ハンザ「同盟」の歴史 中世ヨーロッパの都市と商業

ハンザ「同盟」の歴史 中世ヨーロッパの都市と商業 表紙

 

ハンザ「同盟」の歴史
中世ヨーロッパの都市と商業
高橋理 著 
創元社 発行
2013年2月20日 第1版第1刷発行

自分とハンザとの出会いは、エストニアのタリンに行った時でした。昼ごはんを食べた中世風のレストランがOlde Hanzaという名称でした。タリンもハンザの一員だったのか、と思った記憶があります。しかしこの本ではタリン(当時はレーヴァル)はほとんど出てきません。
この本自体はハンザの総合的な通史です。その中でも特に中心都市であったリューベクに対する、著者の研究対象を越えた深い愛情を感じます。

 

序章 ハンザ「同盟」とは何か
1 中世ヨーロッパの都市と商業
中世の南方の地中海貿易の取扱商品は各種の異国的で珍奇な商品
ハンザ商業の舞台であった北方貿易は主として生活必需品
2 ハンザのなりたち  
ハンザの基本的な意味は「団体」 
ハンザ全体に共通する同盟条約締結はなかったから、その結束は自然発生的で、要するに経済的利益共同意識に駆られて、国際法的行為の媒介なしに成立した。p30
ハンザは国際法上の同盟でもなければ、団体法上のギルドでもない。それでは何かといえば、歴史上ただ一回限りのユニークな存在であったと答えるほかない。p31
史実として、「ハンザ」が制度的に明確化する場所は、ドイツではなく、当時の経済的先進地であるフランドルにおいてであった。p32

 

第1章 ハンザの前史 
1 ハンザ商業展開の前夜
2 リューベクの建設
第2章 商人ハンザの時代
1 ハンザ史の時代区分
12世紀頃から14世紀中頃までが商人ハンザの時代
14世紀中頃からハンザが事実上姿を消す17世紀までが都市ハンザの時代
2 ドイツ商人のバルト海進出
ドイツ商人がバルト海を越えてロシアまで赴いた具体的な目的は毛皮
3 バルト貿易初期の様相

4 北西ヨーロッパ貿易初期の様相

 

第3章 都市ハンザの成立
1 バルト海岸諸都市の建設 
2 リューベクの発展
3 自然発生の都市連合
4 北方都市同盟の発生
5 対デンマーク戦争と都市ハンザの確立
デンマーク戦争を契機として東西の連携が実現したことはやはり重大
またシュトラールズント条約がハンザ勢力の頂点を示すことにも変わりがない。
同条約以後はハンザは膨張的野心を抱かず、既得権維持のための守旧政策に転じたという真相 p109

 

第4章 一四世紀前後のハンザ貿易 
1 ハンザのスカンディナヴィア進出
2 バルト貿易の進展
3 フランドルの情勢
4 イングランドにおけるハンザの経済進出
イタリア商人はイングランド貿易で占めながら人数が意外に少なく、ハンザ商人は貿易量は少ないのに参加商人数が多い。p126

 

第5章 ハンザの機構および貿易と都市の態様
1 ハンザ総会
成員相互の意思疎通のための機関はハンザ総会のみ
2 ハンザの中央機構
ハンザ加盟者の権利は何よりも海外におけるハンザ特権、つまり低関税、自由通商、居住権等の諸権利を享受できること。p136
ハンザの中央機関として存在するのはハンザ総会のみ。
ハンザの事務はリューベクのラート(市参事会)がとったに過ぎない。p137
ハンザの中央財政は不備だったが、財源としては、商人の商活動を課税対象とする方法と加盟都市ごとの分担金 p138

