien.


ボンヌイユ・アン・ヴァロワ(オワーズ)の採石場で数週間、ブノワ・オルコールは塊を採掘してきました。彼は極度の集中力の中にいます。「それは固い石なので、霜や悪天候に耐えます。ノートルダムですべての外装または露出部分に使用するために選ばれました」と彼は打ち明けます。石は多くの点で中世に大聖堂を建てるために使用されたものと似ています。それらは4500万年前、海がまだパリ盆地を覆っていたときに形成されました。

 

L'émotion des artisans
Le père de Benoit, Jean-François Horcholle, n'en revient pas d'avoir été sélectionné pour les travaux. "On a eu un frisson dans le dos et la gorge un peu serrée, parce qu'on était ému. On est une petite entreprise, quand même. On n'a pas trop l'habitude de travailler pour des monuments si importants", confie-t-il. Les pierres de l'Oise doivent servir à reconstruire la voute, qui s'est totalement effondrée quand la flèche de Notre-Dame est tombée. Une fois extraites, les pierres arrivent à l'usine de taille. Elles sont lavées, scrutées, et en cas de défaut, recalées. Les blocs sans imperfection sont eux découpés. Les tailleurs de pierres entreront bientôt en action pour que Notre-Dame retrouve l'ensemble de ses gargouilles.


職人の感動
ブノワの父、ジャン・フランソワ・オルコールは、彼がその仕事に選ばれて驚きました。「感動したので、背中と喉が少しきつくなり身震いしました。それでも私たちは小さな会社です。このような重要なモニュメントのために働くことに慣れていません」と彼は打ち明けます。ノートルダムの尖塔が倒れたときに完全に崩壊した丸天井を再建するには、オワーズの石を使用する必要があります。採掘されると、石は切断工場に到着します。それらは洗浄され、検査され、問題があれば使用されません。欠陥のない塊が切断されます。ノートルダム大聖堂がすべてのガーゴイルを取り戻すことができるように、石切機は間もなく稼働します。

 

選ばれし恍惚と不安。職人の緊張と心意気を強く感じます。

中世に大聖堂を建設した職人たちも同じような気持ちだったのでしょうね

石を採石し、丁寧に取り扱い、一つ一つ大切に積み上げていけば、破壊された大聖堂も輝かしく復活してくれることでしょう。