歴史家のひとり旅 堀米庸三 著 (前半)

歴史家のひとり旅 堀米庸三 著 表紙

歴史家のひとり旅

堀米庸三 著

新潮社 発行

昭和46年12月10日 発行

 

Ⅰ ヨーロッパ中世の旅

アイルランド紀行

1959年5月、ボストン空港から生まれて初めてのヨーロッパ旅行の途につく堀米さん。

アイルランドのリメリック近くのシャナン空港に着く。

シャナンからダブリンまでも飛行機で38分。

ダブリン城でクロンウェル(クロムウェル)の名前を指さし、我々の最大の友と言う案内人。アイルランド人のウィット。

トリニティ・カレッジやグレンダロッホを訪問する堀米さん。

 

ビザンツ覚書

東ローマは1453年、トルコのスルタン・メヘメット二世のコンスタンチノーブル攻略によって、千有余年の歴史を終えたが、いまそれは跡形もなく消滅して、いかなる形においても再興されなかった。

 

イスタンブール今昔

1959年8月、イスタンブールを訪問。

旧市街の汚いホテルに泊まる羽目になる。

ボスボロスでの舟遊び

そばを後方から大きいソ連の船が快速をもって迫り、横波を食わせながら、遠く黒海上に去っていった。

案内人は「ボスボラスの夏はいつも涼しい。モスクワからの風が吹いてくるから」と冗談をとばす。

1959年はこうだったが、(今は)案内人はどんな洒落をもっていることだろうか。

 

ビザンツカール大帝

東ローマ帝国ビザンツ帝国と言ったり、その文明をビザンツ文明という場合は、ヨーロッパ風ではないという価値意識が働いている。

 

西ヨーロッパ史の理屈でいえば、ユスティニアヌス帝ぐらいで、衰退する一方であるべき東ローマが、なかなか簡単に衰えない。

衰えないどころか、九世紀後半以降のマケドニア王朝では、中世東ローマ帝国の最盛期を迎えるというのであるから、まことに始末におえないというほかはない。

そしてビザンツ研究の進歩とともに、カール大帝ローマ帝国復興くらいで、あとは簡単に触れる程度で済ませたはずの東ローマが、依然として西方の発展にとって無視できない存在であったことが、次々に事実をもって証明されてくる。

 

ヴァイキングについて

Vikingの語源であるVikには、入り江と市(場)の二義があるといわれるが、前者を取る説が有力である。

この解釈に従えば、ヴァイキングとは入り江を意味する。

つまり入り江に住む人がヴァイキングなのである。

海賊であり、商人であったことから、自然に市の人に結び付く。

 

ヴァイキングの活動に関し、中世の史料として二つのおどろくほどに正確な史料。アイスランドおよびVinland(アメリカ大陸?)への植民の記録

・「学僧アリ」とよばれる聖職者の記した「アイスランド人の書」十二世紀前半に書かれる

・「植民の書」と呼ばれる、作者不詳(アリの作品ともいわれる)十二、三世紀の交につくられた

 

北欧三国を訪問すると、ヴァイキングの舟を見学できる。これは舟葬の風習のおかげで残った。

 

アイスランド北大西洋海流(メキシコ湾流)の影響で、湿度は高いがむしろ温和な気候

穀物の生育には向かないが、牧草は育ち、従って家畜の放牧・飼育が出来、また海岸には絶好な漁場が開けている。

 

中世期のユダヤ

チェコプラハユダヤ人墓地を見た時の衝撃

 

中世人のいたずら

プラハのカレル橋の一方をかためる旧市街側の塔にある、修道士が修道女のスカートに手を差し入れている彫刻

 

プラハの大学に教鞭をとる教授

「日本にも奴隷はいたか」を問う。

古代には奴隷と名付けられる階層がいた、と答えると悲しそうな顔をする教授

推測するに、マルクス主義の公式に入らぬ例を日本に求めていたのでは?

 

アンジュー家の人々

ヘンリ二世は名君だったが、その臣下がカンタベリー大司教のトマス・ベケットを虐殺したため、教会側からしたら大悪人ということになる。

記録を書くのは坊さんたちだから、あることないこと様々な尾ひれがつく。

 

浪漫的街道の旅とリーメンシュナイダー

ヴュルツブルグはドイツ後期ゴシックの彫刻家リーメンシュナイダーの市

彼の作品と悲劇

 

Ⅱ 周辺のこと

鎌倉の谷戸

墓をつくる

二つの手紙

槇子への手紙

バンベルクの秋