ダンテ その生涯(後半)

フィレンツェのダンテの家

10  政治 豪族と平民

ダンテが商売をほとんどしなかったのは、勉学に懸命に取り組んだことに加えて、遅くとも30歳前後にはフィレンツェの政治に積極的に参加するようになっていたからである。

ただ、政府のポストはプロの政治家にゆだねるのではなく、非常に多くの人間が交代で担当していた。

 

ダンテが評議会に参加するにはいずれかの組合に登録していなければならなかった。

彼は医者・薬屋・雑貨商のアルテに所属していた。このアルテはあらゆる種類の専門家や起業家たちを幅広く受け入れる、間口の広い組合だった。

 

11 政治 白派と黒派

ダンテのプリオーリに任期直前の月日が、神曲というフィクションの中で、ダンテ自身が「暗い森」に迷い込んだと宣言した月日に一致することを思い起こすのは、的外れなことだろうか。

政治活動にどっぷり浸かり、ほどなく事実かどうかかはともかく、横領、犯罪幇助、汚職の罪で裁判にかけられ、判決を受ける羽目になる。

 

ダンテが生きた時代のフィレンツェは、大普請の真っ最中でもあった。

 

12 追放

 

13 亡命者の家族

追放時にダンテは妻子をフィレンツェに残してきた。子供らは年齢からして亡命生活をさせるに忍びなく、一方、妻の身は安全だった。彼女は敵の党派を率いる有力な家と宴席関係にあったからである。

 

ダンテの妻は貴重品やダンテの原稿をおさめた金庫を修道院に移した。貴重品を修道士に預けて保管するというのは、フィレンツェの富裕層が反射的に考える自衛策だった。

 

ダンテは、もう一人の娘にベアトリーチェという名前をつけていた。

 

14 資産の行方

ダンテの妻は嫁資の権利を行使した。そのおかげで自分と子供を養うことができた。

 

15 悪い仲間

 

16 ヴェローナの謎

ダンテは人生最後の20年間を亡命生活で過ごした。この期間についてわかっていることは少ない。

 

ダンテは政治的コミュニケーションの手練れであり、その手腕を買い、報酬を払うものがいてもおかしくなかった。

 

17 改悛

仮説として、ダンテが亡命初期の最も長く、最も重要な期間をボローニャで過ごした、というものがある。

またトレヴィーノにも滞在していた、という説もある。

 

18 「他人の家の階段」

ダンテがパリに滞在していたという説もあるが、疑念を抱く研究者も多い。

フランスに行ったとしても、アヴィニョン教皇庁までと見る者が多い。

 

ボッカッチョはパドヴァ滞在にも言及している。

またルッカ滞在の可能性もある。

 

19 ハインリヒ7世

 

20 他人のパン

ハインリヒ7世死後の数年間は、ダンテの最も深い闇に深い闇に包まれている時期

 

宮廷人というのは、何よりもまず同席する客をもてなす術をわきまえ、他人の金で飲み食いする人間である。

 

21 ラヴェンナ

当時のラヴェンナは、イタリアで最も裕福な大司教の住み、大修道院がある、強大な宗教都市だった。また商業の中心地としても栄えていた。

 

ダンテの死因は、一般的には、沼地を旅している間に感染した急性マラリアと考えられている。

 

 

ダンテ その生涯(前半)

ダンテ その生涯 表紙

ダンテ その生涯

アレッサンドロ・バルベーロ 著

鈴木昭裕 訳

亜紀書房 発行

2024年2月3日 第1版第1刷発行

 

ダンテの謎に満ちた人生を、様々な説を挙げながら、詳しく述べています。

このブログでも紹介している清水廣一郎先生の本を読んでいたおかげもあり、公証人文書の大切さが改めて理解できました。

 

1 聖バルナバの日

1289年6月11日、土曜日、聖バルナバの日、カセンティーノ地方を行軍し、アレッツォ領に入ったフィレンツェ

この中に騎士、もっと正確にいえば、最前列に並んだフェディトーリ(斬り込み隊)の中に、詩人ダンテの姿があった。

 

2 ダンテと高貴さ

ダンテが貴族が否か、という問いに答えるのは容易ではない。なにしろ貴族という概念自体に正確な定義がないからだ。

 

3 カッチャグイーダとその他の人々

 1 アダーモの息子カッチャグイーダ

カッチャグイーダはダンテの高祖父

 2 曾祖父 アラギエーリ

 3 祖父ベッリンチョーネと息子たち

ダンテの父や祖父、叔父たちは高利貸だった。

 4「アリギエーリ一族」

 

