遠野の昔話 佐々木喜善 著

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遠野の昔話 佐々木喜善 著 表紙

 

遠野の昔話
佐々木喜善 著 
山田野理夫 編・散文詩 
宝文館出版 発行・写真
昭和63年5月20日 初版第1刷発行

岩手郡昔話
陸中国岩手郡の昔噺(童話)や口碑伝説

遠野郷の旅びとへの挨拶は猿が石川の早瀬だ。水野葉舟柳田国男、N.ネフスキー折口信夫桑原武夫も挨拶をうけた筈だ。

和賀郡昔話
佐々木の家内の幼時の記憶と、東奥古伝(一名吾妻昔物語)のうちから、和賀地方に縁のある話だけを採ったもの

胆沢郡昔話

鳥虫木石伝
岩手県紫波郡の口碑

 

遠野手帖
一片(ペニイ)ばかりの智慧
独逸の未知のHans Friedrick Rosenfeldという人から突然に一封の手紙をもらった佐々木さん。
英国では「一片ばかりの智慧」として知られている話
Komaki氏から、日本に於いてもまたある物語として知られているが、それが日本に起源を有するものか、欧州の翻訳であるか記憶せず。
独逸にまで名声高き佐々木さんもこの物語を聞いたことがない。自分が蛍の光ならちょうど太陽のように名声高き南方先生に聞いたらどうかという返事を出した佐々木さん。

縁女綺聞
人間の娘と馬や蛇などが交わった話など
(話の内容故やたら…が多い。性の話を書かなかった柳田国男の高潔さを改めて感じた)

佐々木喜善小伝
神田ニコライ神学校でロシア語、そして当時秋田雨雀などのエスペラント語運動に加わり、エスペラント語の学習を始めた。エスペラント語は柳田の勧めもあった。p309

 

フランス大統領選挙第1回投票の結果

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フランス大統領選挙第1回投票の結果

フランス大統領選挙の第1回投票が終わりました。

BBCの記事からです。

 

ポール・カービー、BBCニュース、パリ

フランス大統領選の1回目の投票が10日あり、現職のエマニュエル・マクロン大統領が首位に立った。2位には極右のマリーヌ・ル・ペン氏がつけ、両者は24日、この顔合わせとしては前回に続いて2度目となる決選投票に臨む。 開票率97%時点の得票率は、マクロン氏が27.35%、ル・ペン氏は23.97%、ジャン=リュック・メランション氏は21.7%となっている。 候補者12人のうち、10%を超えたのはこの3人だけだった。多くの有権者は、他の9人について決選投票に進む望みはないと判断し、「戦略的投票」(または「有益な」投票)という考え方を取り入れたとみられる。 マクロン氏は歓喜の声を上げる支持者らを前に、「間違ってはいけない、まだ何も決まっていない」と強調した。 マクロン氏は明確な差をつけて1回目投票に勝利したが、世論調査では、決選投票は接戦になると予測されている。 ル・ペン氏は、マクロン氏に投票しなかった有権者らに対し、「フランスの秩序を回復する」ために自分を支援するよう呼びかけた。

 

極左キングメーカー

極左のベテラン候補メランション氏は、5年前より得票を伸ばした。その結果、決選投票を左右する「キングメーカー」という、似つかわしくない役割を担っている。 「マリーヌ・ル・ペンに1票たりとも投じてはならない」と、メランション氏は支持者らに警告した。ただ、他の候補者らと異なり、マクロン氏を支持もしなかった。 メランション氏に投票した人は、全投票者の5分の1以上を占める。決選投票の行方を決める立場だが、単純に棄権する可能性もある。 今回の大統領選は、フランスを動かしてきた歴史ある2政党、共和党社会党にとって散々な結果となった。どちらも候補が泡沫のような負け方を喫した。パリ市長で社会党アンヌ・イダルゴ氏は得票率が2%に届かなかった。

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フランス大統領選挙における共和党系候補の得票率

 

右派・共和党ヴァレリー・ぺクレス氏も5%を下回った。候補者の得票率が5%に届かなかった政党は、国庫から選挙費用として80万ユーロ(約1億円)しか受け取れない。共和党はそれよりかなり多い額を自前で負担することになる。

