ヨーロッパ大学都市への旅 学歴文明の夜明け

ヨーロッパ大学都市への旅 学歴文明の夜明け 表紙

 

ヨーロッパ大学都市への旅
学歴文明の夜明け
横尾壮英 著
リクルート出版部 発行
昭和60年10月20日 初版第1刷発行

中世のヨーロッパの大学に興味を持ったきっかけは、「大世界史7 中世の光と影」(堀米庸三 著 文藝春秋)でした。その中でアレクサンダー・ネッカムという若者が、1177年、イングランドからドーバー海峡を越えてパリに着き、そこの大学で学ぶ姿が描かれていました。
今までヨーロッパ中世の大学や学生の姿を断片的に書かれた本は読んできましたが、一冊にまとめた本はこれが初めてです。

 

Ⅰ 大学への道
昔の学問や教育には旅がつきものであった。
そうした長い道のりをこなして目的地に着く時、学生が見出だしたものは、それまでほとんど経験したことのないヘテロジニアス(異質な、異種の)な世界であったろう。p12
さまざまな形の放浪や遍歴は、中世社会の一種のエートス(習慣・特性)であった。しかしそれも、大学史の観点からすれば、特に13世紀まで濃厚に見られる反面、14世紀以降は希薄になっていく。大学人に著しい定住の傾向が見られていく。

中世の大学への道の困難
・自然の障壁
・金の問題。奨学制度などは未発達
ラテン語の習得 p23

 

Ⅱ カルチェ・ラタン
法学ではボローニャほか、神学ではパリほか、医学ではモンペリエなどがその権威と名声を誇っていた。p35

ヨーロッパの中世大学は、修道院と違い、巷間を拠り所としていた。

カルチェ・ラタンはまず若い学生や教師が数多くいた。彼らの多くは他国者だった。そしてラテン語が幅をきかせていた。
そして中世大学は最初、土地も建物もない人間だけの大学だった。

パリのカルチェ・ラタンで、教場がたくさんある通りとして知られたのは、「麦わら通り」であった。学生が麦わらの束を買い込んで教場に持ち込んでいた。p43

教会や修道院を借用する以外に、固有の集会の場を持たなかった大学団としては、実質的にも名目的にもタベルナ(飯屋ないし飲み屋)を利用する理由を持っていたのでは?p55

 

Ⅲ 寝ぐら
当時仲間どうしで一軒の家を借りる合宿(ホスピキウム)が一番ポピュラーだった。
そしてその後、学寮という形態を取るようになってきた。

1180年、パリ大学ができはじめた頃、十八人学寮ができた。学生用の寝ぐらが、ある個人によって寄贈されるという慣わし。p63

学寮は修道院というサンプルがあった。学寮の発達は修道院ルネサンスをも意味する。p84-85

 

Ⅳ 他国者のギルド
中世大学以上に国際的な大学の時代はなかったと言ってよい。
しかし、大学が国際的であるということは、国際的でしかないということではない。
中世大学で最も重要な集団の単位となったのは、国民団(ネイション)と呼ばれるものであった。それは出身地を同じくするものが相互の利益を守るために大学のなかで結成した基本的な集団。p88

国民団の代表=国民団長

カルツァー=学生牢

 

Ⅴ 大学の金庫
中世大学の収入源
・ブルサと呼ばれた一種の割当金
・学位の取得に伴って受領者が出した金
・役職者に選ばれた者が出さされた金
・違反者が納めた科料
・寄付
・借金

アルカやキスタと呼ばれる大学の金庫
形は日本の長持に似て、いくつもカギがついている。
別々の人たちにカギを持たせて、開ける時はみんなで立ち会う

中世の教会の学校では無料で教えていた。
しかしその後、学生から教師に払われる金(コレクタ)を集めるようになり、更に俸給をもらって授業する官吏的教師像が台頭してくる。

 

Ⅵ 大学の裏方たち
ビードル
大学の総長を先導して彼の権威の象徴の職杖を捧げもつ者

出納係、書籍商、羊皮紙と紙の業者、ヌンティウス(使いの者)

Ⅶ 学長
ヨーロッパの大陸部の大学では、レクトールという言葉が大学という集団の長を指すものとして定着した。
教師の中だけでなく、学生の中から選ばれることもあった。

 

Ⅷ 年期 資格への旅 
学位を与えるとか、もらうというしきたりは、12世紀頃から始まったもので、それ以前には、学位というものも、大学というものもなかった。p173

本来講座とは背の高い椅子のことでしかない。p176
教師は椅子にかけて講義するから、その椅子は彼の聖なる職場であり仕事の象徴でもある。p177

ラテン語や法律などの知識を得た、大学を出た者、あるいは大学に籍をおいていた者が、聖俗の両方で、高位高官をはじめとする、新しいヒエラルキーの中で活躍の場を見出だしたのが、中世末の社会現象であった。p183

ヨーロッパの中世大学というのは、学問する者を集団として受け入れ、定められた時間帯の中で、定められた知的内容に関して学ばせる、という方式を新しく発見し確定した。p185

 

Ⅸ 引越し 大学の旅
大学の大きな移動として歴史上最後の例となったのは、1409年のプラハ大学の分裂、つまりライプチヒその他への移動であって、それまでの二世紀余は、大いなる移動の時代だった。p194

中世大学の引越しの原因
・地元との喧嘩(パリやオックスフォードなど)
・思想・信仰の対立
・ペストなど疫病の流行

 

Ⅹ お墨付 ローマへの旅
大学団と都市との契約で大学は自由に出現した。
13世紀の段階では、イタリアでもフランスでもイギリスでもスペインでも、大学の設立権は都市にあるとみなされていた。
しかし神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世は、人為的あるいは政策的に、自分の町ナポリに大学を作ることにした。
そのあとすぐに、ローマ教皇の手でトゥールーズの大学や、ローマの教皇庁の大学が作られた。p208

ヨーロッパの各地における大学の新設による現象
・大学のパターンの伝播
 ボローニャは学生大学の祖となり、パリは教師大学の祖となる
 それぞれがアルプスの南と北の諸大学に影響を及ぼす
 法学部はボローニャの、神学部にはパリの息がかかった
・学生の旅路の変化

 

旅のあとに
ヨーロッパの大学は、もともと作者不詳、読み人知らずの産物であった。
それはメタンガスのようにぶくぶくと、青春のにきびのようにおのずから12世紀の社会に生まれた。
青春のにきびとは、文明のにきびだ。歴史の体内に貯えられたエネルギーがひそかに発酵したあと、いくつかの条件で露出した。
その後中世大学は
学ぶ者の集団化→学ぶシステムの開発→学ぶ施設の確保
という歴史を展開した。
教皇や皇帝のお墨付きが必要で、教授も官吏化し、学生も大学の増加で地元の大学に行く。
こうして大学は時とともに国境の中に自己を閉じ、国内を主な活動の場とする傾向が、中世大学の後半、特に14世紀以後からはっきりしてくる。
ラテン語も日常的には国語にとって代わられる。
(冒頭に書いた、十二世紀、ネッカムらが学んだ時代の大学になぜ魅力を感じたかが、理解できたような気がします)