4 ダンテ一族

 1 家紋

 2 アリギエーロの家族

 やたら男性の名前だけが出てくるのは、商取引や政治に関する資料から取られたから。

 嫁資の設定の手続きの経済的契約のおかげで、父親の結婚や妻の名がわかった。

 3 冒険人生 ベッロ弟脈の従兄弟たち 

 

5 子供時代と隣人たち

 1 誕生日と名前

 誕生日は1265年の5月という計算になる

 ダンテという名前はフィレンツェでは珍しい名前ではなかった

 2 「ターナとフランチェスコ

 姉妹の名前

 3 家とご近所

 ダンテが倒れた家、そしておそらく彼の生家だった家は、現在、ダンテの家と呼ばれる博物館がある場所がほぼそれに該当する

 

6 愛と友人

ベアトリーチェについて

 

7 教育

ダンテの時代、学校の先生たちは子供たちにあまり好かれていなかった。

 

当時の言語において「文法」といえば、それはラテン語を意味した。

 

ダンテの時代においても、男色が道徳的な非難を受けることがあっても、市当局や教会によって激しく迫害されることはなかった。

ブルネット・ラティーニ先生に神曲の地獄篇で会っている時の、ダンテの驚きと親しみ。

ブルネットが地獄の責めを受ける理由を弟子であったときには知らなかった可能性が高い。

(最近のジャニーズの創始者とそこのタレントみたいな関係か?)

 

ダンテが受けた教育のあゆみ

・家族が雇った学童教師。読み書きを教え、ラテン語の初歩を教えた

・文法教師が中級ラテン語や、他の自由学芸の基本を教えた

・青年期にブルネットから手紙や演説原稿の知識を得て、キケロと出会う

・20歳前後でボローニャで自由学芸の学部で修辞学を学ぶ

しかしボローニャでダンテが神曲の中で思い起こしているのは、ガリセンダの塔が傾いている側に立って空を見上げると、雲が通り過ぎるたびに、塔がこちらに向かって倒れこんでくるように感じられるという、観光客的な体験

 

8 結婚をめぐる謎

ダンテの結婚の事実を知ることができるのは、ダンテの死後、未亡人に彼の財産の所有権が移ったが、その権利を証明するために嫁資証書を提出しなければならず、そのデータが公証人によって書き写された。

 

嫁資の額は少なかったが、これは女性が自分よりも社会的地位の低い男性と結婚する場合、夫は慎ましい嫁資で満足するのが常だった。夫が手に入れる名誉は、それを補って余りある。

 

9 ダンテと事業

ダンテの父親は実業家だったが、彼がまだ十代のときに亡くなっているため、長男であるダンテが事業の処理を行わなければならなかった。

 

ダンテはそれなりの財産を持っており、一族の中では初めて不労所得で生活でき、貴族的な活動に従事する余裕があった。

 

 

柳田国男と民俗の旅

柳田国男と民俗の旅

松本三喜夫 著

吉川弘文館 発行

平成四年九月二十日 第一刷発行

 

Ⅰ 柳田国男の小さな旅

一 野火止・清戸への旅

野火止は現在の埼玉県新座市、清戸は東京都清瀬市

 

野火止では次の三つのテーマに話が及んだのでは?

・産業組合の問題

・土地改良の問題

・土地と小作の問題

 

柳田が清戸の強清水伝説(泉の水が酒だった伝説)に関心を寄せていった理由

・武蔵野の歴史究明への関心

・伝説研究への関心

 

二 内郷村への旅

大正七年(1918)、柳田国男が中心となって郷土会の会員と実施した相州内郷村(神奈川県相模湖町)の調査

 

柳田の内郷村農村調査は、今日では民俗学創世期の先駆的調査として位置づけられるが、柳田の気持ちの上では、まだ民俗学を意識しておらず、むしろ依然として農政学の展開を考えていたといえる。

 

柳田は内郷村の正覚寺を離れるにあたって、「山寺や葱(ねぎ)と南瓜(かぼちゃ)の十日間」という句を詠んだ。

調査期間中の食事の内容を詠んだものだが、そこには現代文明に浸潤される山村姿があり、食糧問題があった。

 

三 対馬への旅 漂着の島

柳田の対馬に関する記述は、朝鮮人の往来、猪の泳力、方言の分布、漂着神、うつぼ伝説、巫女とその関心事のいずれもが海に関りを持ち、漂着、あるいは漂泊という視点から見据えている。

 

