「モーゼの井戸」の人物と預言と歴史(ディジョン)

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「モーゼの井戸」のモーゼとダビデとエレミヤ

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「モーゼの井戸」のエレミヤとゼカリア

 

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「モーゼの井戸」の配置図

こちらの画像はディジョンのクラウス・スリューテル作「モーゼの井戸(1395-1406)」です。
中心街から離れた場所にありますが、頑張って歩いて見に行っていました。
以前にはこの見学について書いていましたが、今回は主にこの登場人物について書いてみます。
この井戸はモーゼをはじめとして、旧約聖書に出てくる六人の預言者が表現されています。
六角形の面に配置図のように位置しています。矢印は写真を向けた大体の方向です。イザヤさんとダニエルさん、撮影していなくてごめんなさい。当時は工事中だったので、その角度からは撮影しにくかったのかもしれません。
皆さん十字架でのキリストの死について預言していると言われます。
まずモーゼ(モーセ)から。上の画像の向かって左、髭が立派なお方です。
彼は「夜分に、イスラエルの息子たちの群衆が子羊を犠牲にするであろう」と預言しています。
額のところに角が見えるのは、中世芸術におけるモーゼに見られる特徴です。もともと「光線」という単語を「角」と誤訳?したことが原因だそうです。
その隣はダビデイスラエル王国二代目の王です。さすが貫禄ありますね。
彼は詩編22編で「彼らは私の手と足を突き刺した。彼らは私の骨に番号を付けた」と書いています。
その奥隣、下の画像の向かって左側はエレミヤです。
前七世紀のイスラエル預言者で、「哀歌」の著者です。
キリストまたは哀れみの聖母に適用できる抜粋をその巻物に載せています。「道を通り過ぎる人は、私を見て、私のような痛みがあるかどうかを確認してください」
その隣は前9世紀後半の預言者ゼカリアです。キリストを死に至らしめるユダの裏切りを伝えました。「彼らは私の身代金を銀貨30枚と見積もった」
そして横姿の見えるダニエルは神託を発します。「62週間後、キリストは殺される」
前8世紀後半の預言者イザヤは次のように予言しています。
「彼は雌羊のように殺される。そして毛刈人の前の子羊のように沈黙し、口を開けない」
悲劇が見えてしまう預言者の苦悩がリアルに表現されている、素晴らしい作品だと感じます。

現在残っている部分は土台で、この上には巨大な十字架、キリスト像(現在ディジョン考古学博物館にあり)、聖女像、使徒像などが置かれていました。
また1406年には、預言者の彫像などに彩色が施されました。
18世紀末の革命時に破壊されましたが、土台は破損を免れました。
1840年には歴史的記念碑と認定されます。
そして1947年には彩色剥ぎ取りの調査が行われました。

(Musée des Beaux-Arts de DijonのHP等を参考にしました)

柳田國男とヨーロッパ 口承文芸の東西 第2部~第3部

第2部 昔話・伝説の東西
a 昔話
1 聴耳
聴耳の構成は総じて、呪宝を得るまでの経緯と、その呪宝によって鳥などの動物の会話の内容を知り幸せに到達するまでとの、二段に分かれている。

2 歌い骸骨
骸骨が歌ったり歌わなかったりして恨みを晴らす

3 糠福米福
わが国の継子話の中で、ヨーロッパのシンデレラにもっとも近い昔話

4 姥皮
継子話のひとつ。姥皮を被ると老婆に変装できる

5 大工と鬼六
大工が鬼の名前を知り、危機を脱す

6 姥捨山
老親を山中などに捨てようとするが、結局は捨てることができない話

7 うつぼ舟
木をくりぬいて中を空洞にした舟

8 味噌買橋
夢告を信じる者が信じない者からその夢を譲り受けて財宝を発見する話

桜井美紀による「昔話『味噌買橋』の出自:その翻案と受容の系譜」

神話学者松村武雄の『世界童話体系』(大正13年から昭和2年にかけて刊行)の第7巻所載の「スワファムの行商人」を岐阜県高山市の教員小林幹が地元の昔話として翻案し、教育活動の一貫として作成した冊子に載せる

