中世に生きる人々

中世に生きる人々 表紙

中世に生きる人々

アイリーン・パウア 著

三好洋子 訳

東京大学出版会 発行

1990年10月5日 第15刷

 

マルコ・ポーロ以外は中世の平凡な無名の人を扱っています。

著者のアイリーン・パウア(1889-1940)はロンドン大学の経済史の教授で、二度世界一周旅行を試みています。

 

第一章 農夫ボド

シャルルマーニュ時代の田舎の所領の生活

 

吟遊詩人は親切にしてくれたシャルルマーニュに恩返しをした。

彼らは王に不滅の栄誉を与えたのである。

中世全体を通じて、シャルルマーニュ伝説が栄えたのはこのためであり、大帝はアーサー王とともに、中世の最も大きい物語群の一方の英雄としての栄誉を与えられた。

 

第二章 マルコ・ポーロ

第十三世紀のヴェネツィアの旅行家

 

マルコ・ポーロは、本の中で個人的な話題に触れていないのが欠点である。

私たちは彼が中国でどのような生活をしたかよくわからない。

彼が中国人よりもむしろ蒙古の汗と交際したこと、中国語を習わなかったことの証拠は残っている。

 

フビライ汗はマルコ・ポーロたちのヴェネツィアへの帰国を許さなかった。

しかしペルシャの汗が蒙古種族から花嫁を迎えたいと頼んできたので、その航海を利用して、ペルシャからヴェネツィアに戻ってきた。

 

マルコ・ポーロは余生、フビライ汗の話をヴェネツィアの若者にしていたが、領地の広さ、何百万という年収、何百万というジャンク、何百万という馬を飼う人々、何百万という都市について話したので、若者たちは「百万のマルコ殿」というあだ名をつけた。

 

十二世紀には人跡未踏だった境を旅行したマルコ・ポーロ

北京にいる大汗の耳に快く響くキリスト教会の鐘

商人がまったく安全に旅行できる中央アジアを通る長い道

杭州の街を歩いたことがある「大ぜいの」ヴェネツィア

これが十三世紀の末から十四世紀のはじめ、すなわち軽蔑されたあの頑迷な中世のことなのである。

しかし十四世紀の中頃、あらゆるものが変化した。

タタール朝が滅び、中国の新支配者は昔の排外政策に帰った

回教徒が中央アジア全土を征服し、極東と西洋の間の城壁となった。

 

マルコが死んでから一世紀半ほど経って、ジェノアの船長がその本を読み漁って、欄外に書き抜きをした

チパングに行くために、西へ行こうと決意したその男は十五世紀には草葉の陰でアメリカを発見した。

 

第三章 マダム・エグランティー

チョーサーの描いた尼僧院長の実際の生活

 

第四章 メナジエの妻

十四世紀のパリの主婦

 

メナジエ・ドゥ・パリ(パリに家を持つ人、あるいは家長という意味であろうか)は彼の若い妻を教育するために、この書を1392年から94年の間に書いた。彼が裕福で、学識もあり、実務の経験も深く、たしかに堅実で教養ある『上流市民階級』の一員であった。

 

第五章 トマス・ベトソン

十五世紀のステープル商人

 

中世の英国においてもっとも注意すべき商人は、羊毛を取引するステープル商人の一群である。

羊毛貿易は、長い間英国で最も大規模で、最も儲けの多い商売であった。

ステープルとは羊毛その他特定の重要商品を取引する指定市場をいう。

 

ステープル商人は為替の複雑さに苦労した。やたら貨幣の種類が多く、品質の悪いものが多かった

 

ステープル商人は

羊毛を買うためにコッツウォルドの畑に遠出し、

マーク街の勘定場で働き

ロンドンからカレーへ

続けてまたカレーからロンドンへと船で旅行し

カレー市場で外国商人と取引し

市の季節にはフランドルの市市を馬で駆けまわる

 

第六章 コークサルのトマス・ペイコック

ヘンリー七世時代のエセックスの織元

 

家屋・記念碑・遺言はいずれも中世の最後の二世紀の間に大勢力となって繁栄してきた中流階級の非常に急激な発展を示す絶好の資料である。

 

 

望遠鏡以前の天文学 古代からケプラーまで(後半)

第8章 イスラーム世界の天文学

9世紀から15世紀までの間、ムスリムの学者は科学的知識のあらゆる分野において卓越していた。特に天文学と数学への貢献は著しいものだった。

 