 

■決選投票に向けてスタート

これから票の争奪戦が本格化する。 ル・ペン氏は、自らよりも強硬な国家主義者のエリック・ゼムール氏を支持した人たちの票を期待できる。同氏は7%を得票し4位に入った。 国家主義者ニコラ・デュポン=エニャン氏もル・ペン氏を支持している。これらの候補者の票を合わせると、得票率はすでに33%に上る。 一方、マクロン氏の陣営は、いくつかの大規模集会と大々的なテレビ出演を予定している。 左派候補たちの多くに加え、ぺクレス氏もマクロン氏を支持している。ただ、社会党候補として過去に1度だけ大統領選に出たセゴレーヌ・ロワイヤル氏は、マクロン氏について、今回は勝利を「つかむ」必要があると述べた。 仏世論調査会社IFOPは、マクロン氏が51%、ル・ペン氏が49%を獲得すると予測している。同社のフランソワ・ダビ氏は、これまでにない接戦だとしている。 仏テレビ局BFMTVの世論調査マクロン氏52%、ル・ペン氏48%と予測。仏調査会社イプソスの世論調査は、両者の差がさらに広がるとしている。

 

マクロン氏の演説

マクロン氏は支持者らを前に、ほっとした表情を見せた。そして、決選投票に向けて、これまでより選挙活動に力を入れると支持者らに約束した。 ロシアがウクライナで起こした戦争に多大な関心を払ってきたマクロン氏は、つい8日前に選挙活動を始めたばかりだった。 「あらゆる形で極右がこの国の多くを代表している現状では、物事がうまく行っているとは思えない」とマクロン氏は演説。 ル・ペン氏に投票した人たちについては、「今後数日のうちに、私たちのプロジェクトがその人たちの不安とこの時代の課題にしっかり答えるものだと納得させたい」と述べた。

 

■ル・ペン氏は選択迫る

これに対しル・ペン氏は、「偉大な転換」の時を迎えていると主張。4月24日に2つの正反対の考え方に関して、根本的な選択をすることになるとし、「分断と無秩序か、社会正義が保証されたフランス国民の団結かだ」と述べた。 ル・ペン氏は、ヨーロッパの多くの人が直面している生活の苦しさを中心に、選挙戦を繰り広げてきた。減税と30歳未満の所得税の免除を約束している。ナショナリズムは前面に出していないが、移民規制、欧州連合EU)の抜本改革、イスラム教徒による公共の場でのヒジャブ着用について、国民投票を実施したいとしている。 今回の大統領選は、投票の2週間ほど前になってやっと関心が高まった。新型コロナウイルスの流行と、ロシアによる戦争のためだった。投票率は、春の日差しのおかげもあって懸念されていたほど低くならず、75%ほどだった。

 

■ル・ペン氏とロシアの関係

マクロン氏の演説からは、彼が今後、ル・ペン氏とロシアの関係の濃さを批判することが明らかだ。ル・ペン氏はロシアのウラジーミル・プーチン大統領を非難しているが、前回大統領選の前にはプーチン氏を訪ねており、彼女の政党もロシアから融資を受けていた。 仏調査会社エラベの世論調査では、若い世代の有権者の4人に1人がマクロン氏を支持した。一方で、18~24歳の3人に1人以上がメランション氏を選んだ。 ル・ペン氏は35~64歳の有権者で最も支持が多かった。マクロン氏は65歳以上の人々の支持を得た。 (英語記事 Macron and Le Pen to fight for French presidency)

 

(決選投票では、基本的にはマクロンさん優位だと思いますが、争点が中道VS極右ではなく、富裕層VS貧困層や、既存勢力VS新興勢力のような見立てになってしまえば、ルペンさんの勝利もなきにしもあらず、という感じです)

 

 

 

カント先生の散歩 池内紀 著

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カント先生の散歩 池内紀 著 表紙

 

