フランス文化と風景(上)先史時代から15世紀まで 第Ⅰ部 森林の時代からローマ帝国へ

フランス文化と風景(上)先史時代から15世紀まで 表紙

 

フランス文化と風景 (上) 先史時代から15世紀まで

ジャン=ロベール・ピット 著

高橋伸夫・手塚章 訳

東洋書林 発行

1998年7月25日 第1刷 発行

 

日本語版読者への序言

現在、歴史的建造物に何か新しい構築物を付加する場合、中立的な材質ということで、しばしばガラスが使われるようになった。その具体例は、ルーブル美術館のガラスのピラミッドや、リヨンのオペラ座に付加されたガラスの丸屋根に見ることが出来る。

オランジュの古代劇場の天井にもガラスが使われていました)

 

ルイ14世ナポレオン三世と同じように、ミッテラン大統領は二度の任期を権威的な大建造物で飾り立てることに熱心だった。

国立図書館や大蔵省、新オペラ座バスティーユ)、アラブ世界研究所、新凱旋門ビル(デファンス)、ルーブルのガラスのピラミッドなど。

これらの建造物は、どれをとっても莫大な財政支出を必要とし、その運営にも予想以上の費用が掛かった。こうした大事業を、社会党出身のミッテラン大統領が推進したのは奇妙な事実と言える。

 

序章 景観論の諸相

フランスの国境を挟む二地域の間には、差異よりも類似性の方が目立っている。しかしひとたび国境から遠ざかると、他では見られない多様な風景のモザイクに出会うことになる。p2

 

景観は、自然と技術と文化の複合体であり、その地表における観察可能な姿である。

景観は人類の自由な営みを表現している。すなわちそれは、人類がつづった美しい「詩」なのである。p18

 

第Ⅰ部 森林の時代からローマ帝国

第一章 最初の耕地の出現

フランス新石器時代

地中海東部のカルディア土器文化(紀元前6~4千年紀)からシャセイ文化へ(紀元前4~3千年紀)牛の飼育と穀物(小麦、大麦)栽培に特徴

紀元前4千年頃、パリ盆地やロワール地方にに進出したドナウ文化

巨石文化(紀元前4~3千年紀)

 

第二章 原史時代の都市と農村

ガリア人たちは、疲れを知らない開拓者だった。詩人のランボーは、彼らのことを「最も見事な草焼き人」と表現したが、本当に草を焼いたかどうかはわからないが、木を焼く人々だったことは確かである。p53-54

 

カエサルは、ガリアの農村集落について、たがいに密接に関連する二つの形態を指摘した。

孤立大農場(aedificium)社会的に重要な役割を演じたガリア人の貴族たちが住む

村落(vicus)領主や農場主に隷属していた一般農民が居住p56-57

 

第三章 「ローマ」都市の建設

ローマ人によるガリアの征服は、フランス国土の最初の政治的統一をもたらした。それはまた、何世紀にもわたって、人間の意思にもとづいたある種の風景の画一化をもたらした。こうした時期は、その後、産業革命の前までもはや繰り返されることはなかった。p75

 

全体としてみると、ローヌ川沿いの都市が恵まれていたリヨン、ヴィエンヌ、アルル、ニームの四都市には、劇場・円形闘技場・競技場・音楽堂のうち、三つ以上が存在した。こういう特権を享受した都市は、あとはパリだけだった。劇場が現在のラシーヌ通り、円形闘技場兼劇場がモンジュ通り、競技場が旧ブドウ酒市場にあった。p97

 

ポン=デュ=ガールの建設は従来言われていたようにアウグストゥスの時代(紀元前16~13年)ではなく、皇帝トラヤヌスの時代(紀元後二世紀の初頭)に行われたと考えられている。重さが6トンにもなる切り石を、水面から40メートルの高さまで持ち上げる機械は、トラヤヌスの時代まで存在しなかったと思われるからである。p99-100

 

第四章 ガロ=ロマン期の農村景観

景観の画一化に対するローマ人の熱意がもっとも顕著に表れたのは、おそらくケントゥリアと呼ばれる土地割の方式においてであろう。これは、土地の所有区間を、等間隔の碁盤目状に区切るものだった。

 

ケントゥリアに関する資料

・測量技師たちが著した手引書

・空中写真

オランジュの土地台帳

 

オランジュの土地台帳は、皇帝ウェスパシアヌスの時代に、フォーラムか近くの壁に設置された三枚の巨大な大理石盤。第一級の価値があるが、きわめて不完全。

オランジュの歴史を調べていたとき、出てきました)

 

ケントゥリアは、計画的な都市建設や道路建設とともに、地域空間の本当の意味での組織化をよく示している。それはまた、入念に準備された徴税システムの反映であり、かつ人間の活動を宇宙の法則と調和させるという宗教的な信念をも反映していた。

日本の条里ともしばしば比較されてきた。

フランスでは、以後の歴史を通じて、これだけ大規模な風景の規格化は、二度と行われなかった。p115

 

イタリアのブドウ栽培者の圧力と、ブドウ酒生産によって脅かされた穀物生産の水準を維持するために、皇帝ドミディアヌスは、西暦92年にブドウ樹の半分以上を抜根することを命じた。

ちなみにこれによって、ガリア産ワインの品質は著しく向上した。

ガリア人たちが「いじめ」と感じたこの命令は、皇帝プロプスによって西暦276年に取り消された。