3 ハンザの外地商館
ロンドン、ブリュージュ、ベルゲン、ノヴゴロドの四大商館を「商館(コントール)」と呼び、他を「支所(ファクトライ)」と呼ぶ。p143
ロンドン商館(スチールヤード)
ブリュージュ商館
リューベクの比重が低かった。
ロンドンと違い、ハンザの建造物も敷地もなかった。
ヨーロッパ随一の先進地だった。
ベルゲン商館
独身の男が粗末な木造家屋に集団で暮らしていた。
リューベクが優位を占めていた。
ノヴゴロド商館(聖ペーター・ホーフ)
聖ペーター教会が商人活動全般の中心として極度に重要
現地ロシア人に対してハンザ商人が徹底した不信を示す。

4 ハンザ貿易の態様
・冬期航海禁止の慣習
スウェーデンデンマーク間にあって北海・バルト海を繋いでいるズント海峡の航行問題
・陸路、特にハンブルク・リューベク間の重要性
船舶共有組合
一隻の船舶を複数人の出資によって建造し、出資の割合に応じて持分とし、航海から生ずる利益を持分の大きさに応じて配分 p158
ハンザの商業活動は堅実である反面、信用経済を発達させようとする大胆さに欠ける。その結果、南方の地中海貿易で発達した銀行・保険業はハンザ圏ではほとんど発達しなかった。p161

5 中世ハンザ都市リューベクの完成
1375年神聖ローマ皇帝カール四世のリューベク訪問

中世都市の市政を担当したのは、ラートと呼ばれる一握りの有力者
その中の何人かが市長(市長は複数で存在)となった。

中世ヨーロッパでは都市は田舎よりも衛生状況が悪く、ペストの流行は農村より都市の方が悲惨だった。p173

6 ゴシック都市リューベクの完成
中心教会が大聖堂ではなく、聖マリア教会という商人教会だというのがリューベクの性格
ローマ帝国崩壊後、街を維持したのは司教だったが、リューベクは古代文化の背景を欠く新開地に商業を目的として12世紀に建設された都市だったため、保護者あるいは支配者としての司教は存在しなかった。p177

聖マリア教会を名高くした18世紀前半の音楽家大バッハの逸話
この教会のオルガニスト、ディートリヒ・ブクステフーデにより、リューベクでの感動が大きく、休暇期間を勝手に延長してしまう。p181
ゴシックのみに終始したことはリューベクの歴史を理解する上で重要。全生命力を中世北方世界のために捧げ尽くし、果たすべき歴史的役割の一切を果たし終え、中世の終焉とともに歴史の舞台から退いたリューベクの生涯がそこに集約的に表現されている。p187
1942年3月28日、リューベクはイギリス空軍の爆撃を受け、聖マリア教会を含め市内の大部分が破壊された。しかし戦後のリューベク市民はゴシックの旧様式をそのまま再興した。p188

 

第6章 ハンザの衰退
1 中世末期のハンザをめぐる国際情勢
ハンザ勢力が極点に達してしまっただけでなく、ハンザに対する積極的な挑戦も15世紀には顕著になった。その根本原因として、各国における市民層=商人層の成長と、近世的中央集権国家の確立をめざす努力のはじまり p189
2 中世末期におけるハンザとイングランドの関係
3 オランダ商人との競争
オランダ人はハンザ側の妨害に関わらず、ズント海峡を積極的に活用した。
「公海」の観念がなかった中世においては海洋もしばしば土地を領有するのと同じように支配できると考えられた。p208
4 ハンザ内部の動揺

 

第7章 ハンザ諸都市の群像
1 ライン地方
ケルン
輸出産業都市で、リューベクの性格とは正反対
ゾースト
ケルン都市法に源を有するゾースト都市法を北のハンザ諸都市に伝える。
2 ハンブルク
今日でもなお正式に「ハンザ都市」と認められているのは、リューベク、ハンブルクブレーメンのみ
3 ブレーメン
ハンブルクはリューベクを助け常にハンザに協力的だったのに対し、ブレーメンはハンザの一員でありながら、その態度においてハンザに冷淡だった。
4 バルト海岸諸ハンザ都市
ヴィスマル
ロストク
シュトラールズント 
グライフスヴァルト
ロストクに次ぐハンザ第二の大学が1456年に設立される。
5 ダンツィヒ
6 リーガ