カント先生の散歩
池内紀 著
潮出版社 発行
2013年6月20日 初版発行

以前、池内さんの「消えた国 追われた人々 東プロシアの旅」という紀行文を楽しく読ませていただきました。その東プロシアから一歩も出なかった哲学者カント。自分は名前だけは知っていても、思想は全く知りません。それでも彼の半生をユニークなエピソードを織り込みながら、平易な文章で描いたこの本も興味深く拝読することが出来ました。
大学での争いや老いの描写は、池内さんの経験も反映されているのかと思うと、読んで切なくなる箇所もありました。

 

私のカント先生の紹介
1724年4月22日、革具職人の息子として、東プロシア(プロイセン)の首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれる。
1747年(23歳)ケーニヒスベルク大学卒業
1770年(46歳)ケーニヒスベルク大学哲学教授となる
1781年(57歳)『純粋理性批判』を出版。その後88年に『実践理性批判』、90年に『判断力批判』を刊行。
1795年(71歳)『永遠平和のために』を出版。 
1804年2月12日、79歳で死去。
p4

第二次世界大戦の終わりまで、たしかに東プロシアは実在したし、ケーニヒスベルクという美しい町があった。歴史の長さでは、
ケーニヒスベルク 約700年
カリーニングラード 約70年
p13

 

カントがイギリス商人であるジョゼフ・グリーンを知ったのは40歳頃と言われている。グリーン家を訪問し、議論した。
敏腕の商人は世情によく通じ、最新情報をいち早く手に入れていた。
カントについては、ひたすら哲学的思考の人と見られがちだが、まるきり違っている。名うての商人から口伝えに、刻々と変化する現実社会を知らされ、最新情勢に基づいて「先を読む」コーチを受けていた。ディスカッションという個人教育を通して、厳しい訓練にあずかった。
またカントはグリーンの商会に投資し、相当の資産を蓄えることができた。p45

カントは俗にいう「遅咲き」の人だった。46歳にして、ようやく母校ケーニヒスベルク大学哲学科教授になった。主著は57歳、64歳、66歳にして世に問うた。
また住居に関しても遅咲きで、自宅を入手したのは59歳の時だった。

 

カント先生は旅行記が大好きで、自分はケーニヒスベルクからほとんど出ず、東プロシアからは一歩も出たことがなかったが、他国のことをよく知っていた。とりわけイギリスに詳しく、ロンドンの通りや広場や橋を、まるで昨日ロンドンから帰ってきたばかりのように言うことができた。p56

ゲーテの『ファウスト』第二部出だしの「玉座の間」では、皇帝を囲んで幹部たちが頭を抱えている。国庫が底をつき、もはやなすすべがない。このとき天文博士の口を借りて悪魔メフィストフェレスが、とっておきの「錬金術」をささやきかける。手っ取り早い金の作り方。いたって簡単であって、新しい紙幣をどしどし出せばよろしい。p113-114
(現代のどこかの国のような話ですね)

目的をとげさえすれば、圧倒的な力に対して膝を屈しても不名誉ではない。そもそも膝は、ときに折り曲げるためにある。p136

 

オーセールのサン・ピエール教会

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オーセールのサン・ピエール教会のファサード

画像はオーセールのサン・ピエール教会です。
ファサードの形状が、フランスの聖堂に慣れた目からするとユニークに感じました。
オーセール市のHPによると、「ルネッサンスが感じられる17世紀の古典様式のファサードに由来しています」とのことです。
その一方、後ろの塔はフランスでは見慣れたゴシック様式です。
この教会の周辺地区にはワイン生産者と肉屋の同業組合があり、教会にはそれらの守護聖人である聖ヴァンサンとSaint Cartaud(Cartault?)の彫像があるそうです。

ワインとお肉という、グルメにもありがたい存在ですね。

Diocèse de Sens & AuxerreのHPから、サン・ピエール教会の歴史をたどってみます。
6世紀
修道士の建物が設立される
887年
サラセン人に略奪される
910年頃
ノルマン人に略奪される