天文学が異なる二つのレベル、

すなわち理論を持たず空に見えるものだけに基づいた民間天文学

組織的な観測と数学的な計算や予知に関わる数理天文学とにおいてイスラーム世界で栄えた。

 

アラビア語で書かれた最古の天文学テクストは、7世紀にはすでにムスリムに征服されていたスィンド(インダス川下流域)とアフガニスタンで書かれたと思われる。それはテクストと表から成っており「ズィージュ」と呼ばれた。

 

ムスリムの暦は太陰暦である。暦月は三日月が最初に見えた時に始まる。月の初めと終わりを正確に決定することは、断食の月であるラマダーンや他のさまざまな宗教的行事にとって特に重要である。

 

ラマダーンの始まりに関する混乱が、今ではしばしば見られる。この混乱は、三日月がある場所では見えるが別の場所では見えないという事実と、まさしく新月の最終通告をする宗教学者天文学者に耳を傾けたがらないことに由来している。

 

第9章 中世ヨーロッパの天文学

かつての属州にあったローマの学校が姿を消し、ギリシア語が忘れ去られていた西洋では、ローマ帝国の崩壊によって、基本的に二言語併用であった文明が消滅した。

 

一般に科学史、そして特に天文学史において、この「暗黒の」世紀について報告するに値する理由

・天地の創造者としての唯一の神というキリスト教の信仰の伝播が、自然に対する一般的に態度を変え、かつて自然現象に関係があると考えられた多くの神や霊魂を排除することで、自然現象に学問的アプローチの道を作った。

キリスト教典礼が、時間の計算に対する新たな需要を生んだ。

 

カロリング朝時代(800年頃)以降、通常は田舎にあった修道院の学校以外には、数を増しつつあった司教座聖堂の学校があった。これは都市部に置かれ、俗人と聖職者の門弟の両方に開放されていた。

 

1200年以前はどの学問分野においても現存するギリシア語作品のほとんどが、イスラームの地で生まれた多くの著作とともに、ラテン語に翻訳された。

 

中世の学生は少なくとも天文学宇宙論の初歩を習得することなしに修士の学位を取ることができなかった。

 

自分自身の持つ豊かさに気付かなかったコペルニクスは、もっぱら、自然ではなく、プトレマイオスを代弁することを引き受けたのだ。それにもかかわらず、彼は誰よりも自然に近づいた人物であった。

 

第11章 中世後期およびルネサンスの天文器具

本格的な天文観測が始まる本当の転換点は、1492年にクリストファー・コロンブスがスペインから西に向かって出帆した15世紀末に訪れた。

南北アメリカ大陸の発見によって、正確な天体観測に対する実用的な必要性が生じた。

 

第12章 中国、朝鮮、日本の天文学

グノーモン

地面に垂直に突き刺した棒。1年のさまざまな時の正午の日影を測定することであり、その結果、太陽暦を採用することを促した。

 

第13章 現代における古代天文学の活用

古代史に記録された天文現象

日食と月食超新星現象として知られる巨大星の爆発、彗星、太陽黒点、流星雨、隕石、そして北極光

 

古代や中世の長期にわたる観測記録で、太陽の活動や地球の自転が識別できる。

また超新星爆発のように稀にしか起こらない現象の記録は、古代のデータが有効

 

前8世紀末頃に、ようやく最古の組織的な観測記録が、バビロンと中国で始まる。

 

1006年5月の初め頃、ヨーロッパ、イスラーム、そして東アジア(藤原定家の明月記の中で記述あり)で観測した人々は、南の空で光り輝く超新星が現れたのに気づいた。

 

1181年の秋、おそらく歴史上最も暗い超新星が見られた。中国と日本の天文学者だけが発見していた。

明月記に記録があるが、ヨーロッパでもイギリスのネッカム(1157-1217)も著書の中でこの超新星に言及していた。

 

古代の天文学者が残した観測記録がなければ、われわれは、宇宙の遥かなる広がりの中や、地球それ自体の上で起こる多くの変化に気付かなかったかもしれない。

現代の天文学者が、十分な装備を持たずとも勤勉であった先人たちに感謝するのは当然である。

 

 

 

望遠鏡以前の天文学 古代からケプラーまで(前半)

望遠鏡以前の天文学 古代からケプラーまで 表紙

望遠鏡以前の天文学

古代からケプラーまで

クリストファー・ウォーカー 編

山本啓二・川和田昌子 訳

恒星社厚生閣 発行

2008年11月5日 初版第1刷発行

 