その話が飛騨地方の一部の人々の間で語られはじめていたのを、「丹生川昔話集」の執筆者三人(松岡浅右衛門・松岡つぎ・松岡みか子)のうちの誰かが「坊方の亡き母ナヨさん」という話者から聞いて「夢の夢」としてまとめる。昭和14年1月1日発行という奥付

昭和13年の年末に柳田はこの話を読み、すぐに「味噌買橋」を書いて、昭和14年の2月号の『民間伝承』誌上に発表

平成4年3月に上記の桜井により、この経過発表

(灯台もと暗しという感じですが、実際いろんな研究分野で、よくありそうな事例です)

資料a 柳田國男の昔話・口承文芸研究資料

b 伝説
1 木(植物)

2 石・岩

3 水

4 坂・峠(山・丘)

資料b グリム兄弟編『ドイツ伝説集』項目別一覧表

第3部 テーマ研究
1 柳田國男口承文芸研究

2 かぐや姫と白鳥処女:柳田國男『昔話と文学』覚書

3 オーストリア民俗学者オポルト・シュミットの民話論

アウグスティヌスは浜辺で何かを一心不乱にしている子どもの姿を見かける。何をしているのかとその子どもに尋ねると、その子どもは海の水を汲み尽くそうとしているのだと答える。それはまたシュミット自身の自画像である。
彼は民俗学の分野において、その根源とその根源から発する限りない広がりとに関わる自らの姿を、聖アウグスティヌスの前の子どもに重ねた。p390
(碩学の柳田でさえも、その子どもの一人だったように思えます)

4 『ペロール説話集』の書き込みについて
柳田のフランス語の蔵書の中で、ピエール・サンティーヴ著『ペローの昔話と類話とその起源(未開習俗と民間儀礼)』は、最も多くの書き込みがあり、読み込まれた形跡が残っている。

5 柳田國男のヨーロッパ口承文芸地図
柳田はきわめて組織的かつ体系的にヨーロッパの文献を収集し研究していた。
a.北欧1 アイスランド『エッダ』とサガの文学
b.ケルト
c.北欧2 フィンランド『カレワラ』  
d.ゲルマン系 ドイツ
e.東欧 ロシア
f.ガリア系 フランス 
ベディエ、サンティーヴ、セビオの三人
g.南欧1 ギリシャ/アルバニア
h.南欧2 スペイン
i.南欧3 イタリア 
ジーレ、ピトレの二人

 

柳田國男とヨーロッパ 口承文芸の東西 第1部 柳田のヨーロッパ口承文芸研究

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柳田國男とヨーロッパ 口承文芸の東西 表紙

 

柳田國男とヨーロッパ
口承文芸の東西
高木昌史 編
2006年3月31日 初版第1刷発行
三交社 発行

成城大学民俗学研究所に保管されている柳田國男の洋書文献に逐一あたりながら、口承文芸における柳田とヨーロッパの関わりに本格的に取り組んだ、比較研究ハンドブックです。

第1部 柳田のヨーロッパ口承文芸研究(柳田文庫調査)
日本に口承文芸学を樹立するに際して、柳田が蔵書中の洋書文献をどのように活用したかを、実際に彼が用いた書籍を手がかりに調査した報告集。

a 国別
1 ドイツ
文学青年として若き日を過ごした柳田が愛読したヨーロッパの詩人はハイネであった。
柳田は『流刑の神々』(柳田は『諸神流竄記』と呼んでいる)について集中的に言及している。

2 イギリス
すでに『遠野物語』などを著していた柳田に、イギリスの民俗学協会と、その創始者である民俗学者ジョージ・ローレンス・ゴムについて教えたのは南方熊楠とされている。

ゴムの著書の書き込みから判断すると、柳田がイギリスの民俗学から基本的な枠組みと理論をまずは取り入れた。
しかし古い伝承や習俗などが、ゴムの言う単なる「残存物」ではなく、現代においてもなお生き続いていることにこそ意味を見出だしたのではないか。そして、そうした「民俗」が生きている文化として日本をみようとしたのだと考えられる。

