ナンシーのカリエール広場から見た凱旋門

ナンシーのカリエール広場から見た凱旋門

 

画像はフランスのロレーヌ地方の都市、ナンシーに建てられている凱旋門です。
この門だけでなく、スタニスラス広場の設計者でもあるエマニュエル・エレにちなみ、エレ門とも呼ばれているようです。
1753年から1755年にかけて建設されました。
カリエール広場からの画像なのですが、その裏にあたるスタニスラス広場に面した側に比べると、いくぶん地味な造りです。
上部は透かし彫りが入った石造りの欄干に置き換えられています。
こちらからスタニスラス広場にスタコラサッサと入っていきます。

顔も眼も真ん丸なにゃんこ

顔も眼も真ん丸なにゃんこ
うちのにゃんこです。
ドアップを見ていると、顔も眼も真ん丸ですね。
首輪を着けていますが、痒そうだったので、結局外してしまいました。
似合っていて残念ですが、痒さには勝てません。
 

変顔のにゃんこ
ふにゃ~
お鼻のまわりも真ん丸なのにゃ
ちょっと変顔になってますね(笑)
 

 

地名の研究 柳田国男 著

地名の研究 柳田国男 著 表紙
地名の研究
柳田国男 著
中公クラシックスJ65
2017年4月10日 発行

「過去への道標」を毀損してはならない 今尾恵介
東京の銀座は大半がニセモノ
そのエリアの大半が「本来の銀座」、少なくとも明治初年の銀座の範囲ではない。p16

ちょうど100年前のロンドンの地図で、通り名を現在の地図と比較してみると、その大半が現在も同じ名前を保っている。
これに対して、数回の地名変更を経た東京では、夏目漱石森鷗外永井荷風などの小説や日記を読んでも、今の地図では多くの地名を発見できない。P25

合併した新市名に苦労するなら、地名を変えずに合併すればいいのだが、これにはフランスの「コミューン」がヒントになる。p25
行政は日本で言う「広域事務組合」で近隣の村々と一緒に行われているため、歴史的地名を変更する必要が生じない。p26

 

地名の研究
地名の話
アイヌの地名のつけかたは単純にして要領を得ている。彼らは長い地名を意とせずにつけている。
これに反して我々の祖先は、はやくから好字を用いよ、嘉名をつけよという勅令を遵奉して、二字つながった漢字、仮名で数えても三音節、ないし五、六音節までの地名をつけねばならなかった。
そのため謎に近い地名のつけかたをするようになったのかもしれない。p15

支那人満州の平原などで村を作り、自分の屋号を地名として陳家屯・楊家塞・柳家店などと呼ぶのとは完全に反対で、我々の苗字はかえって居住地から出ている。p39

 

地名と地理
地名を調査してその一つ一つを解説し、または一般的傾向を要約した書物が西洋では多くの国に出ており、中にはそれ一つしか著書のない人もあるらしいが、そのためにこれを独立した一つの学問と見ることはできぬということである。p41

日本の地名の特色
・まず地名の分量が多く、したがってその変化の盛んなこと
・東西南北の一致がきわめて顕著であって、その発生の通則が見つけやすい

日本の地名は、隣国の支那とはちょうど反対で、かえって北ヨーロッパの国などと似ている。すなわち土地が居住者の携え来った家名によって名づけらる場合はほとんどなく、地名はかえって常に居住者の名前として利用せられていたのである。p57

 

地名と歴史
同じく地形を表示する単語でも、やはり必要に応じてつぎつぎに生まれてきたので、決して一部の論者の想像するように、大昔からすべて備わっていたのではない。p93
おいおいに人がつまり、または後から入ってきて若干の不利を忍ばねばならぬものは、ぶつぶつ言いながらも二等地・三等地に村をこしらえることになった。そういう時代になって、はじめて生まれたらしい地名もずいぶんあるのである。p94

 