Ⅱ 柳田国男の大きな旅

一 椎葉村への旅と『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』の世界

柳田が実際に椎葉村の農業を見て、新たに関心を惹起されたのは、椎葉村は山間部にあるがゆえに平地が少ないにもかかわらず、水田耕作に力が入れられていることであった。

椎葉村焼畑を主としながらも米作を志向している農民の姿は、平地的米作一辺倒への画一的農政や農政の自律的営みを無視していることへの疑問と不信を意味していた。

 

柳田は焼畑農業に関心をもって椎葉村を訪れたが、中瀬淳の影響もあって次第に椎葉村に伝わる狩猟の習俗に心を奪われていった。

 

柳田の椎葉村への旅は、新たな農政学への有り様に思いを巡らされるとともに、民俗学模索への始まりを意味していた。

 

二 附馬牛村への旅と『遠野物語』の風景

遠野物語では、主として上閉伊郡の村々が昔話の対象になっているが、この稿では、陸中の霊峰早池峰山の南面に広がる附馬牛村を対象とする。

 

『老媼夜譚』は佐々木喜善辷石(はねいし)タニという老婆から聞いた話をとりまとめた作品である。

辷石タニはそこに書かれた昔話の他に、まだ沢山の話を知っていたが、「タニは近頃喋ることを嫌った。喜善が自分の話を取り纏めて金儲けをしていると噂する者がいた」からだった。

 

Ⅲ 柳田国男と今昔の人々

一 岡田武松と柳田国男 『北越雪譜』と『利根川図志』

北越雪譜』は越後塩沢の商人鈴木牧之の手に成り、天保六年(1835)に初編発行

この中で、日常茶飯事的に繰り返される雪との戦い、雪の中の人々の生活を描く。

 

安政五年(1858)赤松宗旦が『利根川図志』を著す。

 

この二書がほぼ時を同じくして岩波書店から刊行される。

北越雪譜は昭和11年刊行で、校訂は気象学者の岡田武松が行う。柳田の大きな助力が想定される。

利根川図志は昭和13年刊行で、校訂は柳田国男が行う。岡田の北越雪譜が大きな影響を与えた。

 

二 早川孝太郎柳田国男 『大蔵永常』考

早川孝太郎が大蔵永常をまとめあげる。

 

三 菅江真澄柳田国男 高志路の旅

菅江真澄の旅の中で空白になっている高志路(今の新潟県)の動向について

 

パリ時間旅行 鹿島茂 著 (後半)

マルヴィルの写真集表紙

Ⅲ 写真、スポーツ

マルヴィルのパリ

現在のパリの街並みは1853年頃から約20年ほどのあいだに、旧来の街並みを人為的にすべて破壊したうえで、綿密な設計図に基づいて建設されたもの。

カルチェ・ラタンやマレ地区に一部過去の街並みが残っているだけ。

 

失われたパリを写した写真家、ウジューヌ・アジェ

彼の作品は大改造後の世紀末からベル・エポックにかけての二十世紀のパリ

 

シャルル・マルヴィルの作品がバルザックユゴーのパリ、つまり大改造以前の失われたパリを残している。

 

パリ民衆の反抗精神に対してナポレオンⅢ世のとった方法

・中心部と東部の人口密集地区を街区ごと破壊し、ここに大砲を通すことのできるような広い真っすぐな道路を通す

・街はずれに健康的で清潔な低家賃の労働者住宅を建設し、ここに労働者を送る。

 

マルヴィルは、当局の指示に従って、取り壊しの決まっている通りを両端から、工事前、工事中、工事後というように、三段階にわけて撮影している。

当局は工事後の写真を強調したかったが、後世は工事前の写真を賞賛した。

 

オスマンの言う通り、もし、パリが改造されずに、現在も中世そのままの姿で残っていたら、ヴェネツィアのように旧市街は観光客専用として自動車乗り入れ禁止に出もしない限り、都市としては機能しなかっただろう。

しかしマルヴィルに写真を撮らせたことは、オスマンの失策ではなかったか。

 

写真の感動的な点は、しんと静まり返った光景の中に、ぽつんと見える人影である。

 

著者の完全な推量では、もしかすると、マルヴィルはバルザックの《人間喜劇》の熱心な読者ではなかろうか。

バルザックが様々な小説の中で取り上げている路地が、マルヴィルの撮影しているそれとあまりに見事に符合している。

 

 

フランスのスポーツ

普仏戦争の敗北で、フランスも近代的な身体訓練つまり体操を軍隊や学校に積極的に導入しようとした。

 

スポーツを巡る19世紀末の言説

・フランスの軍隊式体育をイギリス風の自由なスポーツ精神によって打破しようとする左派(自由派)

・自我、克己心、民族、祖国などの価値を高めるためにスポーツを利用しようとする右派(国粋派)

 