3 フランス 
柳田のフランス語の書物への読了記録が始まるのは、1921年国際連盟委任統治委員として一度目の渡欧をした年だった。

ベディエ、ユエ、ペロー、サンティーヴ、セビオ、ヴァン・ジュネップなどの著作から影響を受ける。

4 その他(フィンランド/ロシア)
ヨーロッパの口承文芸研究の発信源は意外にも北欧の国フィンランドである。重要な機関誌がそこから発行されたからだ。

b ジャンル別
1 昔話 
柳田はまず昔話研究の中心人物をグリム兄弟に、そして当時の「学問発達の中心」をドイツに見ていた。p63

2 伝説 
(1) イギリス
イギリス、特にケルト文化圏の民間伝承を、他のヨーロッパの国々と比べた場合、際立つ特徴のひとつは、妖精やエルフが登場する伝説や民話の豊かさにあるといえる。
(2) ドイツ
柳田いわく、昔話は動物の如く、伝説は植物のようなもの
昔話は方々飛び歩くから、どこに行っても同じ姿を見かけるが、伝説はある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長して行く

3 聖者伝 
柳田の関心が向けられているのは、高僧・聖者個人やその伝記ではなく、聖者にまつわる伝説、あるいはむしろ逆に伝説の中の聖者、伝説と聖者の関係である。
様々な不可思議な出来事を弘法大師のような非凡な人物に帰そうとする民衆心性に柳田の関心が向いていた。
それに対してキリスト教の聖人伝は、伝説の形成過程の探求を主眼とはしておらず、語られる聖人の生涯とその業績によって信仰者の模範像としての生き方を示し、さらには神の崇拝へと誘うことを目的としていた。

柳田が伝説の特徴として挙げていること
・それが本当にあったこととして信じられている
・石、井戸、樹木などの具体的な物やしばしば地名や人名と密接に結びついている
・伝説には決まった様式がなく、語り手の都合によって長くも短くもなる

4 民謡
柳田文庫の中には、三菱銀行からの利息計算書を栞代わりにはさんでいる本があった。
(どうでもいい話ですが、なんとなく面白いので書き留めておきます)

クラッペの本への書き込みから、柳田の民謡に対する考察を検証

5 諺
 

柳田国男のスイス 渡欧体験と一国民俗学 Ⅲ 新たなる日本へ

Ⅲ 新たなる日本へ
第1章 啓蒙する帰朝ジャーナリスト
アメリカの排日移民法
柳田は排日運動が起こる事情に一定の理解
国際舞台で英仏語が振るう政治的権勢に対して義憤を覚える人物は、英語を国語とする国に移住しながら英語を習得しようとしない日本人に対して義憤する人物でもあった。p235

柳田がスイスの政体を調べ、それに好感を抱き、この選挙先進国に学ぼうとジュネーヴで一度ならず選挙見学をして、スイスの新聞と直後選挙の運営との間の密接な関係に気付いていて、選挙をする人々の態度に注意していた。p242

第2章 島のエスペラント
1923年11月の帰国後、柳田のエスペラントの啓蒙活動は本格化する。
しかし1928年以降、エスペラントについて語るテクストや講演記録はほとんど確認できない。
柳田が表立ったエスペラント宣伝活動をしなくなった背景には、精力を日本民俗学確立に傾注しだしたことに重ねて日本社会の右傾化・反動化があったと推量する。

第3章 成城郊外学
著者はシャンペルを散歩しながら、ふと思った。ここは成城に似ている。

〈郊外住宅から田園を散歩し野鳥観察をする〉という柳田の生活スタイルが、正確には東京西郊に先立ちジュネーヴ南郊ではじまっていた。

そもそもこの時期、成城に住むこと自体が一種の政治的・社会的な実践だった。

第4章 島と山
帰国後の数年間に特徴的なのは、
柳田が沖縄出身者を重んじつつ沖縄研究の組織化に奔走していること、
現代の沖縄が本土との関係において抱えている問題を強く意識していること、
沖縄研究を世界史的文脈へ開こうと努めていることp293-294