地名考説
日本の地名を研究する者の第一に注意すべきことは、古来の用字法の誤謬である。p118

ある人の想像の如く地名が蝦夷起源なりとしても、国巣・土蜘蛛の語だったとしても、はたまた単に古いから忘れたにしても、とにかくそんな地名が口から耳へ、今までも伝わっているということは、日本ばかりの特色である。
たとえば英国の如くデーンがセルト[ケルト]を追い、ノルマンがサクソンを殺戮するという歴史であったら、地名はそのつど改まらずにはいない。
前住民といわゆる今来の民とが、やや久しい期間平和に共棲していたことが、必ずやこういう解しにくい地名の多く存在した原因でなければならぬ。p125

帷子カタビラと名付けた理由は、まったく一方山により、一方は田野をひかえているために、すなわち片平というのであろう。p144

 

岩の黒々と露出している部分が、一見いかにも顕著であるから、これに名のないことはあるまいと、聞いてみたら、ゴウロといいますと無造作に答えた。
その後気をつけてみると、自分(柳田)の生地、播磨神崎郡香呂村なども、これらしい。p170

奈良の都を平城と書くのを見て、ナラは当時の輸入の漢語であるように論ぜられた学者もあったがそれは誤りであろうと思う。
山腹の傾斜の比較的ゆるやかなる地、東国にては何の平といい、九州南部ではハエと呼ぶ地形を、中国・四国ではすべてナルといっている。p188

窪は漢語でも水たまりの義で、クボは『字鏡』にも土凹なりと記してある。すなわち小さな水田適地を意味する。ゆえに丘山の間の少しく広い耕地を、すぐに大久保・長久保などといって珍重する例が多いのである。p214

 

天橋立という語は、小式部内侍をはじめ多くの人が歌に詠んだほかに、『釈日本紀』に引用した『丹後風土記』の文にも見えているが、はたして今の地をさした地名か否かは疑いがある。それはハシダテといえば梯を立てたような険しい岩山をいうのが常のことで、その梯が倒れて後にこれを橋立というのは不自然なるのみならず、『風土記』に大石前とあるのが今と合わぬ。これはむしろ湾の外側の岩山のことであったのを、名称と口碑とがいつか湾内の砂嘴に移ってきたものと見られる。p265
 
 

はじめて学ぶ西洋古代史 第Ⅱ部 ローマ

オランジュ古代ローマ劇場壁面のアウグストゥス立像

 

第Ⅱ部 ローマ
第8章 ローマ帝国の形成 西洋型帝国の原型
「現実主義(リアリズム)」とは、国際関係を決めるのは「力」であるというもので、これは古代ギリシアのトゥキュディデスに遡る考え方。ローマ拡大時の地中海世界でもこのような原理が働いており、カルタゴヘレニズム世界の諸王国もローマと同じようにその立場を軍事力に依存していた。p159

 

第9章 元首政期 皇帝を通して見るローマ帝国
オクタウィアヌス(アウグストゥス)は元オクタウィウスという意味
オクタウィウスがインペラトルカエサル・神の息子と改名したが、長くてカエサルとも紛らわしいため、研究者たちはそう識別した。p167

アウグストゥスが引き受けた属州は、国境沿いや帰順しない勢力による反抗が続いていた地域だった。
一方で、元老院の管轄となったそれ以外の属州の大半は、軍団の常駐を必要としない平和な地域だった。
つまり、この時アウグストゥスは、国事の必要上仕方なく、という見せかけのもと、ローマのほぼ全軍の指揮権を合法的に譲られた。
超法規的な手段で国政をほしいままにすれば、独裁者だと憎まれて大叔父のように暗殺されるかもしれない。p169

前23年、護民官となるアウグストゥス
拒否権の発動が認められて、それにより他の公職者や元老院の決定を無効にできた。それであらゆる公職就任者は、必ず彼の意に沿わなければならなくなる。
この前23年こそ、アウグストゥスによる「帝政」の完成の年と考えている。

