柳田国男と民俗の旅

柳田国男と民俗の旅

松本三喜夫 著

吉川弘文館 発行

平成四年九月二十日 第一刷発行

 

Ⅰ 柳田国男の小さな旅

一 野火止・清戸への旅

野火止は現在の埼玉県新座市、清戸は東京都清瀬市

 

野火止では次の三つのテーマに話が及んだのでは?

・産業組合の問題

・土地改良の問題

・土地と小作の問題

 

柳田が清戸の強清水伝説(泉の水が酒だった伝説)に関心を寄せていった理由

・武蔵野の歴史究明への関心

・伝説研究への関心

 

二 内郷村への旅

大正七年(1918)、柳田国男が中心となって郷土会の会員と実施した相州内郷村(神奈川県相模湖町)の調査

 

柳田の内郷村農村調査は、今日では民俗学創世期の先駆的調査として位置づけられるが、柳田の気持ちの上では、まだ民俗学を意識しておらず、むしろ依然として農政学の展開を考えていたといえる。

 

柳田は内郷村の正覚寺を離れるにあたって、「山寺や葱(ねぎ)と南瓜(かぼちゃ)の十日間」という句を詠んだ。

調査期間中の食事の内容を詠んだものだが、そこには現代文明に浸潤される山村姿があり、食糧問題があった。

 

三 対馬への旅 漂着の島

柳田の対馬に関する記述は、朝鮮人の往来、猪の泳力、方言の分布、漂着神、うつぼ伝説、巫女とその関心事のいずれもが海に関りを持ち、漂着、あるいは漂泊という視点から見据えている。

 

Ⅱ 柳田国男の大きな旅

一 椎葉村への旅と『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』の世界

柳田が実際に椎葉村の農業を見て、新たに関心を惹起されたのは、椎葉村は山間部にあるがゆえに平地が少ないにもかかわらず、水田耕作に力が入れられていることであった。

椎葉村焼畑を主としながらも米作を志向している農民の姿は、平地的米作一辺倒への画一的農政や農政の自律的営みを無視していることへの疑問と不信を意味していた。

 

柳田は焼畑農業に関心をもって椎葉村を訪れたが、中瀬淳の影響もあって次第に椎葉村に伝わる狩猟の習俗に心を奪われていった。

 

柳田の椎葉村への旅は、新たな農政学への有り様に思いを巡らされるとともに、民俗学模索への始まりを意味していた。

 

二 附馬牛村への旅と『遠野物語』の風景

遠野物語では、主として上閉伊郡の村々が昔話の対象になっているが、この稿では、陸中の霊峰早池峰山の南面に広がる附馬牛村を対象とする。

 

『老媼夜譚』は佐々木喜善辷石(はねいし)タニという老婆から聞いた話をとりまとめた作品である。

辷石タニはそこに書かれた昔話の他に、まだ沢山の話を知っていたが、「タニは近頃喋ることを嫌った。喜善が自分の話を取り纏めて金儲けをしていると噂する者がいた」からだった。

 

Ⅲ 柳田国男と今昔の人々

一 岡田武松と柳田国男 『北越雪譜』と『利根川図志』

北越雪譜』は越後塩沢の商人鈴木牧之の手に成り、天保六年(1835)に初編発行

この中で、日常茶飯事的に繰り返される雪との戦い、雪の中の人々の生活を描く。

 

安政五年(1858)赤松宗旦が『利根川図志』を著す。

 

この二書がほぼ時を同じくして岩波書店から刊行される。

北越雪譜は昭和11年刊行で、校訂は気象学者の岡田武松が行う。柳田の大きな助力が想定される。

利根川図志は昭和13年刊行で、校訂は柳田国男が行う。岡田の北越雪譜が大きな影響を与えた。

 

二 早川孝太郎柳田国男 『大蔵永常』考

早川孝太郎が大蔵永常をまとめあげる。

 

三 菅江真澄柳田国男 高志路の旅

菅江真澄の旅の中で空白になっている高志路(今の新潟県)の動向について

 

パリ時間旅行 鹿島茂 著 (後半)

マルヴィルの写真集表紙

Ⅲ 写真、スポーツ

マルヴィルのパリ

現在のパリの街並みは1853年頃から約20年ほどのあいだに、旧来の街並みを人為的にすべて破壊したうえで、綿密な設計図に基づいて建設されたもの。

カルチェ・ラタンやマレ地区に一部過去の街並みが残っているだけ。

 