ヤマト民族の北上による先住民族の生活形態の変遷を明瞭に語った「山人考」が「山の人生」とともに単行本『山の人生』に収録されている点にも注目すべきである。
未発表だった1917年の講演筆記をわざわざ単行本に含めたことは、柳田がかつての主張をいまだ保ち、「山人考」によって「山の人生」における山人先住民族説の説明不足を補おうとした。p302-303

第5章 一国語民俗学
フランス言語地理学と『蝸牛考』の相違
・柳田が音韻的偏差よりも語彙の偏差に注目している
・柳田は新たな語彙を創作する者たちの社会的背景や感情を非常に重んじた。蝸牛の異名の誕生と伝播の背景に、村童たちによる集団的な口承文芸を透視している
・方法論よりも研究成果の水準に、またそこに柳田がこめた価値や感情に見出だされる。つまり「方言周圏説」

柳田における西洋の学問の受容を語る場合、洋書の読解だけを問題にするのではなく、もっとヨーロッパの組織的・社交的な学術活動との関連を調査し、総合的に分析する必要があると思う。p331

柳田のヴィジョンによると、日本とヨーロッパ大陸の国とでは、多様性と同一性のあり方に対照的な違いがある。
前者では、民族的単一性を基盤に、その地理的ヴァリエーションが高密度に多様であるのに対し、
後者では、民俗的異質性が複数のゾーンとなって顕れるが、ゾーン内のヴァリエーションの密度は低い。
同質的多様性VS異質的均一性
前者の同質性は、国土が海に閉ざされていることに起因し、後者の異質性は、国土が多方向に開かれることに起因する。p333

第6章 予定調和に抗して
ヨーロッパ体験の影響の二つの波
・国際協調主義・普通選挙エスペラント等を日本に根付かせる。植民地主義への批判。 南島を含めた日本列島の多様性を南洋群島やアジアとの比較や渡来民と先住異民族との関係を通して思考。 震災復興後の都市批評
・方言研究、口承文芸研究、民俗学の概論

エピローグ 柳田国男と日記
柳田は若い時分から死の数日前まで日記をまめにつけていた。しかし所在の明らかな日記は、残念ながら一冊もない。
また書簡の有無も不透明

読了自記も柳田にとってのテクスト

瑞西日記」は1940年代後半に「序」まで書いて出版しようとした。しかし出版しなかった。最晩年にこれを、おそらく没後出版になるという覚悟で、『定本 柳田國男集』に収録することに決めた。ただし、1947年に書いた「序」は変更しないまま。

 

柳田国男のスイス 渡欧体験と一国民俗学 Ⅱ 言語の地政学

Ⅱ 言語の地政学
第1章 国際連盟委任統治委員会
ジュネーブ赴任を了承した直後、諫早駅でプラットホームを幼児がよちよち歩いているのを見ながら、「あの子は西洋へ行かんでいいなあと感じてしまった」柳田さん。
(新しい世界は見たいが、一方でそれに対する不安や億劫さを感じる不安定な気持ちがよくわかります。情景を思い浮かべるとユーモラスですが)

第2章 国際連盟と使用言語問題
第一高等学校時代、柳田はドイツ語を第一外国語、英語を第二外国語にするコースに登録
英語・ドイツ語以外で書かれた西洋文学はまず英訳・独訳で読んでいた。
フランス語学習はフロベールアナトール・フランスなどの文学的関心からはじまった?
オランダ語はオランダ自体の関心よりも、オランダの植民地への関心によるもので、次弟・松岡静雄からの刺激による。
蔵書にイタリア語原著が加わるのはスイス時代から 
 
柳田にとって西洋言語は、彼方から貴重な情報や高度な文化を運ぶ魔法の絨毯だった。その牧歌的関係はジュネーブで終わった。
これ以降、柳田は洋書を繙くたびに、言語が国家や民族の力関係に貫かれていること、外国語の教養自体が言語間の不均衡な力関係を発動させ、強化する装置であること、つまり自分自身の学問が日本と西洋の不平等な地政学的関係に不本意ながら加担していることを、強く意識せざるを得なかった。p141