 

第10章 属州 帝国西部の地方社会
属州はただ軍隊を受け入れていただけでなく、しばしば新兵を供給し、兵役中の彼らの衣食を賄い、そして除隊後は退役兵を受け入れ、彼らの第二の人生の舞台を提供していた。p187

ローマによるガリア支配を劇的に変化させたのが、軍功による富と名声を渇望するユリウス・カエサルである。彼は、前58年、ローマ領外で生じた部族間の紛争解決を口実にガリア東部に兵を進め、紛争解決後もガリア北部・西部・中部で遠征を継続し、ガリア側に多大な人的損害を強いた末、各地の諸部族を服属させた。p188
(カエサルびいきの塩野七生先生とはずいぶん違う書き方ですね・(笑))

ヒスパニアガリア、ブリタンニアそれぞれとの関係で重要なのは経済的な結びつき
ヒスパニア産のオリーブ油がアンフォラに詰められて
地中海とローヌ川等の河川網を経てライン国境地帯に、
また大西洋を通じても北方地域であるブリタンニアライン川を遡ってライン国境地帯に輸送されていた。p192

 

第11章 ローマの経済 食料の生産・輸送・消費
共和政末期から帝政初期のイタリアを中心に、植物性食料の生産として農業を、ついで動物性食料の生産として畜産業と水産業を概観し、最後に食料の輸送と食生活について

ローマ農業史研究の基本史料は、前二世紀に大カトー、前一世紀にワロー、後一世紀にコルメラが書いた三つの現存する農事誌であり、土地の選定からウィラ(農業に関連する別荘)の設計、労働力の調達、作物の栽培と加工に至るまで詳細な情報がここから得られる。
他には大プリニウス『博物誌』などp212-213

 

第12章 ローマの社会 語学のテキストで悪口と借金を学ぶ社会
偽ドシテウスのヘルメネウマタ
ローマ帝政期からルネサンス頃までのヨーロッパで使用されていたギリシア語・ラテン語学習用の教材集


なぜ古代ローマでは、人をののしる表現が役に立つと見なされていたのか?
・ローマ社会では、日常のトラブルをうまい解決してくれる警察のような組織がなかったからではないか。p234
・ローマ法(それとラテン語)を学ぶ若者を主な読者層にしていた。裁判ではいかに相手を攻撃できるかが大切だった。

ローマ社会で、ののしられていた無数の社会的弱者の存在が、隣人愛を説くキリスト教誕生の腐植土となってくれたのかもしれない。p247

 

第13章 ローマ帝国の衰亡と「古代末期」の気候変動 気まぐれな自然が蝕んだ帝国の回復力
古典古代世界から中世西欧世界・ビザンツ世界への移行期を、単なるローマ帝国衰亡の時代ではなく、それ自体独自で固有の意義を持つ時代と見なし、「古代末期」と呼んでいる。p252

ドイツの古代史研究者デーマントによれば、これまでに提示されてきたローマ帝国衰亡原因論を分類整理すると、迷信や専制主義、農奴制、農業問題、入浴習慣、破産、蛮族化、キリスト教など、210を数えることができるという。
それぞれの時代を生きた人々が、自らの時代のはらむ諸問題を映し出す鏡/鑑として、さらには将来への「処方箋」として、ローマ帝国の衰亡へ様々な角度から眼差しを注いでいたことが、衰亡原因論がこのように多岐に及ぶという事実に端的に示されている。p255

アントニヌスの疫病 165~180年
キュプリアヌスの疫病 249~270年
カルタゴ司教キュプリアヌスによるまとまった証言が残されている。
古代末期小氷期の到来とユスティニアヌスの疫病 541~749年

 