 

第8章 ハンザの末路
1 外地商館の没落
2 イングランドにおけるハンザ貿易の末路
3 ハンザ最期のあがき
ハンザ建て直しの試み
・ハンザ諸都市の群別再編成
・ハンザ官僚任命の試み
4 ハンザの滅亡
ハンザ連合勢力唯一の象徴的機関であるハンザ総会の最後は1669年
その年が通説ではハンザの終焉

 

終章 ハンザの文化遺産
「文化」を論ずる場合、文学、絵画、彫刻、音楽という部門のみを考えがちだが、ヨーロッパ文化史を論ずるにあたっては「都市」という芸術のジャンルを建てる必要がある。p272

著者としてはハンザ固有の文化的遺産として、17世紀に開花した北ドイツの教会音楽をぜひ挙げたい。p277

フランス大統領与党「再生」に名称変更

2019年の欧州議会選挙におけるマクロン陣営名簿のポスター

 

仏大統領与党「再生」に名称変更 下院選へ新連合で共闘

【パリ共同】フランスのマクロン大統領を支える与党、共和国前進(REM)のゲリニ代表は5日の記者会見で、党の再構築を始め、名前を「再生」に変更する方針だと明らかにした。別党派の議員らの合流を見込んでいるもようだ。

 またゲリニ氏らは、6月の国民議会(下院)総選挙に向け、与党連合を組んできたREMと中道政党、民主運動のほか、右派出身のフィリップ前首相が結成した新党「地平線」も加わって新たな連合「結集」をつくり、共闘すると発表した。

 フランスのメディアによると、577選挙区のうちREMが約400、民主運動が100超、地平線が約60で候補を擁立することで合意した。

《最初このニュースを見た時、「再生」のフランス語が何かなぁと思ったのですが、Renaissanceとのことです。華々しいですね。この党名はマクロン大統領にとって目新しいものではなく、画像のポスターのように、2019年の欧州議会選挙において、マクロンさん率いる候補者名簿(欧州議会選挙は拘束名簿式比例代表制)で既に使われていたものです。
ちなみに他の党名のフランス語は「民主運動」はMoDemと電子機器のようですが、Mouvement démocrateの略称です。
そして新党「地平線」はHorizonsとなります。
そしてこれらの党が集まった連合が「結集」Ensembleって、そのまんまですね(笑)》

 

 

羊皮紙に眠る文字たち再入門

羊皮紙に眠る文字たち再入門 表紙

 

羊皮紙に眠る文字たち再入門
黒田龍之助 著
白水社 発行
2022年1月30日 発行

ロシア語など、いわゆるスラヴ語派などの言語について、著者の体験を含め、ユーモラスに語っているエッセイ集です。

二十世紀末、第二外国語の不人気ナンバー3はアラビア語、ロシア語、韓国語だった。この三つに共通するのは「見知らぬ文字を使っている」という点だった。
でも知らなかったことが分かるようになるのは、喜びではないか。

 

第i章 スラヴ語学入門
それぞれの言語がどの文字を採用するかは、言語学にみれば全く恣意的、つまりどれでもよいはずである。ロシア語をラテン文字で書き表そうというのならば、それはそれで可能である。ところが実際には文字というものはそれぞれの言語を使う地域の文化、特に宗教と深い関わりをもっている。どの宗教もその教えを伝えるためにはそれを書き残す必要があるわけで、文字はそのための重要な役割を果たすのである。
もっともインドネシアやモンゴルやトルコなどの例外はある。この場合、文字は宗教ではなく政治体制と関係がある。p29-30

 

ロシア人の名前は「名」+「父称」+「姓」という三つの部分から成る。
父称は父親の名前に接尾辞をつけてつくられる。
父称を使うということは、文化人類学的にはロシアが父系社会であったことを示すのだと思う。そんなことよりも実際困るのは、父親がいない、あるいはよくわからない子供が生まれてしまった時である。p54-55