肉眼しかなく、器具も不十分な時代でも、一生懸命に天を観察し、記録に残し、理論立てていった先人の苦労が偲ばれます。

 

序文

17世紀前半に最初の天体望遠鏡が現れる。

 

ギリシャ人が平板な地球という理論を退ける。

しかし地球が中心という考えは、ニュートンの時代まで一般的には続いていた。

 

天文学占星術のどちらが最初に生まれたかを問うことは、鶏と卵のどちらかが先かを問うことに似ている。

古代のほとんどすべての天文学者は、占星術師でもあった。

 

コペルニクスは1543年に『天球の回転について』の出版によって太陽中心説を改良し

1609年には望遠鏡が使われ

1687年にはニュートンが『プリンキピア』を出版し、天文学は近世と呼ばれる時代に入る。

 

第1章 エジプトの天文学

エジプトの位置天文学の初歩的な形態である技術により、365日という時の単位、夜と昼それぞれの12区分、そして比較的正確な太陰暦を生み出した。

 

エジプト最大の伝説のひとつである、ラーに生命を与えた天の女神ヌウトの神話は、時間計測と暦の両方の発展に影響を及ぼし、神聖なる王権という概念を生み出し、王位の母系継承につながった。

ヌウトは天に広がる裸の女性として描かれた。太陽はその口に入り、星の斑点のある体を通って、産道から現れるように見える。

 

ピラミッド時代とも呼ばれる古王国時代は、二重の暦体系、強固な経済、そして宗教的な規律を享受していた。そしてそのすべては基本的には太陽、月、惑星の観測に基づいていた。

 

第2章 メソポタミア天文学占星術

イラクで仕事をしたことがない人々は、メソポタミア天文学者が晴れた夜空に助けられたということをしばしば述べているが、これは事実ではない。

月と惑星の最初と最後の見という最も重要な現象は、地平線近くで起こるが、メソポタミアの地平線は塵と暴風雨でよく不鮮明になることがある。

 

バビロニア天文学者占星術師は、遅くとも紀元後1世紀後半まで、バビロンのベール神殿で生きながらえていた。しかしその時までには、彼らの天文学的伝統の実質的な内容は、すでにギリシャ人の手に移っていた。

 

第3章 プトレイマイオスとその先行者たち

古代ギリシア人にとって、天文学は実用的なものだった。すなわち、それは十分な暦がなかった時代には、農作業や宗教儀式を行う時を決めるための手段だった。

 

古代ギリシア人は、多くの星や星の集まりを確認していたが、目に見える全天を星座に分けるという考えはなかった。

 

ギリシア天文学の将来にとってきわめて重大な展開が見られたのは、前5世紀に、はるかに進んでいたメソポタミアから知識が伝えられてからである。

 

アテネのメトンがギリシア最初の「科学的」天文学者だったと考えられている。

なぜなら、まず彼は実際に観測をし、次に伝統的な農事暦を常用暦に合わせようとしたからである。

 

幾何学天文学に適用するという試みを、ギリシア人が初めて行った。

 

サモスのアリスタルコス(前3世紀)が、今では「太陽中心説」と知られる体系を打ち立てるに至ったが、それは古代ではほとんど評価されなかった。

 

ギリシアの数理天文学を記述的なものから予報の学問へと変容させたのはヒッパルコスであった。

 

プトレマイオスは130年から175年頃までアレクサンドリアで活躍していた。天文学書「アルマゲスト」を書く。

 

アルマゲストにより最高潮に達したギリシア天文学は、幾何学に基づく理論(ギリシア独自の知識)と観測に数値に基づく予知(ヒッパルコスを介してメソポタミアに由来する)という天文学へのアプローチをきわめて首尾よく融合していた。

 

第4章 エトルリアとローマの天文学

ユリウス・カエサルのもとで、改暦するためにギリシア天文学研究が利用された。それまでの太陰暦は、カエサルの時代までにかなり混乱しており(365日の)常用年が太陽年より3か月ほど先行していた。したがってすべての時代がずれていた。

前45年以降は、365日の太陽暦が採用され、4年に一度、閏年があった。

400年ごとに約三日長くなりすぎるが、ユリウス暦は1582年まで続いた。

その年、教皇グレゴリウス13世の命令で10日が省かれ、グレゴリオ暦が採用され、今日まで使われている。

 