失われたパリを写した写真家、ウジューヌ・アジェ

彼の作品は大改造後の世紀末からベル・エポックにかけての二十世紀のパリ

 

シャルル・マルヴィルの作品がバルザックユゴーのパリ、つまり大改造以前の失われたパリを残している。

 

パリ民衆の反抗精神に対してナポレオンⅢ世のとった方法

・中心部と東部の人口密集地区を街区ごと破壊し、ここに大砲を通すことのできるような広い真っすぐな道路を通す

・街はずれに健康的で清潔な低家賃の労働者住宅を建設し、ここに労働者を送る。

 

マルヴィルは、当局の指示に従って、取り壊しの決まっている通りを両端から、工事前、工事中、工事後というように、三段階にわけて撮影している。

当局は工事後の写真を強調したかったが、後世は工事前の写真を賞賛した。

 

オスマンの言う通り、もし、パリが改造されずに、現在も中世そのままの姿で残っていたら、ヴェネツィアのように旧市街は観光客専用として自動車乗り入れ禁止に出もしない限り、都市としては機能しなかっただろう。

しかしマルヴィルに写真を撮らせたことは、オスマンの失策ではなかったか。

 

写真の感動的な点は、しんと静まり返った光景の中に、ぽつんと見える人影である。

 

著者の完全な推量では、もしかすると、マルヴィルはバルザックの《人間喜劇》の熱心な読者ではなかろうか。

バルザックが様々な小説の中で取り上げている路地が、マルヴィルの撮影しているそれとあまりに見事に符合している。

 

 

フランスのスポーツ

普仏戦争の敗北で、フランスも近代的な身体訓練つまり体操を軍隊や学校に積極的に導入しようとした。

 

スポーツを巡る19世紀末の言説

・フランスの軍隊式体育をイギリス風の自由なスポーツ精神によって打破しようとする左派(自由派)

・自我、克己心、民族、祖国などの価値を高めるためにスポーツを利用しようとする右派(国粋派)

 

クーベルタンは第一回オリンピックを1900年のパリ万博に合わせてパリで開催しようと考えたが、間が空きすぎるということで第一回大会はオリンピック発祥の地アテネで行われ、大成功をおさめたが、パリでの第二回はほとんど話題を呼ばなかった。

当初の目論見どおり、第一回がパリで行われていたら、現在オリンピックは存在しなかったかもしれない。

 

日本と違ってフランスの自転車レースはトラックではなくツールドフランスなどのロードレースが主体となっている理由

・古くから長距離の乗合馬車が運航していたおかげで都市間の道路が舗装されていた

・国土が平坦で起伏が乏しい

・自転車は都市生活者が広々とした田園に出てきれいな空気を吸い込むための道具という考え方が根底にあったので、わざわざ狭い競輪場に閉じこもってレースをするという発想が生まれなかった

 

ラグビーは1890年頃イギリスから輸入、1910年創設の五か国対抗の人気の高まり同時にプロスポーツ化が進んだ。

 

サッカーも同じ頃イギリスから導入されたが、その手軽さから現在も国技といえるほどの人気と競技人口をもっている。

 

あとがき

パリという街は、過去と現在が理想的な形で混在している特権的な都市

ヴェネツィアのように過去がそのまま手つかずの状態で残っているわけでもなく、かといって東京のように過去が痕跡もとどめていないというのでもなく、いわば過去と現在が幸福に絡み合って、過去再構築の欲望を喚起してやまない時間のモザイク都市。

 

パリ時間旅行 鹿島茂 著 (前半)

パリ時間旅行 鹿島茂 著 表紙

パリ時間旅行

鹿島茂 著

筑摩書房 発行

1993年6月1日初版第1刷発行

 

この本では、パリの中に穿たれた、パサージュ、街灯、あるいは単に光、音、匂いなどというタイム・トンネルを通ってこの時間都市に旅をして、たっぷりと十九世紀の空気を吸い込んでいくことを目的としている、とのことです。

 

Ⅰ パリの時間旅行者

パリの時間隧道(パサージュ)

パリの建物は条例により高さが地域で一定している。そのせいか、屋根裏部屋の窓から眺めるとほとんど視界を妨げるものがない。

 