新『現代ロシア標準語辞典』や『11世紀ー17世紀ロシア語辞典』、『18世紀ロシア語辞典』、『スラヴ諸語語源辞典』、『古ベラルーシ語辞典』、『標準セルビアクロアチア/クロアチアセルビア語学習辞典』など、完結していない「未完の辞典」を持っている筆者p59-60

 

第ii章 中世スラヴ語世界への旅

教会スラヴ語
読み書きにしか使わない文章語。その中でももっぱらキリスト教文献に使われたため、名前に「教会」と付いている。12世紀以降に書かれた言語。それより前の言語は「古代スラヴ語」という。p75-76

単数や複数で無い「両数」または「双数」
特に《2》を表すための数
現代ロシア語には無いが、中世のロシア語には存在した。
また現代でも、スラヴ諸語の中で、上・下ソルブ語スロヴェニア語には両数が残っている。p85-86

 

筆者がミンスクベラルーシ大学で、ベラルーシセミナーに参加していた時の、ハレールカ(ロシア風にいえばウォッカ)飲みながらの話
あるベラルーシ人曰く
ロシアは古代ルーシ伝統から離れたところで、モスコーヴィヤ(モスクワ公国)に過ぎない。
本当のルーシと言えるのはウクライナ
ベラルーシは、実はリトアニア。今はバルト系の民族が住んでいるが、ベラルーシの心の故郷といえばやはりヴィリニュス。ベラルーシの歴史にとって、リトアニアは重要な舞台で、ヴィリニュスこそはベラルーシのもう一つの首都 p111-112
(酒の席とはいえ、複雑な国民感情が垣間見えます)

 

古い時代のロシアでは、白樺の皮を剥いで、紙の代わりに使っていた。
1951年、ノヴゴロドという歴史ある町で、文字が刻みこまれた白樺の皮が見つかった。今日に至るまで発掘作業が続けられている。これを白樺文書(もんじょ)という。
木の皮にインクや木炭で書かれることは珍しくないが、この白樺文書は先の鋭い筆記用具で引っかくようにして文字を記しているのが特徴的 p113-114

 

古代スラヴ語
文献の言語、つまり書かれたことば
9世紀後半から11世紀末の言語とはっきりしている。
なぜはっきりしているのか?そういうふうに決めたから。その期間だと規定したから。 
なぜ9世紀後半なのか?この頃にスラヴの地で文字が考案されたから。もっとも残っている文献のほとんどは11世紀のもの。p124-125

第iii章 文字をめぐる物語

 

第iv章 現代のスラヴ諸語
チェコ語は他のスラヴ諸語をいくつか齧った者から見ると、不思議な言語。
たとえば軟変化タイプの形容詞。男性、女性、中性とどの名詞と結びついても同じ形。
スロヴァキア語はチェコ語に似ているが、スラヴの言語らしく形容詞は名詞の性に合う。p197-198

ブルガリア語の特徴
南スラヴ諸語の一つ
語彙についてはロシア語に近い
文法構造はロシア語と著しく異なっている。
ブルガリア語の名詞類は格語尾がなくて、後置冠詞があり、また動詞は時制や法に多くの形態を持つ。p201

追章 ギリシャ語通信

 

 

ストラスブール大聖堂の丸天井の修復について

シャトー広場から見たストラスブール大聖堂

ストラスブール大聖堂の丸天井

La cathédrale de Strasbourg en chantier pour deux ans afin de restaurer sa grande coupole

大きな丸天井を修復するために2年間工事を行うストラスブール大聖堂

 

(特に建築についてはよくわからないのですが、とりあえず訳してみました。とりあえず丸天井あたりの修復に限定されるようです。あと、シャトー広場ってこんなに広かったかなぁとふと思ってしまいました。二十年前なので記憶もたよりないですが)


D'importants travaux vont être lancés en ce printemps 2022 pour restaurer la grande coupole qui surplombe le chœur de Notre-Dame de Strasbourg. Une grue sera installée place du château pour mener à bien le chantier prévu pour durer jusqu'en 2024.