第5章 ギリシャ後期およびビザンツ天文学

いわゆる「古代」から「ビザンツ時代」への移行は、大ざっぱにいえば、アレクサンドリアという知的中心地からコンスタンティノープルという別の中心地に、そして異教からキリスト教という環境に、天文学が移行したことだといえる。

 

天文学に関してルネサンスビザンツから受けた最大の恩恵は、皮肉にもその最も保守的な性格のために、古代の著作を良いテクストで保存したということであった。

 

第6章 紀元後千年間のヨーロッパの天文学:考古学的記録

1 天球儀

2 数理的な歯車装置

3 暦の考案

4 携帯用と固定式の日時計

 

第7章 インドの天文学

 

ドイツの家と町並み図鑑

ドイツの家と町並み図鑑 表紙

ドイツの家と町並み図鑑

久保田由希 チカ・キーツマン 著

エクスナレッジ 発行

2022年11月1日 初版第1刷発行

 

ドイツのきれいな町並みというか家並びを、豊富な写真とわかりやすい説明で楽しく観察できます。

 

1章 ドイツの家の基礎知識

ドイツにおける住宅の変遷

・木組みの家 13~20世紀 全国

・レンガの家 中世後期~現代 おもに北部ドイツ

・歴史主義建築 1871~1914 ベルリンなどおもに大都市

・ユーゲントシュティール 1900年前後 ダルムシュタットなど

・レフォルム建築 1900~50年頃 おもに小都市や郊外

表現主義建築 1920年前後 ハンブルグ、ラインラント地方など

モダニズム建築 1920年以降 ベルリン、フランクフルトなど大都市から全国へ

 

木組みの家

木材を水平、垂直あるいは斜めに組んで骨格を作り、その隙間をレンガや粘土などで埋めて壁をつくる

茅葺屋根の家

ヨシやアシ、その仲間や麦を利用する

ギーベルハウス

玄関が屋根の妻側(正面から屋根の三角形が見える側)にある妻入りが通りに面している家。ファサード上部の三角形部分をギーベルと呼ぶ

アルトバウ

19世紀後半、大都市に流入してきた労働者のための集合住宅

レフォルム建築と田園都市

装飾の少ない、落ち着いたシンプルな様式

モダニズムジードルンク

モダニズム建築とは直線的でシンプルな建築。ジードルンクとは集落や団地の意味

スターリン建築

壮大なスケール。高い天井や柱

プラッテンバウ

東ドイツでのプレハブ建築

 

第2章 一軒家

北ドイツのノイブランデンブルグのヴィークハウス

もともと市壁に付属していた防御施設だったが、武器の進化で戦い方がかわり、1650年以降は住居となる。

 

氷河期に氷河に覆われていた北ドイツ。氷河とともに北から運ばれてきた多くの石がある。それを市壁や石畳、そしてさらには住居にまで使われた。

 

ギーベルハウスは特に中世のハンザ都市で多く見られる。

ハンザ都市のギーベルハウスは商人の仕事場兼住居だった。

 

第3章 集合住宅

グロースジードルンク・ブリッツ(ベルリン)

馬蹄形の建物を中心とした、斬新な労働者用住宅

 

ジードルンク・ブルフフェルトシュトラーセ(フランクフルト・アム・マイン

ジグザグ型で、日光が入りやすくする

 

 

アストロラーベ 光り輝く中世科学の結実

アストロラーベ 光り輝く中世科学の結実 表紙

アストロラーベ

光り輝く中世科学の結実

セブ・フォーク 著

松浦俊輔 訳

柏書房 発行

2023年4月6日第1刷発行

 

中世のイングランドの修道士の一生を通して、観測や計算用の器具を中心に、中世の科学の成果を丹念に追っている、大変興味深い本です。

 

序章 謎の稿本

現実の中世は、科学的関心と探求による「光の時代」だった。

 

英語のscienceの元になった中世のラテン語scientiaは、一般的な意味での知識とか学問、あるいは思考の方法といった意味にもなりえた。あるいは数学や神学も含め、組織された知識の部門なら何でも指すことができた。

 

カンタベリー物語』のチョーサーらしき署名がある、アストロラーベ解説書と完璧に一致する稿本を見つける。

それは寄贈者にして書き手はイングランドのウェストウィックのジョンという修道士だった。

彼は14世紀後期に生きた、普通の修道士で、地方の荘園に生まれ、イングランド最大の大修道院で教育を受け、崖の上の修道分院に追われ、十字軍にも参加し、発明家であり、占星術師だった。