第3章 エスペラント
スイス時代以前、柳田がエスペラントへ言及したテクストや、エスペラントに関わったという逸話は見られない。
国際連盟の使用言語が英語とフランス語に限られていたことに対する反発や問題意識が、エスペラントに接近する動機となったのは明らかである。

柳田は、日本人がエスペラントを話すことだけでなく、エスペラントで書き、日本の情報や意見を海外に伝え、知的輸入超過の改善されることを期待していたと思われる。p146

柳田が西洋のエスペランチストとの交流を通じて学んだのは、エスペラントが大国の圧力によって共同体を離れた非常民の支えになっているという事実ではないだろうか。
この頃の柳田の周囲には、妙に東欧からの移民やユダヤ人が目立つ。p169

第4章 島と大陸
当時、ジュネーブには沖縄を研究したチェンバレンがいたが、日本人の面会願いを斥けたという話を聞いていたので、面会の申し出を慎んだという。

当時、日本/沖縄/その離島の間に見出だされている「鏡餅」状の差別構造は、西洋/日本/南洋群島の間に見出だされているコロニアルな差別構造と類比的である。p186

第5章 言語地理学
柳田が国際委任統治委員として直面していた「言語の問題」
・彼自身の英仏語による討議能力
委任統治領における国語と原住民の多種多様な言語との間にどのような関係を築くのが望ましいか

播州出身である柳田にとって、標準語ないし東京語は意識的に習得された言語であり、播州訛りから脱することはできなかった。とはいえ、官僚として地方を旅行した時には、あくまで上位から方言使用者に面する東京の標準語使用者だった。
それが西洋に来た途端、柳田の日本語は、否定しがたく東の果ての孤島の原住民の言語へ反転してしまったのだ。p203

フランスの言語地理学
特定言語の方言的ヴァリエーションの分布状態に基いて言語学的考察を行う。広域に及ぶ規則的な方言採集を行い、特定単語の異称や対応関係にある音韻などの分布状態を地図上に表記する。そうして作成された言語地図を基に、社会的・地理的条件なども考慮しながら、言語変化の順序、変化を阻む要因、変化した要素の伝搬経路などを推理する。p205-206

 

柳田国男のスイス 渡欧体験と一国民俗学 Ⅰ 風景の地政学

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柳田国男のスイス 渡欧体験と一国民俗学 表紙

 

柳田国男のスイス
渡欧体験と一国民俗学
岡村民夫 著
森話社 発行
2013年1月24日・初版第1刷発行

ジュネーブなど、滞欧時代の柳田国男の足跡をたどると共に、柳田の滞欧経験がいかに学問的にも影響を与えたかが叙述されています。

プロローグ 柳田国男と私  
1921年から23年、柳田は国際連盟の常設委任統治委員会の初代日本人委員として、一時帰国を挟んで二度渡欧
45歳から49歳にかけて、人生最初で最後の洋行

外国生活は、単一の結論に収斂するほど単純な事柄ではない。
言語も社会も自然も突然一変し、余儀なくその変化に自分が巻き込まれ、これまでの経験との差異と共通性の計測を、あらゆるレベルで、際限なく行わなければならなくなる。
長期にわたる外国生活の体験とは、本人にも把握しかねるくらい多くの互いに異質な襞をもった多様体であり、その襞は、帰国後長い時間をかけて徐々に展開し、影響力を顕すはずだ。p9

Ⅰ 風景の地政学
第1章 住まい
ジュネーブ旧市街の南、左岸の後背には、さらに高い台地が広がり、その一画をシャンペルと呼ばれる緑豊かな高級住宅地区がある。柳田が長期滞在したホテル(オテル・ボー=セジュール)があったのも、二軒の借家があったのも、この地区だった。

シャンペルは右岸の国際連盟事務局からは非常に遠かった。
しかし国際連盟の会議は左岸のオー=ヴぃーヴ地区の宗教改革ホールで、シャンペルから歩いて通える距離。そして日本事務所がシャンペルの一角にあった。