ストラスブール大聖堂の内陣を見下ろす大きな丸天井を修復するために、2022年の春に主要な作業が開始されます。2024年まで続く予定のプロジェクトを実施するために、シャトー広場にクレーンが設置されます


C'est un ouvrage monumental "dans un état de grande intégrité", mais dont l'aspect a été dégradé par plusieurs restaurations pour certaines mal réalisées : la grande coupole qui couvre le chœur de la cathédrale de Strasbourg a été construite entre 1180 et 1200 et fait partie de la première phase de la reconstruction de l'église, qui s'est achevée au 15e siècle.


これは「完全性の高い」記念碑的な建造物ですが、何度もの修復によって外観が劣化し、その一部は不十分に行われました。ストラスブール大聖堂の内陣を覆う大きな丸天井は1180年から1200年の間に建てられ、 15世紀に完成した教会の再建の第一段階の一部をなしています。

 

Elle a aujourd'hui besoin d'être restaurée et mise en valeur, car "elle présente des désordres, conséquences des sinistres subis depuis la guerre de 1870 et de certaines restaurations inappropriées de la fin du 19e siècle", précise la direction régionale des affaires culturelles, qui pilote le chantier.

「1870年の戦争以降の被災の結果と19世紀末の不適切な修復を改善する」ため、今、修復および強化する必要があると、作業を指示する文化担当地域局は述べています。

Ainsi, l'enduit de ciment qui recouvre l'ouvrage sera remplacé, à l'extérieur, par une couverture de plomb. Les grandes baies de la tour dite Klotz, pour l'instant fermées par des menuiseries, pourront alors être rouvertes. Pour réaliser cette phase de travaux, une grue sera installée sur la place du château.

そのために、構造を覆うセメントコーティングは、外側が鉛カバーに置き換えられます。その後、現在木工で閉鎖されている、いわゆるクロッツと呼ばれるタワーの大きな開口部を再開することができます。この段階の作業を実行するために、シャトー広場にクレーンが設置されます。

 

A l'intérieur du monument, grâce à des échafaudages qui vont être installés au courant du mois de mai, les maçonneries seront nettoyées, "purgées des sels qui les ont contaminés", avant qu'en nouvel enduit à la chaux ne soit appliqué.

記念建造物の内部では、5月中に設置される足場のおかげで、新しい石灰塗料が適用される前に、石積みを「汚染していた塩分を一掃」するために洗浄されます。

 

Un chantier de 21 mois et 1,7 millions d'euros

 

21ヶ月と170万ユーロのプロジェクト

Ces travaux doivent durer 21 mois, et devraient être achevés en 2024. Ils seront suivis par l'architecte en chef des monuments historiques, Pierre-Yves Caillault, sous l'égide de la direction régionale des affaires culturelles du Grand Est. Ils sont chiffrés à 1,7 millions d'euros.

この作業は21か月続き、2024年に完了する必要があります。これらの作業は、グラン・テスト地域圏の文化当局の支援の下、歴史的建造物の建築責任者であるPierre-Yves Caillaultによって監督されます。そのプロジェクトには170万ユーロかかります。


Les activités liturgiques, et touristiques, de la cathédrale ne devraient pas être impactées, puisque la structure nécessaire aux travaux sera suspendue au-dessus du chœur.