11世紀末
修道院の周りに新しい地区が設立され、川でのワイン取引の発展と都市の復興に引き付けられてオーセールに集まったワイン生産者と職人が住む
1107年
修道院は聖アウグスティヌス修道会の正式な司教座聖堂参事会員に託される
1169年
修道院が建てられる
1174年
教皇アレクサンデル3世によって認められる
1567年
ユグノー(16-17世紀のカルバン派新教徒)によって荒らされる
16世紀末から1672年
ルネッサンス式教会を再建する
1789年
司教座聖堂参事会員が5人だけになる(大革命の影響か)
1793年
修道院は廃止され、礼拝が禁止されていた教会は硝石工場に変わる
1801年
(ローマ教皇との)政教条約とともに、サンピエールは再び小教区になる
1862年
歴史的建造物に指定される
1940年6月、1944年6月と7月
爆弾が内陣と南の歩行者用窓のステンドグラスの窓を損傷
21世紀
すべての修道士の建物の発掘調査が行われる

 

こうしてまとめて見ると、この教会もサラセン人、ノルマン人、ユグノー、大革命、世界大戦など、歴史の荒波を乗り越えてきたことが、よくわかります。

 

椅子の上のにゃんこ

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椅子の上のにゃんこ

うちのにゃんこです。

最近は、この椅子の上がお気に入りです。

感触が良いからでしょうか?

ふにゃ、ここもワタシのテリトリーなのにゃ

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眠くなってきたにゃんこ

ふにゃ。ちょっと眠くなってきたのにゃ

 

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寝てしまったにゃんこ

やっぱりここでも寝てしまいました。

まあのんびりしてくれたらいいよ。

 

柳田国男の見た菅江真澄 日本民俗学誕生の前夜まで

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柳田国男の見た菅江真澄 表紙

 

柳田国男の見た菅江真澄 日本民俗学誕生の前夜まで
石井正己 著
三弥井書店 発行
平成22年9月7日 初版発行 

三河に生まれた菅江真澄(1754~1829)
その後半生を旅に暮らす
信濃に滞在した後、出羽・陸奥、そして蝦夷地まで歩き、『真澄遊覧記』と呼ばれる克明な記録を残す
神社・仏閣だけでなく、年中行事や民間信仰に関わる庶民の暮らしを記録 

柳田国男は菅江の内閣文庫の蔵書を読み、秋田図書館を訪ねて著作目録を作る。そして昭和2年から昭和5年の講演など、本書は柳田の情熱が集中した時期に焦点を当てている。

 

遠野物語に出てきた『外国』
献辞の『この書を外国に在る人々に呈す』
そして106話で「海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ。常に外国の景色なりと云ふ」
山田と「外国」は深いつながりがあったのでは。
昭和2年の『老媼夜譚』89番塩吹臼より
「‥若い時分には山田港に入ったロシヤの船などに出入りしたりして、世間の広い人であった」
山田港はロシアと日本を結ぶ出入口だった。p24-25

遠野物語に出てきた「西洋」
27話の頭注「此話に似たる物語西洋にもあり偶合にや」と疑問を持っている。『グリム童話集』の「29 金の髪の毛が三本ある鬼」では?
84話 江戸末期でも、ロシアをはじめ北方とのつながりは、我々が鎖国という先入観で見てしまう以上に、かなり盛んだったよう。p26-27

 

柳田が行った菅江真澄研究の現れ方
第一期 明治・大正期 文庫・旅行における調査 
第二期 昭和初年代  講演・執筆と『真澄遊覧記』刊行
第三期 昭和10年代  『菅江真澄』刊行と旅行
第四期 昭和20年代  自著の挿画と書き入れ本
p164

柳田の云う郷土研究の三つのやり方
旅人が目で見て調べられるもの
一定期間滞在する寄寓者が目で見、耳で聞いて調べられるもの
そこで生まれた人でなければできないもの
菅江真澄は寄寓者には近いかもしれないが、違う。
一番近い民俗学者宮本常一かもしれないが、それでも民俗学者は誰も真澄にはなれなかった。p174-175

 

ヨーロッパの都市はなぜ美しいのか

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ヨーロッパの都市はなぜ美しいのか 表紙

 

ヨーロッパの都市はなぜ美しいのか
佐野敬彦 著
平凡社 発行 
2008年3月10日 初版第1刷

Ⅰ イタリアの丘の町 
南イタリアギリシャ植民都市の特徴は、整然とした規則的な格子状の道路の構成だった。それは彼らの国家体制、つまり民主的で平等の観念に基づくものだった。