第2章 山
サレーヴ山
二つの頂きをもつ石灰岩の山塊
端山だが、ジュネーブにじかに面する独立峰

セルバン(Servan)
オート=サヴォアやジェラ山脈、またそれらに隣接するスイスの田園地帯に伝わる[家の精霊]
柳田はセルヴァンを東北のザシキワラシと重ね見ている。p55

「此書を外国に在る人に呈す」という特異な献辞を冠した『遠野物語』が、ウィリアム・バトラー・イェーツの『ケルトの薄明』(1893)に触発され、西洋を強く意識して書かれた書物であり、彼の「山人」がハインリヒ・ハイネの『諸神流竄記』(1853)を一発想源とする概念を想起すべきである。p61

ジュネーブの柳田は大きな思想的過渡期にあって、アルプスの景観や民俗と南部や信州のそれらとを比較しながら、日本の山人譚や山民の位置づけを反省していたに違いない。
スイス時代の書簡中、遠野の佐々木喜善と松本の胡桃沢勘内へ宛てたものが、質量ともに群を抜いているのは、これと無関係ではないだろう。
(特に佐々木喜善宛ての書簡が、この本でも目立つ。氏は遠野物語だけの人ではなかったのだ。佐々木さんを見直しました)

第3章 川
ジュネーブ」という地名は、「ジェノヴァ」と同様、「水の近く」を意味するケルト語系の言葉に由来する。

将来のチョコレート
地中海を渡り、アフリカとの窓口マルセイユに水揚げされたカカオが、川船によってローヌ川を遡上し、リヨンやジュネーブの工場でアルプス山麓からの牛乳と混ぜ合わされ、良質なチョコレートができあがる。
辻川と布川という河川交通に依存した場所で育った人物にふさわしい着眼だ。p69

スイスの永世中立、独立性、ローカリティと国際性の共存を支えている地政学的基盤は、西ヨーロッパの中央に位置し、山岳に囲まれ、大河の水源を湖や氷河として有することであり、ヨーロッパの分水嶺という自然条件である。p75

ジュネーブからアルヴ川を渡りカルージュという街に達する。 
柳田はこの街も散策していた。
Carougeという地名はラテン語のquadrivium(辻)に由来する。
川のそばの辻の村、辻川というわけである。

第4章 郊外
柳田にとって日常の〈郊外散歩〉が〈旅行〉におとらず重要なフィールドワークであり、思考方法だった。「瑞西日記」を読むと、ジュネーブにおいてもすでにそうだった。

柳田の住んだシャンペルは狭義の田園都市ではないが、田園都市的な郊外であり、それはある程度意図的に形成された性格だった。
また特別な文化的雰囲気を帯びていたと思われる。
ジュネーブ大学・旧市街・州立病院の後背地という立地条件だった。

 

ジェームズ・ティソ作「Japonaise au bain」ディジョン美術館

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ジェームズ・ティソ作 Japonaise au bain (ディジョン美術館)

この作品は、ジェームズ・ティソ(James Tissot 1836-1902)の「浴室の大和撫子」(Japonaise au bain 1864)です。
日本語訳においては、単に日本女性としたり、wikiの例のようにそのまんまラ・ジャポネーズという訳もありましたが、なんだか味気ないので、大和撫子と遊んでみました。
この絵はディジョン美術館訪問時には見た覚えがありません。ご覧のとおり妖艶な題材なので、自分のような好き者なら忘れられないはずなのですが。当時は展示されていなかったのかもしれません。
今回、ディジョン美術館について書くにあたり、そのHPをサーチしていたら、この絵と出会い、軽い衝撃を受けたので、書き残しておく次第です。
題名では浴室となっていますが、どこが浴室なのかよくわかりません。どうも裸のモデルを描くための言い訳のようにも思えます。水戸黄門由美かおるさんや、ドラえもんのしずかちゃんの入浴シーンと同じ感覚なのでしょうか?(笑)
それは別にして、作者のティソはこのような絵を描くくらいですから、ジャポニズムの影響を相当受けていました。
更には現在放映中の大河ドラマ「青天を衝け」に出てくる徳川昭武のパリでの画学教師になっており、昭武の肖像も描いているそうです。