第14章 ギリシア・ローマ世界のサヴァイヴァル なぜその叡智は我々に伝わったのか
ローマは広大な領域を征服して帝国を形成する過程で、ギリシア文化を筆頭に、支配下においた文化を摂取しながら、彼らが考えるところの「文明」なるものを共和政末期から元首政期に確立した。これがラテン語でフマニタスと呼ばれるもので、「教義」とか「文明」などと訳される語にあたり、帝国内の各地のエリートがローマ人として認知されるために習得が必須なものとして、広がっていった。p276

中世のローマ帝国ビザンツ帝国と呼ばれることが多い。
通説的な理解だと、そこで古代ギリシアの叡智も保存され、ルネサンスに多大な影響を与えたということになる。p282

イスラーム世界になぜ多くのギリシアの著作が存在したのかを考える際に重要となるのが、ローマ帝国下でのキリスト教における正統の決定、そしてサーサーン朝ペルシアである。p284-285

試練の時代を乗り越えて生き残ったフマニタスの一部は、14世紀に入ると、後代にルネサンスと呼ばれる文化思潮により、永遠の命が保障されることになった。
この時代は教皇庁がローマから北のアヴィニョンに移され、ここに西欧南北の知識人が交流できたことも大きな原動力となったかが、とりわけペトラルカの出現により、フマニタスの再生が大きく進められる。p287

はじめて学ぶ西洋古代史 第Ⅰ部ギリシア

はじめて学ぶ西洋古代史 表紙

 

はじめて学ぶ 西洋古代史
長谷川岳男 編著
ミネルヴァ書房 発行
2022年10月30日 初版第1刷発行

はじめて学ぶ、と題していますが、内容はけっこう高度だと思います。

第Ⅰ部 ギリシア
第1章 アケメネス朝ペルシア 世界帝国とギリシア諸都市
前6世紀半ばにイラン高原に興ったアケメネス朝ペルシアは大帝国であった。都市を基本単位としたギリシアの国家とは、非対称とならざるを得ない関係だった。

 

第2章 スパルタ その神話と実像
スパルタ人自身が、新たに始める制度などをあたかも遥か昔からあったような装いでなすという、伝統の創造を盛んに行っていた。
ローマ支配下ギリシア人が文化の面で過去の栄光を呼び戻そうとする動きの中、スパルタもその傾向が強く、それまで広く認識されていた、現実とは異なるいにしえの時代のイメージに合わせて、自らの社会を改造した。p26

嬰児遺棄や共同食事、戦場での臆病が処罰の対象などはアテナイなどと同様だった。
他のポリスとの違いは、生産活動をヘイロータイ(隷属農民)に依存し、市民の生活に公的な介入もして秩序の維持を徹底させたこと。p40

 

第3章 アテナイ 民主主義、文化・芸術の都
民主政という制度に限って言えば、一時期のフィレンツェのような例外をのぞけばアテナイ民主政の消滅後は存在せず、アメリカ独立革命およびフランス革命の時代まで研究の対象ともされてこなかった。そして、そうした研究においても、一般に民主政は無秩序で無政府的であると考えられ、あるべき国制のモデルとして挙げられたのはアテナイよりもスパルタの国制であった。
アテナイ民主政の実際の制度について関心が向けられ、研究対象とされるようになったのは、19世紀に入ってからのことである。p39

 

第4章 古代ギリシアの宗教 神々と人間のコミュニケーション
古代ギリシアの宗教の特徴・性格
・教義を記した教典といったものは存在しなかった
・宗教上の専門家・組織の不在
・個人の内面性よりも集団活動に重点が置かれた
・互酬的性格

 

第5章 マケドニア バルカンの「巨人」
マケドニア史の研究が本格的に取り組まれるようになったのは、ここ数十年。なぜ、かくも遅々としたものだったのか?
・同時代のマケドニアの人々の書いたものがほとんど残っていない
・近代以降のマケドニアの政治的複雑さに起因する発掘調査の停滞
アレクサンドロスという存在があまりに巨大だった。圧倒的な関心がアレクサンドロス個人に集中した。