パサージュというのは、通りと通りを結ぶ一種のアーケードの商店街で、十八世紀の末から十九世紀の前半にかけて建設された鉄とガラスの建築

パリのパサージュはどれもいたって小規模で、しかも、例外なく寂れきっている。そして、その寂れ方が尋常ではないのである。それこそ、寂れ寂れて百五十年、というように、寂れ方にも年期が入っている。

 

パサージュは十九世紀の化石だが、左岸ではパサージュはすでに全滅している。

 

パレ・ロワイヤルの寂れ方は、パサージュ以上である。

パレ・ロワイヤルは十九世紀の古戦場である。とにかく、ここには人間の気配すら感じられない。

(この中庭で、のんびり昼休みを過ごしたのは懐かしい思い出です)

 

ボードレールの時代への旅

1853年はボードレールの時代のパリ

 

ベル・エポックの残響

1910年の初め、『失われた時を求めて』の執筆に全力を注ぐことを決意するプルースト

 

当時のガラクタ市を訪れた骨董好きが薄汚れたバイオリンを数フランで買ったが、のちにそれはストラディヴァリウスであることが判明した。

この噂が立って以来、パリ中の人間たちが、さながらゴールドラッシュのように、クリニャンクール門やモンスール門に立つ蚤の市に押し掛けた。

 

ラムウェイは、最初、二階建ての大型乗合馬車を軌道に乗せて、これを馬が牽引する鉄道馬車の形をとっていたが、やがて動力は蒸気や圧縮空気に、ついで電気に変わった。

 

Ⅱ パリの匂い、パリの光

香水の誕生あるいは芳香と悪臭の弁証法

 

清潔の心性史

 

パリの闇を開く光

固定した公共照明がパリに出現するのは、1667年、太陽王ルイ14世が、絶対王政の象徴として二千七百個のランテルヌ灯の街灯設置を命じたときのことである。

ランテルヌ灯はガラスをはめた角灯に一本の蝋燭がともされてるだけの照明

 

1760年頃、あらたにれレヴェルベール灯という灯油ランプによる街灯が発明される。街路をまたいで両側の建物の間に張られた綱の中央に吊るされてた。

 

パリの街路照明に革命をもたらしたのは、1830年頃から公共用街灯として用いられるようになったガス灯である。

 

灯柱はガス灯がレヴェルベール灯に取って代わった時に初めて登場した。

レヴェルベール灯は灯油だったので、ランピストと呼ばれる点灯夫が、毎日一定量を給油していたのだが、ガス灯では、ガス工場で製造したガスを地下のパイプを通して常時ランタンまで運んでいた。そのため灯柱が必要となった。

そして電気照明になっても灯柱が必要となるため、そのままパリ風景が残った。

そしてパリの夜が味気ない蛍光灯で照らされずにすんだ。

 

陰翳礼讃あるいは蛍光灯断罪

 

ミステリー「モーツァルトの馬車」

17世紀の中頃までは、都市交通に最も必要な二つのものが決定的に欠けていた。

・整備された舗装道路

・人間が安楽に乗ることのできる馬車

舗装道路は、17世紀においては、ローマ時代よりはるかに劣っていた。

 

18世紀、馬車もスプリングが改良された。

 

もし、モーツァルトが二十年早く、18世紀の前半に生まれていたら、あれだけの大旅行が物理的に可能だったかどうか。

また、モーツァルトが二十年遅く生まれていたら、石版印刷の出現で楽譜の出版による印税が可能だったから、モーツァルトほど旅行する必要がなかった。

 

モーツァルト親子が残した膨大な書簡は、18世紀後半のヨーロッパ社会を理解する上で、またとない一級の資料となっている。

 

18世紀後半の旅行手段として可能だったもの

・川船

・自家用馬車

・貸し馬車

・駅逓馬車(駅馬車

郵便馬車

 

馬車というと、御者と馬が自動的に付いているものと考えるが、これは駅逓馬車のような乗合馬車以外にはありえず、普通は自家用馬車でも貸し馬車でも、馬と御者のセットを宿駅ごとに雇わなければならなかった。

 

貸し馬車は寒さがひどかった。また、安全性もなかった。

 

駅馬車は乗り心地が最低だった。

 

