アルザス欧州自治体(CeA)とは何ですか?

CeAのHPを読んでみました(日本語訳は不正確です(^_^;))

La CeA, c'est quoi ?

Cette organisation politique et administrative est composée de 80 conseillers d'Alsace représentant les cantons du Haut-Rhin et du Bas-Rhin, soit 40 binômes hommes/femmes.

CeAとは何ですか?

この政治的および行政的組織は、オ・ラン県とバ・ラン県のカントンを代表するアルザスの80人の議員、つまり40人の男性/女性のペアで構成されています。

(カントンというのは、フランスの行政区画のひとつです。

ただし州や県やコミューン(市町村)のような地方団体にはあたりません。

コミューンの一つ上の行政区画にあたります。

現在は県議会議員の選挙区としてなど、限られた役割しかありません。

あと男性/女性のペアということは現在のフランス県議会選挙の「パリテ二人組投票」わかりやすく言えば「混合ダブルス制投票」から来ていると思います。)

 

Les services et politiques de la CeA sont ceux des deux conseils départementaux auxquels s'ajoutent des compétences spécifiques et particulières à l'Alsace, liées notamment à sa situation géographique.

CeAのサービスと政策は、特に地理的状況に関連する、アルザス特有の権限が付け加えられた2つの県議会のものです。

 

La CeA représente une seule collectivité qui agit dans la proximité à l'échelle de l'Alsace et avec ses voisins transfrontaliers, l'Allemagne et la Suisse. Son statut unique est renforcé par sa position dans l’espace rhénan et les institutions européennes qui lui donnent une importance particulière en Europe.

CeAは、アルザスの規模で、国境を越えた隣国であるドイツとスイスと近接して行動する単一の地方自治体です。その独特の地位は、ライン河沿岸地域という場所と、ヨーロッパで特別な重要性を与えているヨーロッパの機関によって強化されています。

(団体の名称の通り、ヨーロッパの地方自治体としての心意気を感じます。ストラスブールドイツ国境やスイスのバーゼルで触れたライン河や、ストラスブールEU議会や欧州評議会を思い出します)

アルザス欧州自治体(CeA)が発足

La Collectivité européenne d'Alsace (CeA) est née de la fusion des conseils départementaux du Haut-Rhin et du Bas-Rhin. Instaurée par la Loi Alsace du 2 août 2019, elle est entrée officiellement en vigueur le 1er janvier 2021.

 

アルザス欧州自治体(CeA)がオ・ラン県とバ・ラン県の合併により誕生しました。2019年8月2日のアルザス法により設立され、2021年1月1日に正式に発効しました。

 

フランス語文はこの組織のHPからです。
とりあえず日本語に訳してみました。
まずは驚きました。
アルザスという、歴史的に複雑な地域とはいえ、フランスの海外県や島ではない本国で、このような地方行政の例外的な組織ができるとは。そして自治体の名称に欧州が入っているのもアルザスらしいといえばいえるのですが、特徴的ですね。
そして県と県が合併して県ならわかるのですが、新しい行政体になるのですね。
以前から合併の予定はあったそうですが、州(地域圏)の改革でアルザス州が無くなりグラン・デスト州にアルザスが飲み込まれる形になってしまったので、今回のような形式になってしまったのかもしれません。
組織名の日本語訳ですが、Collectivitéを辞書で見てみると「集団、団体」とあったのですが、ちょっとそれでは名前に貫禄が出ないということで(笑)自治体と訳してみました。
フランス語も地方行政もよくわかっていない自分ですが、今後少しずつでも調べてみたいと思います。
 

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アルザス日帰り旅行のパンフレット
 

テラスにそびえるアンヌ・ド・モンモランシーの騎馬像(シャンティイ)

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アンヌ・ド・モンモランシーの騎馬像(シャンティイ)

 

画像は大元帥のテラスに位置する「アンヌ・ド・モンモランシーの騎馬像」です。
1886年にポール・デュボワにより制作されました。
そばにおじさんが居てくれたおかげで、タバコの箱を置くように、だいたいの大きさが推測できます(笑)。
アンヌ・ド・モンモランシー(1493~1567)は大元帥まで出世したルネサンス時代の要人の一人です。
時代的にはイタリア戦争(1494~1516 1521~1559)や宗教戦争(1562~1598)の頃の人です。
フランソワ1世(在位1515~47)とともにマリニャンで戦い、アンリ2世(在位1547~59)やシャルル9世(在位1560~74)の時代にはギーズ家の権力者やプロテスタント勢力と戦いました。
1567年のサン・ドニの戦いで、74歳でこの世を去りました。