 

天文学は最初の数理科学だった。それなしに現代科学のモデルも公式も存在しえなかった。天体の規則正しい運行が神の完全さを明らかにするからと、天文学に関心を抱くのは当然だった。

実用的な意味も大きく、計時にも暦にも、地図や建築、航海や医療にも影響した。

 

第1章 WestwykとWestwick

当時の修道士の苗字と同様、ウェストウィックは地名であり、出身地を示している。

 

ジョン・ウェストウィックは20歳頃のセント・オールバンズ修道院入所までウェストウィックの荘園で育った。

 

紀元後1世紀に書かれたウェルギリウスによる『農耕詩』は中世イングランドではよく知られていた。

 

ローマ数字とインド・アラビア数字の決定的な違いは、後者には桁の値が組み込まれていたところだ。各桁の数字の意味は、紙面上やその数字の位置で決まる。

 

ノーサンブリアの修道士ベーダが八世紀に書いた、両指で9999までの数字を表す方法

 

第2章 時を数える

アストロラーベの使い方

夏でも冬でも、一日の本当の各時間を、疑問の余地のない方法で知ることができる

11世紀初頭、このイスラム科学の受容において、スイス・ドイツ国境のボーデン湖のライヒェナウ修道院のヘルマンと呼ばれる修道士が重要な役割を演じる。

 

太陽は常に、星座による周回コースを正確にたどり、一年で一周する。この道は「黄道」と呼ばれる。

 

二人のフランス人天文学者によって教皇のためにしつらえられた「新黄金数」方式というある案は『ベリー候のいとも豪華な時禱書』に残っている。

この豪華な絵入り時禱書については、美術性については正当に称えられるものの、天文学的内容については無視されることが多いのだが。

 

ウェストウィック修道士が大学で勉強する機会を得たかどうかはわからないが、後に本人が示した専門知識からすると、得られたとしか思えない。

 

第3章 組合(ウニウェルシタス)

大学は忽然と現れたのではなく、12世紀にアラビア語ギリシャ語の哲学・科学の著作が大量に翻訳されたのに触媒されて、修道院学校や聖堂学校の時代に、何世紀もかけて徐々に発達してきた。

 

リベラルアーツ(学芸科目)

「リベラル」というのは、奴隷でない自由な身分あるいは貴族にふさわしいとされたからであり

「アート」というのは今日のような美的活動という狭い意味を表すのではなく、学ぶに値する技能のことだった。

 

今日では、中世の学者は世界は平らだと信じていたと広く思われているが、それはおおむね19世紀に作られた伝説だ。

ワシントン・アーヴィングコロンブスを描いた作品の中で、無知な教会人に対しコロンブスが西へ航海するとインドに行けると論じたように描いた。あたかも科学と宗教が対立するように。

コロンブスの地理学的想定はウェストウィックの時代の人物、ピエール・ダイイの成果に基づいている。

 

セント・オールバンズの代々の院長が学生を大学に派遣することを止めなかった。この投資は修道院に学問の権威をもたらすという間接的な利益だけでなく、直接的にも修道士の教育水準を高めることになった。

修道院は学問の世界を巨大なネットワークにつながり、世界中の思想と本を持ち帰った。

ヨーロッパ共通語であるラテン語によって、パリでもパドヴァでもケルンでもケンブリッジでも仕事ができた。

今日、多国籍企業が社員をニューヨークから上海へ移動させるようなものだ。

 

第4章 アストロラーベアルビオン

アストロラーベは、これが持ち運べる装置だということ

 

アルビオンの重要な機能は、それ以前からある器具の属性をひとまとめにし、精巧にすることだった。

 

セント・オールバンズの最も辺鄙な分院は、イングランド北東端の地、タインマスにあった。

そこは代々の大修道院長が最も反抗的な修道士を送るところだったが、他方、頭抜けて野心的な修道士にとっては、ものすごくやりがいのある課題を提供する地位でもあった。

 

第5章 土星一室

タインマスは初期のイングランドキリスト教の中心として、この地域が重要だった。また修道士仲間の海との危うい関係だ。

ウェストウィックが北極方向、このタインマスへ向かって進む一歩一歩とともに、自分が丁寧に写した天文表の一つが少しずつ正確でなくなっていることを認識した。

 