郵便馬車は19世紀の前半には旅客輸送の一翼を担うことになるが、少なくともまだフランスでは、モーツァルトの時代には、郵便の配達が専門で旅客は乗せていなかったようだ。

したがって、モーツァルトの手紙によく登場する「終わりにしなくてはいけません。郵便馬車が出発します」という言葉は、郵便馬車に乗るのではなく、手紙を郵便馬車に託すという意味なのではないか。

 

ジョイス博物館の謎の旗(アイルランド)

ジョイス博物館とマンスター州の旗

マンスター州の旗

最後にジョイス博物館の裏から写真を撮っていました。

よく見ると青い旗がはためいています。

最初はEUの旗かなと思ったのですが、確認するとアイルランドのマンスター州の旗でした。

マンスター州は南部地域で、この旗のある地域のレンスター州とは異なります。

なぜここにその旗なのか、理由はよくわかりません。

wikiによると、今のレンスターのハープの紋章が現れる前は、アイルランド全体を象徴する徽章であったということなので、古いアイルランドを象徴する旗という意味があるのかもしれません。

 

最後に現地の日本語パンフレットからユリシーズについて述べている箇所を引用します。

 

ユリシーズはタワーで有名ですが、書き出しの場面はタワーの頂上から「威厳のある、しかし、ずんぐりした」“ボック・マリガン”が階段を下りてくるところから始まります。彼が髭を剃っている時スティーブン・デダルスが現れ、亡くなった母親の事を未だに嘆いているスティーブンをボック・マリガンは嘲笑います。第一章はボック・マリガン(ゴガティ)、スティーブン・デダルス、英国人のハインツ(トレンチ)が円形の部屋で朝食をとっている描写が続きます。この描写は、ゴガティや彼の友人、賃貸料に関する資料などから、ユリシーズの場面を再現することができます。

カラー新版 地名の世界地図

カラー新版 地名の世界地図 表紙

カラー新版 地名の世界地図

21世紀研究会編

文藝春秋 発行

文春新書1269

2020年9月20日 第一刷発行

 

世界の地名の起源について述べられています。

メモしてもきりが無いので、ひとまず見出しだけでも載せておきます。

 

序章 外国語地名との出会い

福沢諭吉が著した『世界國盡』

 

第1章 「自然」が生み出した地名

 

第2章 地名は古代地中海から

 

第3章 地名を変えたゲルマン民族の大移動

 

第4章 スラブ人たちの故郷

 

第5章 大航海時代が「世界」を発見した

 

第6章 モンゴルが駆けぬけたユーラシアの大地

 

第7章 ユダヤの離散とイスラームの進撃

 

第8章 アメリカ――新しい国の古い地名

 

第9章 アフリカ「黒い大地」の伝説

 

大索引 国名・首都名でわかった地名の五千年史

 

サムライ留学生の恋

サムライ留学生の恋 表紙

サムライ留学生の恋

熊田忠雄 著

集英社インターナショナル 発行

2020年7月20日 第1刷発行

 

本書では明治の初期、ドイツ、イギリス、アメリカに留学し、現地女性と恋に落ちたサムライ経験者、もしくはサムライの血をひく者たち九名を取り上げ、彼らが留学先でいかにして現地女性と出会い、いかなる交際を経て親密な関係を築いていったかをたどり、その結末を紹介しています。

様々な困難を乗り越え、恋を貫き結婚した人もいますが、実らぬ恋に終わった人もいる反面、相手女性を単に現地妻的にしか扱わなかった男もいます。

 

第一章 ドイツ女性との恋

青木周蔵エリザベート・フォン・ラーデ

同じ国(ドイツ)に外交使節の長として三度も赴任した日本人外交官は周蔵をおいていない。

世間では「ドイツ翁」とよばれたが、その一方余りにドイツに肩入れするため、「ドイツ癖」や「ドイツ狂」と揶揄する声も聞かれた。

 

北白川宮能久親王とベルタ・フォン・テッタウ

戊辰戦争での「朝敵騒ぎ」、ドイツでの「恋愛騒動」といい、能久親王は思い込んだら突っ走る猪突猛進タイプ、皇族の中の「お騒がせマン」だった。

 

井上省三とヘードビヒ・ケーニッヒ

北白川宮能久親王随行した井上。この人は結婚にこぎつけた。

 