大聖堂の典礼や観光には、作業に必要な構造が内陣の上に吊り下げられるため、影響を受けないようにする必要があります。

 

ユーラシア横断紀行

西域探険紀行全集1 ユーラシア横断紀行 表紙

 

西域探険紀行全集(全15巻別巻1)
第1巻 ユーラシア横断紀行
訳者 水口志計夫
発行所 白水社
1966年11月5日 発行

この巻は、イギリス人トーマス・ウィリアム・アトキンソン(1799-1862)により書かれました。原題はTravels in the regions of the upper and lower Amoor and the Russian acquisitions on the cofines of India and Chinaーwith adventures among the mountain Kirghis ; and the Manjours, Toungouz, Touzemtz, Goldi, and Gelyaks : the hunting and pastoral tribesとなっています。
この著者アトキンソンは元来建築家ですが、水彩画をよくしたそうです。この巻でも、さし絵はアトキンソン自身の絵から彫刻した、多数の風景画が含まれています。
原著が出版された頃、中央アジアの探険は、イギリスがインドを根拠として、北に向かって範囲を広げていきます。一方ロシヤは、シベリアから南に向かって、またカスピ海から東に向かって、その勢力を進めていきました。
両国にとって争いの場になるであろう地域であり、この原著も当時、単なる紀行文以上のニーズがあったものと思われます。

本著はセミパラチンスクから始まります。1850年10月、新疆省の旅からアトキンソンはそこに着いたのでした。
本著の前半では、アトキンソンの足跡は、バルハシ湖とカラ・ターおよびアラ・ターとの間に限られています。過酷な自然状況が印象的です。
後半はアムール川に当てられています。その発端は買売城(マイマチン)から始まります。イルクーツクバイカル湖、ネルチンスクまでは旅行記の形をとっていますが、アムール川下りは紀行ではなく、地形の説明や歴史的事件の著述となっています。

 

1 サーカシアの囚人たちの逃亡
戦争の捕虜として、シベリアの鉱山で働くために送られていたサーカシア人が、シベリアの刑務所から、遠く離れた家に逃げようとした事件

2 キルギス人の中にあるロシヤの駐屯地
キルギスの魔神の墓

3 アジアの砂漠を横断する方法

4 ステップの銀鉱
チンギス・ター鉱山をめぐるキルギス人との交渉とお祭り

5 大オルダ内へのロシヤの最初の前進
大オルダ
族長のテント、行宮の意。かつてキルギス人は三オルダ(南部の大オルダ、畜群に適する地域の中オルダ、および欧露のロシヤ領に近い小オルダ)に分かれていた。p80

 

6 コラ川と伝説
コラ川沿いの直立する五つの巨大な石。魔神の墓。
(ギリシャ起源の伝説と全く同じ真実性を持った)キルギス伝説

7 コバルでのできごと
アヘンの喫煙が、金持ちのキルギス人のあいだの流行となっている嘆かわしいこと

8 コバルからの出発

9 地震で水のなくなった山の湖
アク・ター山脈や大峡谷、花崗岩でできた自然のアーチ、悪魔の洞窟などの光景

10 キルギス人の夏の牧草地への移動

 

11 隊商とコサックの道
ステップ上の蜃気楼と砂嵐
前者は幻の水を見せて喉の渇いた旅人をじらすが、後者は旅人の墓となるかもしれない。

12 スルタン・ティムールとジャンギール・ハン
スルタン・ティムールはステップの最も古い有名な家族の代表。彼の家系図の根源は、偉大なチンギス・ハンの家族の中にある。
19世紀のはじめ、有名な酋長ジャンギール・ハンが、カラ・キルギス人の種族を支配し、周囲のあらゆる地域で恐れられていた。

13 キルギスの駆け落ち
両家の息子と娘が結婚しようとするが、カルイム(ラクダや馬などの持参財産)が折り合わず、破談になる。そこで若い二人は駆け落ちするが、最後娘が虎に襲われ殺される悲劇。

 

14 隊商道路と買売城 
買売城は、その名の示すとおり、《交易の場所》

15 トランス・バイカルとアムール川の源

16 ケルレン川すなわちアムール川の本源  
ハバーロフ(生没年不明。17世紀におけるロシヤの探検家、実業家) 