フィリポス2世の「鬼才」なくしてギリシア征服があり得なかったのは言うまでもない。しかしその「成功」の要因としては、マケドニア王国が広く肥沃な国土や木材をはじめとする豊かな天然資源といった大きなポテンシャルを有していた。p97

 

第6章 プトレマイオス朝エジプトとヘレニズム世界 交錯する権力・伝統・文化
ヘレニズム時代
西アジアギリシア人としての自己認識を持ったマケドニア人たちによって支配され、やがてローマの版図に組み込まれていくまでの時代
プトレマイオス朝エジプトはヘレニズム諸王国の一つ

 

第7章 ギリシアの連邦 創意に満ちた共同体
連邦とは、共通の文化を持つ人々から構成され、加盟ポリスのそれとは異なる、独自の政府や制度を有した共同体
ギリシア本土にはボイオティア連邦、アイトリア連邦、アカイア連邦などが成立
現代の用語では、連邦、あるいは同盟や連合とも表される。

一般的に市民権の権限は、その共同体での参政権のような政治的権限と、その共同体での土地所有権や通婚権などの私的権限に大別できる。
私的権限は連邦規模で行使できた一方、政治的権限は一つの加盟ポリスでのみ行使できたというのが通説p137

古代ギリシアの歴史は、ポリスだけでなく、連邦の歴史でもあった。古典期にはアテナイやスパルタと異なる方法で地方を統合し、ヘレニズム時代にはその地方を越えて拡大して、一定の存在感を示し続けた。p139

 

羊皮紙の世界 薄皮が秘める分厚い歴史

羊皮紙の世界 薄皮が秘める分厚い歴史と物語 表紙

 

羊皮紙の世界
薄皮が秘める分厚い歴史と物語
八木健治 著
岩波書店 発行
2022年8月30日 第1刷発行

中世ヨーロッパの歴史をひもといていると、必ず出てくる羊皮紙。
この本では、羊皮紙の作り方から、羊皮紙が使われている文物まで、馴染みの薄かった羊皮紙のあれこれについて、豊富な写真とともに、わかりやすく説明しています。

プロローグ 羊皮紙発祥の地
プリニウスの著書『博物誌』に、羊皮紙は紀元前二世紀、ベルガモン(現在のトルコ西部のベルガマ)で生まれた、と記されている。
パピルスが使えなくなった「緊急事態」に際しての代用品だった。p2

 

第一章 羊皮紙作りの世界
羊皮紙を作るためだけに、動物を殺すことは、まずなかったと思われる。メインはあくまで「肉」
余った皮をレザーや羊皮紙に使った。p4

「羊」皮紙と書かれているが、ひつじ限定ではなく、ひつじ、仔牛、山羊の皮が使われている。

第二章 羊皮紙写本の世界
羊皮紙ならではの修正方法として、間違えた文字をナイフで削る方法もあった。間違えたらインクが乾くのを待ち、ナイフで文字を「カリカリッ」と削る。p40

活版印刷により、写本制作という産業だけでなく、羊皮紙という素材も衰退に追いやった。羊皮紙には印刷用の油性インクが染み込みづらいため、紙と比べ印刷後のインクの乾燥にかなりの時間がかかる。p54

 

第三章 非西欧圏の羊皮紙文化
・磨き抜かれたビザンツの羊皮紙
アルメニアの羊皮紙聖書
アルメニアキリスト教徒が大部分を占める。世界ではじめてキリスト教を国教と定めたのはアルメニア王国、西暦301年。
ローマ帝国キリスト教を国教とした392年よりも前
・細かすぎる羊皮紙に関するユダヤの掟
ユダヤ神秘主義カバラ
エチオピアの聖書と護符
エチオピア(当時はアクスム王国)では西暦325年頃キリスト教が国教に定められた。
コーランに宿る真理
羊皮紙のコーランは多くが横長の判型であること。キリスト教の聖書などと明確に区別するために横長に変えた。

 