第6章 司教の十字軍

1383年、ジョン・ウェストウィックは十字軍の旗を追って進んでいた。その頃はもう十字軍は古い制度になっていた。すでに300年経っていた。

 

中世の地図は、ちょっと見ただけでは恐ろしく不正確に見えるだろう。

地図はつねに何らかの問いに対する回答であり、一連の優先順位に対する応答だ。明瞭であることが大事か、それとも完全であることか。

通勤する人びとは、地面の形を歪めても簡潔になっている地下鉄の路線図を難なく利用している。

 

アレクサンダー・ネッカムは1157年、将来のリチャード一世王と同じ夜に生まれた。母は乳母で、右の胸で王子に乳を与え、自分の息子には左から与えたといわれた。

ネッカムはオックスフォードで教えていた。後にアウグスティノ会士となり、そしてイングランド西部の大修道院長になった。そこで1200年頃、最も重要な科学的著作「事物の性質について」を書いた。

ネッカムはラテン語の文法教科書に、初めて例として方位磁石を収録した。その本を書いたのはパリ留学中の事だった。

それから帰国し、ダンスタブルやセント・オールバンズのグラマースクールで教えたが、後にオックスフォードに移った。

著作の教科書の中に航海用具の節があったが、もしかすると、自身が英仏海峡を渡った船旅の記録に基づくのかもしれない。

悪天候で星が見えにくくなるといけないので、船にはふつう、「軸の上に載せた針」があり「それは回転して向きを変える・・・そうして船乗りはこぐま座北極星がある)が見えなくてもどちらへ舵を切るか知る」と書いている。

となると明らかに、ドライ式の方位磁石は1180年代には当たり前に使われていたということだ。

 

中世の巡礼や貿易にとって、水上の移動は陸上よりもずっと楽であることが多かった。海は障害ではなく、街道と考えるべきだろう。

 

あるペルシャ碩学は、船酔いをこらえる旅行者は、ざくろ、マルメロ、すっぱい葡萄の果汁を試すとよいだろう。しかし最もよいのは、慣れるまで我慢するだけだ、と言っていた。

 

第7章 惑星計算器

惑星計算器、エクァトリウムで惑星の正確な位置を出せるようにする。つまり惑星の動きを再現し、位置を計算する。

 

ウェストウィックがアストロラーベの手引書にチョーサーの名を挙げたいと思った最も重要な理由は、それが早くから当たりをとっていたこと、チョーサーが世に先駆けて学問に英語をつかったことだと私(著者)は思う。

 

プトレイマイオスよりずっと前から、天文学者にとって差し迫った問題は、惑星運動を説明することだった。惑星はジグザグに進むだけでなく、逆行したりする。

今では、逆行運動が生じるのは、太陽に近い方の惑星が、遠い方の惑星を追い越す、つまり両者が近い側にあるときに追いついて、内側から抜き去るときのことだというのがわかっている。

 

ジョン・ウェストウィックの取扱説明書は、学問の国際語、ラテン語ではなく、職人が使う中英語で書かれていた。この時期は英語が急速に発達する時期で、ラテン語やフランス語と自由に入り混じっていた。

つねに百年戦争が爆発寸前で、ますます愛国的になる政治的階層が、庶民の世俗的英語を民俗的統一のシンボルとして奨励しておりラテン語やフランス語での読み書き能力は徐々に衰え始めた。

この稿本には、ジョン・ウェストウィックが書いたことで英語に初登場した語句が20以上あった。それは天文学用語か自作器具の部品名だった。

 

ストア派の哲学者、セネカの言葉「人は教えながら学んでいる」

 

印刷とは、ただ学術書を今までよりもはるかに多量に作り、読まれるようにすることなのではない。

それによって複雑な図の模写が正確になり、天文暦が安価に大量生産できるようになったということだ。

 

コペルニクスが太陽を中心に置くことだという結論に達したいきさつそのものは歴史家の間で議論されている。

そのような系が成り立つようにすることができたのは、中世天文学者、多くはイスラム世界の天文学者が注意深く組み立てた幾何学によっていた。

もっとも重要な人物は、ペルシャ碩学、ナスィールッディーン・アル=トゥースィーだった。

彼はイランの北の果て、マラーガに大規模な天文台を建設する資金を出させた。

コペルニクスが自身の太陽中心天文学の数理を明らかにしようとしたときには、「マラーガ学派」やその後継者たちの成果のおかげをこうむっていた。

 