当時のドイツ女性の印象は、アングロサクソン婦人、つまりイギリスおよびイギリス系と異なり、気位が高いというわけでなく、家庭的、献身的で、情が濃いということだったか。

 

第二章 イギリス女性との恋

川田龍吉とジョニー・イーディー

男爵イモ」を開発し、全国に普及させた川田龍吉

 

龍吉を道南の地での農業に駆り立てたのは、この地の気候風土が留学生活を送ったスコットランドと酷似しており、その原野の風景は、恋人ジェニーとしばしば足を運んだグラスゴー近郊の田園地帯を思い出させたからである。

 

尾崎三良とバサイア・キャサリン・モリソン

尾崎は日本人の国際結婚第一号といわれる。

 

尾崎はバサイアとの間に三人の子供、そして日本の本妻の間に一子、そして妾との間に十四人もの子供を残している。

(妾との子どもが十四人というのがゴイス)

 

重婚状態を批判されなんとか解消した尾崎。日本最初の国際結婚は最初の国際離婚となった。

 

藤堂高紹とエリーナ・グレース・アディソン

エリーナ夫人と離縁するため、日本で婚姻届けと離婚届を同時に提出するという強引な方法

尾崎よりも悪質なのは、相手方の同意を一切得ることなく、一方的に離婚を決断し、推し進めたこと

 

第三章 アメリカ女性との恋

松平忠厚とカリー・サンプソン

徳川時代の上田藩は真田家・仙谷家・松平家の三家が治めてきたが、上田市民にとってはやはり真田家への愛着が深い。

 

新渡戸稲造とメリー・パターソン・エルキントン

新渡戸を「知の世界」へと駆り立てた原点は、幼いころ、生まれ育った郷里の藩(盛岡(南部)藩)が戊辰戦争で朝敵とされ、降伏という屈辱を味わった無念さを晴らすためではなかったか。

 

武士道とキリスト教という一見、不調和に思えるものを見事に融合させ、人生のバックボーンとした新渡戸稲造、そうした夫の考えに共感し、支え続けた妻のメリー、明治の中頃にこれほど理知的な判断のもとに結ばれた日本人男性とアメリカ人女性のカップルがいたことに驚きを禁じ得ない。

 

朝河貫一とミリアム・キャメロン・ディングウォール

朝河は福島県二本松市では知らぬものがいないほどの有名人で、郷土の誇り

 

学者として国際的名声を手に入れた朝河だったが、私生活においては妻ミリアムとの死別、恋人ベラとの別離など、愛した女性たちとの縁は薄かった。

 

現代語訳 欧米漫遊雑記

現代語訳 欧米漫遊雑記 表紙

現代語訳 欧米漫遊雑記

鎌田栄吉 著

舘川伸子 訳

博文館新社 発行

2014年3月28日 初版第一刷発行

 

慶応義塾の鎌田栄吉先生が明治29年(1896年)3月から1年9か月をかけて欧米(トルコ・エジプトも含む)を視察した際の記録・紀行文です。

当時の各国、そして国民性の見方が、現代にも通じるものもあれば、無いようなものもあるので、その微妙なギャップが面白いです。

 

第一章 フランス

英仏両国民の最も大きな違いは名称である。

フランス人は規則を画一化して名と実が適合することを好む。

英人は自然の成り行きに任して旧態を改めず、たとえその物にどんな変遷があっても名称を変えることはないので、官庁などの名称もほとんどその実態を表さなくなってきている。

 

アヴィニョンの兵営は、昔ローマ法王の居城だったところにあった。

(過去にはそのような使われ方をしていたのですね)

 

フランスのスペインとの国境にある町セート

スペイン製の酒を輸入して精製し、フランス葡萄酒の銘をつけて外国への輸出品にあてている。

 

第二章 英国

旅行者が、ロンドンを訪れて最も驚くことの一つは、ドイツ人の移住者が多いことである。

ドイツ人は大商、小買、代言人、学者、給仕人、職工、手代として侵入している。

 

第三章 英国のスコットランド

グラスゴー市では、欧州では珍しくない裸体美人画も厳重に取り締まっている。

あるとき、利に敏い一商人が、グラスゴーで発禁となった裸体美人画をロンドン市中で売り歩いた。しかしそれはなんのことはない平凡な画だった。

 