17 アムール川上流 
アムール川のスヴェルビーフ岬。ロシヤの地理学者が犯した愚行。でこぼこした崖からその独特の名前を奪って、探険に従った若僧の名前という無意味な名に変えてしまった。p388

18 アムール川中流 

19 アムール川下流
ゴルド人、マングーン人などの原住民

 

霧の彼方 須賀敦子

霧の彼方 須賀敦子 表紙

 

霧の彼方 須賀敦子
若松英輔 著
集英社 発行
2020年6月30日 第1刷発行

(シエナのカテリーナの)小聖堂は険しい坂道の下にある、そう彼女(須賀)は記憶していた。案内表示に従って行った場所は違った。聖堂にはたどり着いたが、あるはずの坂道が見つからない。そのことに須賀は驚きを隠せない。もちろん、目的は聖女の生家跡の訪問だった。だが、同時に彼女はかつて降りることのできなかった坂道も、もう一度この足で踏みしめたいと願っている。「驟雨のような祈りの声が聞こえてくるカテリーナの小聖堂にはついには入らないで、私は太陽の照りつけるだらだら坂に戻った」と須賀は書く。ここで坂道を降りるという行為は、霊性的世界の深みへ向かうことの隠喩にもなっている。p72

 

カトリック左派」という言葉は、須賀敦子の作品を読みとく重要な鍵となる。しかし、用いるときには一定の留意がいる。「あたらしい神学」が両義的だったように、コルシア書店の運動を象徴する表現なのだが、それは同時にコルシア書店に集った人々にとっては半ば自虐的な呼称でもあった。党派、宗派の壁を打ち破り、言説ではなく、その精神、心において交わり、対話し、ときに討論する場を作ろうというのが彼らの願いだったからだ。p94
ここでの左派とは、非教条的であることを意味する。p95

 

彼女(須賀)はしばしばさまざまな教会のファサードに世界の深みからやって来る呼びかけを聞く。「ファサード」という言葉が出てくる多くの文章で須賀はよく言語を媒介としない歴史との対話をめぐって何かを語ろうとする。「霧」という言葉が此岸と彼岸をつなぐものだったように「ファサード」は異界への扉になる。p102

 

エマウスの運動体の創始者であり、2007年に94歳で亡くなるまでそれを牽引したのがアベ・ピエールだ。「アベ」は名前ではない。「神父」を意味するフランス語で、直訳すると「ピエール神父」ということになるのだが、この呼称には、そこに収まらない親しみと敬愛の情がある。
19歳のときアンリ・グルエス(アベ・ピエールの本名)は、自身の財産権を慈善団体に寄付し、フランシスコ会の中でも戒律の厳しいことで知られるカプチン会に入会
1939年、第二次世界大戦に従軍
その後、レジスタンスに参加。ド・ゴールの弟を救い、ピエールとド・ゴールを結ぶきっかけになる。
戦後、1951年まで国会議員となる。
1949年、自殺未遂の男が最初のエマウス共同体の会員となる。
議員としての給与はすべてエマウスに注がれたが、その職を退くと街に出て物乞いをした。
しかしその後、寄付や参加申し出により、エマウスは運動体として大きく飛躍する。
p119-123

 

文筆家須賀敦子の出発は翻訳だった。翻訳はかたちを変えた批評である。原文のある一語にどの日本語を当てるかによって文章の姿は一変する。語学力ももちろんだが、訳者には優れた批評精神が求められる。近代日本の優れた批評家がいくつかの優れた翻訳を残しているのも偶然ではない。p173

誰の人生にも三つの「季節」があるかもしれない、とは(須賀は)書いている。
それは人間が、自らの「肉体」、「精神」、「たましい」の固有の役割とその限界を痛切に感じる時期でもある。肉体が、かってのように動かなくなってきたとき、人は精神に目覚め、精神の限界を知ったとき、たましいの存在を深く感じとる。p217

 