終章 謎の装置

中世から現代科学まで、破線でまっすぐではないが、一本の線が続いている。

中世において

・古典やアラビア語の文献を体系的に翻訳し、その研究拠点となる大学をもたらした

天文学への、そして占星術への強い関心から、人々が外の天の世界を見て、予測を検証し、天文表を編纂し、最終的に宇宙を再編するような理論を繰り上げる

・修道士が機械式時計をしつらえ、暦の正当性に異議を唱える

キリスト教徒がインド・アラビア数字を採用した。ヨーロッパ人が世界中の薬剤で実験。視覚と光のあれこれの理論を人間の知力を説明

錬金術師が現代化学で今も用いられている実践的方法を開発

・欧州人が地図作りや羅針盤の新技術に助けられ、海の向こうを探検し始める

・神によって秩序を与えられた宇宙をモデル化する複合的な器具を組み立てる

ニュートンが謙虚を装って「巨人たちの肩の上に立っている」と書いたその言葉は、本人が認識している以上に正しかっただけでなく、中世から受け継いだメタファーだった。

 

宗教が科学の進歩に対する障害ではなかった。中世のキリスト教徒が、異教の学問を偏見なく尊重し、吸収してきた。

それらの対立に火をつけたのは、主として政治的因子、個人的因子だった。

 

ダンテ その生涯(後半)

フィレンツェのダンテの家

10  政治 豪族と平民

ダンテが商売をほとんどしなかったのは、勉学に懸命に取り組んだことに加えて、遅くとも30歳前後にはフィレンツェの政治に積極的に参加するようになっていたからである。

ただ、政府のポストはプロの政治家にゆだねるのではなく、非常に多くの人間が交代で担当していた。

 

ダンテが評議会に参加するにはいずれかの組合に登録していなければならなかった。

彼は医者・薬屋・雑貨商のアルテに所属していた。このアルテはあらゆる種類の専門家や起業家たちを幅広く受け入れる、間口の広い組合だった。

 

11 政治 白派と黒派

ダンテのプリオーリに任期直前の月日が、神曲というフィクションの中で、ダンテ自身が「暗い森」に迷い込んだと宣言した月日に一致することを思い起こすのは、的外れなことだろうか。

政治活動にどっぷり浸かり、ほどなく事実かどうかかはともかく、横領、犯罪幇助、汚職の罪で裁判にかけられ、判決を受ける羽目になる。

 

ダンテが生きた時代のフィレンツェは、大普請の真っ最中でもあった。

 

12 追放

 

13 亡命者の家族

追放時にダンテは妻子をフィレンツェに残してきた。子供らは年齢からして亡命生活をさせるに忍びなく、一方、妻の身は安全だった。彼女は敵の党派を率いる有力な家と宴席関係にあったからである。

 

ダンテの妻は貴重品やダンテの原稿をおさめた金庫を修道院に移した。貴重品を修道士に預けて保管するというのは、フィレンツェの富裕層が反射的に考える自衛策だった。

 

ダンテは、もう一人の娘にベアトリーチェという名前をつけていた。

 

14 資産の行方

ダンテの妻は嫁資の権利を行使した。そのおかげで自分と子供を養うことができた。

 

15 悪い仲間

 

16 ヴェローナの謎

ダンテは人生最後の20年間を亡命生活で過ごした。この期間についてわかっていることは少ない。

 

ダンテは政治的コミュニケーションの手練れであり、その手腕を買い、報酬を払うものがいてもおかしくなかった。

 

17 改悛

仮説として、ダンテが亡命初期の最も長く、最も重要な期間をボローニャで過ごした、というものがある。

またトレヴィーノにも滞在していた、という説もある。

 

18 「他人の家の階段」

ダンテがパリに滞在していたという説もあるが、疑念を抱く研究者も多い。

フランスに行ったとしても、アヴィニョン教皇庁までと見る者が多い。

 

ボッカッチョはパドヴァ滞在にも言及している。

またルッカ滞在の可能性もある。

 

19 ハインリヒ7世

 

20 他人のパン

ハインリヒ7世死後の数年間は、ダンテの最も深い闇に深い闇に包まれている時期

 

宮廷人というのは、何よりもまず同席する客をもてなす術をわきまえ、他人の金で飲み食いする人間である。

 