シャンティイとのつながりは、父であるギョーム・ド・モンモランシーから1522年にエクアン、モンモランシーの領地とともにシャンティイを譲られたことから始まります。
1560年頃には城の南の一画にプチ・シャトー(別館)と呼ばれる2つ目の城を建てるよう建築家のジャン・ビュランに依頼しました。またこの騎馬像が置かれてあるテラスを改修したり、庭園や城の正面の芝生など領地内に7つの礼拝堂を建てました。
17世紀にシャンティイを所有することになる大コンデ公はモンモランシー大元帥の曾孫になります。


(ニコル・ガルニエ著 シャンティイー および フランス史10講 岩波新書 を参考にしました)

 

 

シャンティイのフランス式庭園の向こうには英国・中国風庭園

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シャンティイ城の噴水とフランス式庭園

 

シャンティイの庭園の噴水そばから別方向を眺めます。
整った形のフランス式庭園の右隣には木々が生い茂っています。
このあたりは英国・中国風庭園(Le jardin anglo-chinois)となります。18世紀末に造られました。
シャンティイには他にイギリス式庭園と呼ばれる場所もあります。
フランス式庭園が整った形なのに対して、イギリス・(中国)風庭園は、木々や曲がった水路によって、自然本来の姿を表現しているように感じます。
なぜイギリス式に中国式が融合しているのかは、当時そういう名称が流行していたということぐらいで、よくわかりません。
ただイタリア人のカトリック司祭であるマッテオ・リパが、中国の避暑山荘の銅版画を1724年頃ヨーロッパに持ち帰ったそうなので、そこから広まったのかもしれません。
更にそのあたりには「集落」(Le hameau)と呼ばれるエリアもあります。
これは18世紀末、自然と自然の持つ魅力への回帰というジャン・ジャック・ルソーの考えに基づき、コンデ公子が建築家ジャン・フランソワ・ルロアに造らせました。1774年頃にできたそうです。
マリー・アントワネット王妃の「村里」のモデルになったそうです。

 

(二コラ・ガルニエ著 シャンティイー およびwikiを参考にしました)

危ない道を渡るにゃんこに説教

仕事帰り、駅を降りて、踏切そばの道を歩いています。
狭い道にも関わらず、車でごった返しています。
なんでこんな道に乗り入れてくるのかなぁと嘆きながら注意深く歩いていると、突然、にゃんこが動く車列をサッと横切るではありませんか。
危ない!と思いましたが、にゃんこは幸い無事に渡っていきました。
自分も車が途切れてから道を渡り、駐輪場にたどり着きます。
そこにはさっきのにゃんこもチンと座っていました。
「こらっ!あんな道渡って危ないじゃないか!」人差し指(中指ではない)を立てて、にゃんこに説教します。
にゃんこはタバコを吸っているのがばれた不良少年みたいな顔して聞いていました。
「小鳥に説教する聖フランチェスコ」というのがありましたが、こちらは「猫に説教するジェット」です。全くもって俗っぽいですね。
でもやっぱり、危ないことは危ないですからねぇ。
にゃんこも交通安全を心がけて、危ない道は渡らず、冬の冷たい世間を渡って頂きたいものです。

 

播磨百人伝 寺林峻 著

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播磨百人伝 表紙

 

播磨百人伝
寺林 峻 著
のじぎく文庫 編集
神戸新聞総合出版センター 発行
2001年5月1日 第1刷発行
 
播磨にゆかりのある百人を、神代・古代・中世・近世・近代から選んでいます。
このブログでは主にヨーロッパ関係のことについてメモっているのですが、今回は特に欧州関係に限定してみます。
 
幕末の混乱は二つの流れで姫路城下へも及んできた。
一つはロシア、イギリス、アメリカといった国が次々と開国を迫ってやってくる。もう一方では幕府の政治を変えようとして勤王を叫んで立ち上がる志士の波である。この二つの流れに足をかけた姫路の青年がいた。秋元安民である。p206
 
佐幕派姫路藩士の子という古いレッテルで明治維新をくぐり、その後、見事に明治を引っ張る立場に変身してみせる。フランスに留学して近代日本の土木工学のパイオニアとなった。
明治8年には第1回留学生としてフランス行きを命じられ、パリ大学などで学び、5年間で工学士と理学士の二つの学位をとって帰国する。
フランスで公威があまりに根をつめて勉強するので、下宿の女主人が「それではからだをこわしますよ」と注意すると、公威は「私が一日安めば、日本は一日遅れるのです」と答えた、と司馬遼太郎の「この国のかたち」の中にあり。
 