クーベルタンは第一回オリンピックを1900年のパリ万博に合わせてパリで開催しようと考えたが、間が空きすぎるということで第一回大会はオリンピック発祥の地アテネで行われ、大成功をおさめたが、パリでの第二回はほとんど話題を呼ばなかった。

当初の目論見どおり、第一回がパリで行われていたら、現在オリンピックは存在しなかったかもしれない。

 

日本と違ってフランスの自転車レースはトラックではなくツールドフランスなどのロードレースが主体となっている理由

・古くから長距離の乗合馬車が運航していたおかげで都市間の道路が舗装されていた

・国土が平坦で起伏が乏しい

・自転車は都市生活者が広々とした田園に出てきれいな空気を吸い込むための道具という考え方が根底にあったので、わざわざ狭い競輪場に閉じこもってレースをするという発想が生まれなかった

 

ラグビーは1890年頃イギリスから輸入、1910年創設の五か国対抗の人気の高まり同時にプロスポーツ化が進んだ。

 

サッカーも同じ頃イギリスから導入されたが、その手軽さから現在も国技といえるほどの人気と競技人口をもっている。

 

あとがき

パリという街は、過去と現在が理想的な形で混在している特権的な都市

ヴェネツィアのように過去がそのまま手つかずの状態で残っているわけでもなく、かといって東京のように過去が痕跡もとどめていないというのでもなく、いわば過去と現在が幸福に絡み合って、過去再構築の欲望を喚起してやまない時間のモザイク都市。

 

パリ時間旅行 鹿島茂 著 (前半)

パリ時間旅行 鹿島茂 著 表紙

パリ時間旅行

鹿島茂 著

筑摩書房 発行

1993年6月1日初版第1刷発行

 

この本では、パリの中に穿たれた、パサージュ、街灯、あるいは単に光、音、匂いなどというタイム・トンネルを通ってこの時間都市に旅をして、たっぷりと十九世紀の空気を吸い込んでいくことを目的としている、とのことです。

 

Ⅰ パリの時間旅行者

パリの時間隧道(パサージュ)

パリの建物は条例により高さが地域で一定している。そのせいか、屋根裏部屋の窓から眺めるとほとんど視界を妨げるものがない。

 

パサージュというのは、通りと通りを結ぶ一種のアーケードの商店街で、十八世紀の末から十九世紀の前半にかけて建設された鉄とガラスの建築

パリのパサージュはどれもいたって小規模で、しかも、例外なく寂れきっている。そして、その寂れ方が尋常ではないのである。それこそ、寂れ寂れて百五十年、というように、寂れ方にも年期が入っている。

 

パサージュは十九世紀の化石だが、左岸ではパサージュはすでに全滅している。

 

パレ・ロワイヤルの寂れ方は、パサージュ以上である。

パレ・ロワイヤルは十九世紀の古戦場である。とにかく、ここには人間の気配すら感じられない。

(この中庭で、のんびり昼休みを過ごしたのは懐かしい思い出です)

 

ボードレールの時代への旅

1853年はボードレールの時代のパリ

 

ベル・エポックの残響

1910年の初め、『失われた時を求めて』の執筆に全力を注ぐことを決意するプルースト

 

当時のガラクタ市を訪れた骨董好きが薄汚れたバイオリンを数フランで買ったが、のちにそれはストラディヴァリウスであることが判明した。

この噂が立って以来、パリ中の人間たちが、さながらゴールドラッシュのように、クリニャンクール門やモンスール門に立つ蚤の市に押し掛けた。

 

ラムウェイは、最初、二階建ての大型乗合馬車を軌道に乗せて、これを馬が牽引する鉄道馬車の形をとっていたが、やがて動力は蒸気や圧縮空気に、ついで電気に変わった。

 

Ⅱ パリの匂い、パリの光

香水の誕生あるいは芳香と悪臭の弁証法

 

清潔の心性史

 

パリの闇を開く光

固定した公共照明がパリに出現するのは、1667年、太陽王ルイ14世が、絶対王政の象徴として二千七百個のランテルヌ灯の街灯設置を命じたときのことである。

ランテルヌ灯はガラスをはめた角灯に一本の蝋燭がともされてるだけの照明

 

1760年頃、あらたにれレヴェルベール灯という灯油ランプによる街灯が発明される。街路をまたいで両側の建物の間に張られた綱の中央に吊るされてた。

 

パリの街路照明に革命をもたらしたのは、1830年頃から公共用街灯として用いられるようになったガス灯である。

 