丘上都市の美の第一にあげる特徴は、上下に延びる垂直感
第二に丘上都市がおもしろいのは錯綜した平面、つまり道路や広場といった公共の場が直線で区切られた単調なものではなく、複雑な形を見せて迷路の楽しさを味あわせてくれる。
(自分の乏しい体験では、シエナがそのような街だった)

丘の上の町では、秩序の美、比例の美が基底にあって、それを打ち破って自由な形に崩している。この無意識的というか、自然な感性のほとばしりをイタリア語でスポンタネイタという。スポンターネオはその形容詞。スポンターネオ感覚が地中海地域の造形をつくっている。

木造の建物では柱や梁を直角に結合するので、建物は直角の角度の規則的なものになる。鉄骨コンクリートの場合も同様である。しかし石やレンガを手で積む壁構造では道や地形に合わせてどんな角度にもつくることが容易である。こうしてキュービックな建物が変化に富んだ表情を見せてくれる。p54

 

Ⅱ 広場という快楽

Ⅲ 彫刻と水の詩 ローマの噴水

Ⅳ ルネサンスのある修道士の環境美術
15世紀末から16世紀初めの絵画で、寄木細工の手法でつくられる寄木画で絵画のような平面的な表現
その寄木画を専門としたイタリアの修道僧、フラ・ジョヴァンニ・ダ・ヴェローナ(1457か58~1525)

人間を取り巻く環境としての風景は二つのものに区別される。一つは人間がつくった環境である都市の風景。もう一つは自然の風景

フラ・ジョヴァンニこそ都市風景画も田園風景画も数多く制作し、近世の風景画の先駆者だった。しかし通常の絵画ではなく、寄木画という特殊な工芸的なものであったために美術史家は認めず、17世紀のフェルメールらオランダ人たちに風景画の始祖の名を与えているが、対象への意識の点からいえば、フラ・ジョヴァンニが先行した。p150

楽器という不可解なテーマ
小さな非宗教的楽器で、多くのものは壊れている。
考えられるのはフラ・ジョヴァンニの音楽好きと、この官能的な音楽を生み出す楽器を遠ざけるといった意味を表すことであり、つまり愛好とその否定の二重のコードをもった存在であったのかもしれない。p156
(ゲーテが激賞したラファエロの「聖チェチリア」を思い出した。下側に壊れた楽器があり、聖チェチリアは上部に描かれた天使の歌声を聴いている)

 

Ⅴ 人間の道、パリのパッサージュとヴェネツィアの小路

Ⅵ バロックからアール・ヌーヴォーに至る曲線感覚

Ⅶ アール・ヌーヴォー時代のパリの環境
アール・ヌーヴォーの闘いは常に官学派の古典的な形の感覚に対するものだった。それは石の建築だった。鉄は引っ張る力に強いため、石に比べれば、はるかに細い柱で空間をつくることができた。こうして建築は軽快さとリズムを持つことができるようになる。これこそ二十世紀の感覚であったわけで、近世と近代の違いである。p194

 

Ⅷ アール・ヌーヴォー都市ナンシーの建築的環境
1871年の対プロシャとの戦争(普仏戦争)の敗戦の講和条約で、ロレーヌの大半はドイツ領となった。ナンシーはフランス領に残り、ドイツとの国境は町から25キロほどのところに置かれた。アルザスはすべてドイツ領となった。この時、住民たちは国籍を自ら選ぶこととなり、フランスを選んだ人たちは故郷を捨てて、フランス領内に移住した。ナンシーにはこうしてロレーヌ人、アルザス人の多くの人が集中し、にわかに人口が増加した。
1877年のナンシーの成人(二十歳以上)の約45%が独身だったことで、これから見てもナンシーは若者の町だったわけで、今日の落ちついた町よりも、はるかに活気があったに違いない。p209-212

Ⅸ アール・デコの装飾する建築

Ⅹ イタリアの近代建築の夜明け

ⅩⅠ 環境デザイナー、エットレ・ソットサス