横浜で幕府軍事顧問のフランス人ブリュネから新しい陸軍兵器の扱いを習い、近代兵器を扱う第一人者となっていく。
 
初めて公式に姫路へやってきた欧米人は米国マサチューセッツ州生まれのエドウィン・ベイカーである。p254
 
三木露風は日本のベルレーヌと呼ばれるほど西洋の象徴詩技法をつぐ詩人だった。
 
和辻哲郎の卒論は「ショオペンハウエルの厭世主義および解説論について」だった。
 
25歳で岩波茂雄の援助でドイツに留学してハイデッガーに師事し、さらにフランスに向かい、そこでパスカルの「パンセ」に読みふけり、28歳で帰国した翌年に「パスカルにおける人間の研究」をまとめ、処女出版する。
 
共産党活動で検挙され、獄中で読んだニーチェに感銘し、2年後に転向を表明した。
さらに39歳で思想的な行き詰まりからキリスト教の洗礼を受ける。
 

「米欧回覧」百二十年の旅 岩倉使節団の足跡を追って・米英編

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「米欧回覧」百二十年の旅 岩倉使節団の足跡を追って・米英編 表紙

 

「米欧回覧」百二十年の旅
岩倉使節団の足跡を追って・米英編
泉三郎 著
図書出版社 発行
1993年3月31日 初版第一刷発行
 
〈米国編〉
 
1871年の12月23日、誕生後間もない明治政府は、廃藩置県という大手術の直後にもかかわらず、新しい国家の設計図を求め、不平等条約改正の下交渉も兼ね、大使節団を米欧に派遣する。
使節の構成
岩倉具視(右大臣)、木戸孝允(参議)、大久保利通(大蔵卿)、を筆頭に
伊藤博文山口尚芳、福地源一郎らの若手官僚
8歳の津田梅、25歳の中江兆民らの留学生
など100名を超える大旅行団
 
この企画は、お雇い外国人のオランダ系アメリカ人、フルベッキの発案とされている。
そして大隈重信伊藤博文の提案が具体化していく。p26-27
 
岩倉具視アメリカ上陸以来アメリカ人の親切な歓迎ぶりに驚くとともに大変気をよくしていたが、とりわけ自分がもてることに気づいていた。
しかし、それは大使という職分と自身の人間的な魅力によるものと思っていたに違いない。
しかし息子によれば、もてるのは何よりもその珍妙な髪型やエキゾチックな和装のせいであって、それはむしろ見世物的好奇心の対象であり、文明開化を標榜している日本国の大使としては恥ずべきものだというのである。
それを聞くや岩倉具視は思い切りよくバッサリと髷を切り、洋装に一転してしまう。
これについては、息子たちに言わせたという説が有力
また津田梅子ら振り袖姿の少女たちも洋服姿に変身してしまう。
こうして首都ワシントンを前にしてシカゴでその日本流を放擲してしまう。
 
使節が旅した1872年のアメリカはちょうど大統領選の年であった。
公の選挙で人を選べばいかにもよかろうと思うが、必ずしもよい人材が選ばれるとは限らない。しかも議論が沸騰してきて多数で決すれば往々にして愚策の方が採用されることとなる。
民主はいいけど逆に官に権威がなく、法で縛るのがいいが活社会を妨げることになる。
人々は往々にして私権をむさぼり賄賂が横行する。p131
 
アメリカ建国二百年の歴史を前半の百年と後半の百年に分けると、岩倉使節は前半の成果を見、私たちは今後半の結果を見ていることになる。
 
〈英国編〉
 
「回覧実記」にある銅版画を頼りに現地に行ってみれば、拍子抜けがするほどにその風景は変わっていない。百年というときは英国にきた途端急にしぼんでしまって、つい昨日のようにさえ思われる。p205
 
木戸孝允大久保利通は英国の公式行事以外に、ロンドンの恥部ともいえるイーストエンドの視察に出かけている。
そのころの英国は国全体としては未曽有の繁栄の中にあったが、富める者はいよいよ富み、貧しきものはいよいよ貧しい状況にあった。
カール・マルクスの描いた資本主義の矛盾そのものの世界がそこにあったといってよい。
資本論の第1巻が出たのは1867年でありその改訂版が72年であったから、マルクスはその頃大英博物館の図書室でこの現実と闘いながら執筆に取り組んでいたのかもしれない。