灯柱はガス灯がレヴェルベール灯に取って代わった時に初めて登場した。

レヴェルベール灯は灯油だったので、ランピストと呼ばれる点灯夫が、毎日一定量を給油していたのだが、ガス灯では、ガス工場で製造したガスを地下のパイプを通して常時ランタンまで運んでいた。そのため灯柱が必要となった。

そして電気照明になっても灯柱が必要となるため、そのままパリ風景が残った。

そしてパリの夜が味気ない蛍光灯で照らされずにすんだ。

 

陰翳礼讃あるいは蛍光灯断罪

 

ミステリー「モーツァルトの馬車」

17世紀の中頃までは、都市交通に最も必要な二つのものが決定的に欠けていた。

・整備された舗装道路

・人間が安楽に乗ることのできる馬車

舗装道路は、17世紀においては、ローマ時代よりはるかに劣っていた。

 

18世紀、馬車もスプリングが改良された。

 

もし、モーツァルトが二十年早く、18世紀の前半に生まれていたら、あれだけの大旅行が物理的に可能だったかどうか。

また、モーツァルトが二十年遅く生まれていたら、石版印刷の出現で楽譜の出版による印税が可能だったから、モーツァルトほど旅行する必要がなかった。

 

モーツァルト親子が残した膨大な書簡は、18世紀後半のヨーロッパ社会を理解する上で、またとない一級の資料となっている。

 

18世紀後半の旅行手段として可能だったもの

・川船

・自家用馬車

・貸し馬車

・駅逓馬車(駅馬車

郵便馬車

 

馬車というと、御者と馬が自動的に付いているものと考えるが、これは駅逓馬車のような乗合馬車以外にはありえず、普通は自家用馬車でも貸し馬車でも、馬と御者のセットを宿駅ごとに雇わなければならなかった。

 

貸し馬車は寒さがひどかった。また、安全性もなかった。

 

駅馬車は乗り心地が最低だった。

 

郵便馬車は19世紀の前半には旅客輸送の一翼を担うことになるが、少なくともまだフランスでは、モーツァルトの時代には、郵便の配達が専門で旅客は乗せていなかったようだ。

したがって、モーツァルトの手紙によく登場する「終わりにしなくてはいけません。郵便馬車が出発します」という言葉は、郵便馬車に乗るのではなく、手紙を郵便馬車に託すという意味なのではないか。

 

ジョイス博物館の謎の旗(アイルランド)

ジョイス博物館とマンスター州の旗

マンスター州の旗

最後にジョイス博物館の裏から写真を撮っていました。

よく見ると青い旗がはためいています。

最初はEUの旗かなと思ったのですが、確認するとアイルランドのマンスター州の旗でした。

マンスター州は南部地域で、この旗のある地域のレンスター州とは異なります。

なぜここにその旗なのか、理由はよくわかりません。

wikiによると、今のレンスターのハープの紋章が現れる前は、アイルランド全体を象徴する徽章であったということなので、古いアイルランドを象徴する旗という意味があるのかもしれません。

 

最後に現地の日本語パンフレットからユリシーズについて述べている箇所を引用します。

 

ユリシーズはタワーで有名ですが、書き出しの場面はタワーの頂上から「威厳のある、しかし、ずんぐりした」“ボック・マリガン”が階段を下りてくるところから始まります。彼が髭を剃っている時スティーブン・デダルスが現れ、亡くなった母親の事を未だに嘆いているスティーブンをボック・マリガンは嘲笑います。第一章はボック・マリガン(ゴガティ)、スティーブン・デダルス、英国人のハインツ(トレンチ)が円形の部屋で朝食をとっている描写が続きます。この描写は、ゴガティや彼の友人、賃貸料に関する資料などから、ユリシーズの場面を再現することができます。

カラー新版 地名の世界地図

カラー新版 地名の世界地図 表紙

カラー新版 地名の世界地図

21世紀研究会編

文藝春秋 発行

文春新書1269

2020年9月20日 第一刷発行

 

世界の地名の起源について述べられています。

メモしてもきりが無いので、ひとまず見出しだけでも載せておきます。

 

序章 外国語地名との出会い

福沢諭吉が著した『世界國盡』

 

第1章 「自然」が生み出した地名

 

第2章 地名は古代地中海から

 

第3章 地名を変えたゲルマン民族の大移動

 

第4章 スラブ人たちの故郷

 

第5章 大航海時代が「世界」を発見した

 

第6章 モンゴルが駆けぬけたユーラシアの大地

 

第7章 ユダヤの離散とイスラームの進撃

 

第8章 アメリカ――新しい国の古い地名

 

第9章 アフリカ「黒い大地」の伝説

 

大索引 国名・首都名でわかった地名の五千年史