第四章 羊皮紙文書の世界
活版印刷後の羊皮紙の活躍の場
・政府や役所が発行する公文書
・会社や個人の約束事を記した契約書など「証書類」

イギリスにおいて、つい最近の2016年、「法律を羊皮紙に印刷して保管する」という決まりは、イギリス国会で正式に廃止された。
しかし紙に印刷した法律の「表紙」だけは羊皮紙にしましょうということが2017年に決まった。p111

 

山の旅 明治・大正篇

山の旅 明治・大正篇 表紙

 

山の旅 明治・大正篇
近藤信行 編
岩波文庫 緑170-2
2003年9月17日 第1刷発行

明治から大正にかけて、登山について書かれた文集です。
有名な作家も登場します。
今以上に厳しい、当時の様々な形の山登りの描写がこちらに迫ってきます。

乙西掌記(抄) 松浦武四郎

旅の旅の旅 正岡子規

寒中滞岳記(十月一日より十二月廿一日に至る八十二日間) 野中到
富士山の観測所における冬の自然の厳しさ
三歳のお子さんを郷里の父母に託して妻も登ってくるが、富士山頂の特有とも称すべき浮腫に冒されたりする。

 

知々夫(ちちぶ)紀行 幸田露伴

二百十日(抄) 夏目漱石
阿蘇山が舞台

西蔵旅行記(抄) 川口慧海(えかい)

尾瀬紀行 武田久吉

利尻山とその植物 牧野富太郎

木曾御嶽の両面 吉江喬松 

白峰の麓 大下藤次郎
甲斐の白峰を描こうとする画家

 

峠に関する二、三の考察 柳田国男
一 山の彼方
ビョルンソンのアルネの歌
諾威(ノルウェー)と日本の山の違い

二 たわ・たを・たをり
「たわ」「たをり」山の土の最も多く消磨した部分、鞍部

三 昔の峠と今の峠
昔の山越は深く入って急に越え、今の峠は浅い外山から緩く越える。

四 峠の衰亡
汽車は誠に縮地の術で、迂路とは思いながら時間ははるかに少なく費用は少しの余計で行く路があって見れば、山路に骨を折る人の少なくなるのは仕方ない。

五 峠の裏と表
表口は登りに開いた路。なるべく川筋の岸を行く
裏口は降りに開いた路。麓の平地に目標を付けておいて、それを見ながら下りる方が便。

六 峠の趣味
自分の空想は一つ峠会というものを組織し、山岳会の向こうを張り、夏季休暇には徽章か何かをつけて珍しい峠を越え、その報告をしゃれた文章で発表させることである。何峠の表七分の六の左側に雪が電車の屋根ほど残っていたなどというと、そりゃ愉快だったろうと仲間で喝采するのである。さぞかし人望のない入会希望者の少ない会になるであろう。冗談は抜きにして峠越えのない旅行は、正に餡のない饅頭である。
(柳田さんらしからぬ、諧謔に富んだ文章ですね。タモリさんの坂道学会を思い出しました)

 

越中劍岳先登記 柴崎芳太郎

穂高岳槍ヶ岳縦走記 鵜殿正雄

槍ヶ岳に登った記 芥川竜之介

赤城にて或日 志賀直哉

平ヶ岳登攀記 高頭仁兵衛

皇海(すかい)山紀行 木暮理太郎

日本アルプス縦断記(抄) 長谷川如是閑
針木峠という名は、神経に一種の刺激を与える響きを持っている。

 

山恋ひ(抄) 宇野浩二

欧州アルプス越え(抄) 加賀正太郎

アルペン行(抄) 鹿子木員信
宿屋で頼んだ朝のコーヒーの勘定書での欺きや、宿屋の者の他の客人に対する不親切と無礼から瑞西人に対し怒る筆者

スウィス日記(抄) 辻村伊助

火と氷のシャスタ山 小島烏水
筆者にとっては、アメリカで最も多く心を惹かれる山がシャスタ山