ロンドンは現代のローマである。様々な国の人、様々な宗教、様々な人種、様々な主義がここにやって来るが、来たもので容れられないものはない。

 

英国の下院議会は午後三時から始まるが、昼間はあまり面白くない。午後十時前になるのと、議場は賑やかになってくる。二時、三時まで平気である。昼間職務に忙しい実業家や法律家や学者も出席できるため、夜分に重要な議論をする。

 

英国の下院議員ではアイルランドの議員が時々大騒ぎをする。

一般にアイルランド人は軽佻の気風がある点、英人よりもフランス人に似たところがある。

また女王即位の六十年間は英人にとっては黄金時代だったかもしれないが、アイルランド人にとっては貧困、憂患、不平の暗黒時代としている。

 

第四章 ベルギー、オランダ

1830年独立で、新しくて小さな国であるため、新制度を取り入れやすい。新法制の試験所とでもいえるかもしれない。

 

ベルギーの都市にはそれぞれ特色がある。

ブリュッセルは貴人を誇り、アントワープは金銭を誇り、ゲントは首輪を誇り、ブルージュは美人を誇り、ルーヴァンは学者、マランは馬鹿を誇る。

マランに対するこの酷評は、寺院の塔の上に月が出たのを見て火事と誤り消防器を持ち出して水を注いだ、という話に始まったという。

 

第五章 ドイツ

ドイツは学者が集中する学問の本場というべき地だが、学者が増えてもそれに対応するだけの事業がない。

 

ドイツでは官権が様々なことにまで事の大小にかかわらず干渉し、それでよい結果が出ている。

 

第六章 ロシア

サンクトペテルブルクからモスクワまでの鉄道

その間がまったく茫漠たる原野で、全く人家を見ることがないのは、設計にあたって沿道の村の便を考慮せず、一直線に鉄道を敷設したからである。

ニコライ皇帝が地図上に両都の間に一直線を引き、このように敷設しろと命じたから。

 

ワルシャワ市はもとポーランドの首都で、分割、消滅の後、ロシアに属し、ロシア国総督府の所在地となった。

(当時のポーランドの亡国の哀しみを感じます)

 

第七章 オーストリアハンガリー

 

第八章 ブルガリア

 

第九章 トルコ

コンスタンティノープルトルコ人ギリシャ人、アルメニア人が大部分で、他にユダヤ人、西欧人などがいる。

ギリシャ人はアルメニア人は卑屈でトルコ人の機嫌を取っていると嘲り、アルメニア人の方はギリシャ人は不正不義であると罵っているが、その両者が会えば、一緒になってトルコ人は無学で怠け者だと笑っている。

 

トルコ人の生涯の目的は文武の官吏になることである。商業などは大いに賤しんでアルメニア人かギリシャ人の業とみなし、学問は西欧人の業とみなしている。

 

トルコ人の長所は、性格は率直であり剽悍にして決死の気性に富んでいるから、軍人としては屈強の兵士として賞賛してあまりある。

 

第十章 ギリシャ

ギリシャ人は忍耐に欠けるところはあるが、文学、商業、政治などの才に富んでいる。

 

第十一章 エジプト

なぜピラミッドのような巨大なものを築いたのかというと、砂漠の中では、通常の墓標のようなものをどんなに巨大にしても、土砂のため埋もれてしまうからである。

 

エジプトの病と言えるのが外債だ。このために列国の干渉を被り、首も回らない状況だ。

 

第十二章 イタリア

かの偉人マキャベリは稀世の材を抱いてイタリア統一の策を画した。そのためには尋常な謀計では充分でないと考え、まず英主にして獅子のような胆勇と老狐のような狡知を兼ね備えたものを求め、内外に隠顕出没の詭計を行い、しかも豪胆な政略で、密かにミラノ王やサルジニア王に望みを属したが、時は未だ熟せず、むなしく幽囚の身となった。

 

第十三章 スイス

 

第十四章 スペイン、ポルトガル

スペインの闘牛は残酷である。

ポルトガルでも闘牛は行われているが、法律で禁止されているので牛や馬を殺すことはない。

ポルトガルは小国である上に外国人の勢力が強いので、動物ほどなども行われているのだ。

 

第十五章 アメリ

英人は閑散を装ってこれを人に誇り、米人は多忙を装ってこれを人に示す。