21 ラヴェンナ

当時のラヴェンナは、イタリアで最も裕福な大司教の住み、大修道院がある、強大な宗教都市だった。また商業の中心地としても栄えていた。

 

ダンテの死因は、一般的には、沼地を旅している間に感染した急性マラリアと考えられている。

 

 

ダンテ その生涯(前半)

ダンテ その生涯 表紙

ダンテ その生涯

アレッサンドロ・バルベーロ 著

鈴木昭裕 訳

亜紀書房 発行

2024年2月3日 第1版第1刷発行

 

ダンテの謎に満ちた人生を、様々な説を挙げながら、詳しく述べています。

このブログでも紹介している清水廣一郎先生の本を読んでいたおかげもあり、公証人文書の大切さが改めて理解できました。

 

1 聖バルナバの日

1289年6月11日、土曜日、聖バルナバの日、カセンティーノ地方を行軍し、アレッツォ領に入ったフィレンツェ

この中に騎士、もっと正確にいえば、最前列に並んだフェディトーリ(斬り込み隊)の中に、詩人ダンテの姿があった。

 

2 ダンテと高貴さ

ダンテが貴族が否か、という問いに答えるのは容易ではない。なにしろ貴族という概念自体に正確な定義がないからだ。

 

3 カッチャグイーダとその他の人々

 1 アダーモの息子カッチャグイーダ

カッチャグイーダはダンテの高祖父

 2 曾祖父 アラギエーリ

 3 祖父ベッリンチョーネと息子たち

ダンテの父や祖父、叔父たちは高利貸だった。

 4「アリギエーリ一族」

 

4 ダンテ一族

 1 家紋

 2 アリギエーロの家族

 やたら男性の名前だけが出てくるのは、商取引や政治に関する資料から取られたから。

 嫁資の設定の手続きの経済的契約のおかげで、父親の結婚や妻の名がわかった。

 3 冒険人生 ベッロ弟脈の従兄弟たち 

 

5 子供時代と隣人たち

 1 誕生日と名前

 誕生日は1265年の5月という計算になる

 ダンテという名前はフィレンツェでは珍しい名前ではなかった

 2 「ターナとフランチェスコ

 姉妹の名前

 3 家とご近所

 ダンテが倒れた家、そしておそらく彼の生家だった家は、現在、ダンテの家と呼ばれる博物館がある場所がほぼそれに該当する

 

6 愛と友人

ベアトリーチェについて

 

7 教育

ダンテの時代、学校の先生たちは子供たちにあまり好かれていなかった。

 

当時の言語において「文法」といえば、それはラテン語を意味した。

 

ダンテの時代においても、男色が道徳的な非難を受けることがあっても、市当局や教会によって激しく迫害されることはなかった。

ブルネット・ラティーニ先生に神曲の地獄篇で会っている時の、ダンテの驚きと親しみ。

ブルネットが地獄の責めを受ける理由を弟子であったときには知らなかった可能性が高い。

(最近のジャニーズの創始者とそこのタレントみたいな関係か?)

 

ダンテが受けた教育のあゆみ

・家族が雇った学童教師。読み書きを教え、ラテン語の初歩を教えた

・文法教師が中級ラテン語や、他の自由学芸の基本を教えた

・青年期にブルネットから手紙や演説原稿の知識を得て、キケロと出会う

・20歳前後でボローニャで自由学芸の学部で修辞学を学ぶ

しかしボローニャでダンテが神曲の中で思い起こしているのは、ガリセンダの塔が傾いている側に立って空を見上げると、雲が通り過ぎるたびに、塔がこちらに向かって倒れこんでくるように感じられるという、観光客的な体験

 

8 結婚をめぐる謎

ダンテの結婚の事実を知ることができるのは、ダンテの死後、未亡人に彼の財産の所有権が移ったが、その権利を証明するために嫁資証書を提出しなければならず、そのデータが公証人によって書き写された。

 

嫁資の額は少なかったが、これは女性が自分よりも社会的地位の低い男性と結婚する場合、夫は慎ましい嫁資で満足するのが常だった。夫が手に入れる名誉は、それを補って余りある。

 

9 ダンテと事業

ダンテの父親は実業家だったが、彼がまだ十代のときに亡くなっているため、長男であるダンテが事業の処理を行わなければならなかった。

 

ダンテはそれなりの財産を持っており、一族の中では初めて不労所得で生活でき、貴族的な活動に従事する余裕があった。