2016年に刊行された『須賀敦子の手紙』と題する本。
題名のとおり、須賀が友人の画家スマ・コーン(大橋須磨子)、そしてその伴侶であり、日本文学研究者であるジョエル・コーン、この夫妻に宛てて須賀が二十余年にわたって送った書簡集。p413-414
その中で、夫を喪ったあとの彼女にも、自身が恋と呼べるような交わりがあった。
この手紙から二ヶ月後の便りには「もう私の恋は終わりました」と記されている。p419
(この本について、このブログに書いた時(当時はYahoo!ブログ)、その記事に対して、「須賀さんが(伴侶との死別後)恋をしていて本当によかった」というコメントを頂いたのを思いだしました)

 

1981年、須賀が上智大学の常勤講師となって二年後の秋、彼女は、ダンテの『神曲』を読みたいという若者に出会う。
その学生に須賀を紹介したのはラテン文学の研究者である藤井昇で、学生は今日、日本におけるダンテ研究の第一人者である藤谷道夫である。
(藤谷は当時)無名な須賀と、短くない期間を近しい関係の中で過ごし、文字通りの意味においてダンテ研究の衣鉢を継いだ。p420-421

ランボーとダンテ、二人に共通するのは、時代とその文化を代表する詩人だったという点だけではない。彼らは共に正統なる異端者だった。古い教えに忠実であろうとするために時代の常識に抗わなくてはならなかったのである。須賀はユルスナールに、ダンテ、ランボーの血脈に連なる者の姿を見る。p433

 

ある日、彼女(須賀)はがん治療をしていた病院を抜け出して、教会へ行った。そこで彼女は神父にこう話した。「私にはもう時間がないけれど、私はこれから宗教と文学について書きたかった。それに比べれば、いままでのものはゴミみたい」
最後の「いままでのものはゴミみたい」という言葉には「歴史」がある。
1273年12月6日、この日をさかいにトマス・アクィナスは『神学大全』の著述を止めた。
続行を懇願する僚友に対してトマスはこう言った。
兄弟よ、私はもうできない。たいへんなものを見てしまった。それに較べれば、これまでやってきた仕事はわらくずのように思われる。私は自分の仕事を終えて、ただ終わりの日を待つばかりだ。
三ヶ月後、トマスは帰天した。
須賀は1998年3月20日、逝去。p465-467

 

フランス大統領選挙 マクロンさんの勝利

フランス大統領選挙に勝利したマクロンさんの支持者集会

 

フランスの大統領選挙、予想通りマクロンさんの勝利となりました。
画像は支持者集会の様子です。
マクロンさんの基本理念を反映して、フランス国旗だけでなく、EU旗も目立ちます。
前回の勝利時には、ルーブルのピラミッド前だったと思います。
今回はエッフェル塔前のシャン・ドゥ・マルスのようです。
ここは野外コンサートなども開かれているような場所です。自分がパリにいた時でも、小澤征爾ジョニー・アリディのコンサートが行われていました。
前回よりも広々として良い場所を使うことが出来るのは、やはり現職の強みでしょうか?よくわかりません。
さて、今回の大統領選挙を振り返えると、自分には一位二位より、三位以下の結果が気になりました。

極左のメランションの二位に近い三位という躍進です。
全体的に右派に押された中、左派の受け皿を極左が引き受けるという形になってしまいました。
本来受け皿となるべき社会党のイダルゴさんは惨敗。
同じく伝統政党の共和党から出馬で、個人的にひそかに期待していたペクレスさんも大敗でした。
既存政党からゼムール氏を含む極端への動き、フランス社会の分断という考え方が一般的ですが、それに加えて、SNSの浸透による団体から個人への動きとも思ってしまいます。
カトリックのヴァチカンからルターによる宗教改革。神の代理人ではなく個々が神と対話する。そしてグーテンベルク活版印刷による情報革命。
当時の宗教改革のような流れが今の政治状況になっているのかもしれません。
でもSNSで考えを表明できるといっても、所詮は無力な一個人のつぶやき、単なる幻想に過ぎないのですが。