フランス文化と風景(下)16世紀から現代まで 第Ⅰ部

フランス文化と風景(下)16世紀から現代まで 表紙

 

フランス文化と風景(下) 16世紀から現代まで

ジャン=ロベール・ピット 著

手塚章・高橋伸夫 訳

東洋書林 発行

1998年7月25日 第1刷発行

 

第Ⅰ部 実用主義の時代(続き)

第一章 ルネサンス時代の「擬古代」的都市建設

十五世紀のイタリアは、建築と都市建設の分野に革命的な変化をもたらした。

しかしフランスは都市建設の実態も、またその根底にある都市建設の理念も、依然として中世的なままにとどまった。

この時期のフランス建築を特徴づけたフランボワイヤン様式は、本質的にはゴシック様式を発展させたものである。p2

しかしイタリア戦争によって、このような状況は一変する。シャルル八世は、イタリアでの戦いから1495年にフランスへ帰国したが、王自身と彼に随行した貴族たちは、新しく様変わりしたイタリアの都市に触れて、みな驚嘆の念にかられていた。p3

 

十六世紀前半という時代は次のように要約できる。

フランス人は新しい様式を発見し、同化しようと努力した。

そしてイタリア人は情報をもたらし、求めに応じて建築した。

また、中世の様式が否定されたわけではなく、この時代を通じて健在だった。p5

 

直線的な街路とパースペクティブに対する十六世紀初頭の関心は、美的な面と政治的な面という二重の意味合いをもっていた。

それは君主制と密接に結びついており、国王は自分の尊厳をたくみに表現できる新しい様式を求めた。p10

 

イタリアに発想の源があるにもかかわらず、ルネサンス様式の建造物は、イタリアの隣接地域でほとんど見ることが出来ない。その理由は単純で、宮廷の主要な有力者がフランスの北部と西部の出身者ばかりだったからである。p11

 

大聖堂には個人の刻印がほとんど感じられない。大聖堂の建造には、寄贈や労働という形で全ての人々(国王、司教、領主、ブルジョワ、職人そして農民)が参加していた。

これとは対照的に、ルネサンス期の大事業は、有力な個人がみずからの栄光を誇示するために企てられ、有力者たちは著名な建築家の庇護者を演じた。p13

 

第二章 古典主義時代の都市計画

十七世紀のフランスが生み出した代表作ヴェルサイユは、イタリア・ルネサンスの流れに深く根差していた。

たとえば、宮殿の前面に位置するアルム広場と、そこから放射状にのびる三つの大通りは、十六世紀初頭にローマ法王ユリウス二世が建設したポポロ広場と三本の大通りによく似ていた。p44

 

この時期で特筆すべきことは、ルネサンス期以来の傾向が逆転したことである。

フランスは、もはや外国から受容する立場ではなくなった。フランスは、外国に輸出する立場に転じたのである。p46

ヨーロッパの各地にヴェルサイユ風の宮殿と市街が建設された。p47

 

第三章 フランス近世の田園地帯

森林の危機は、まず十六世紀におとずれた。

その背景には、土地生産性の向上よりも耕地面積の拡大を指向した農業発展と、木材を大量に消費する需要者(建築業、海軍、要塞建設、ガラス製造業、なかでも飛躍的に発展しつつあった製鉄業)の存在があった。

このような動向に対して、フランソワ一世やアンリ二世など、狩猟をこよなく愛したフランスの国王たちは、森林の保護を指示する王令を次々に発布し、違反者に厳罰を課すとともに、森林を管理する組織の効率化を推し進めた。p73

 

十九世紀の初めには、イギリスに派遣されたナヴィエによりマカダム工法が導入され、道路の舗装技術が更に改善された。それ以降、道路わきには排水溝が設けられるようになる。p86

(日本の銀の馬車道の工法と同じだと思います)

 

十六世紀から人口増加に対応するため、実を食べるために古くから栽培されてきた栗が、大勢の農民に安定した食料を保証する「恵みの木」となった。

ライ麦に比べて三倍ものカロリーを提供した。p90

 

新しい造園術をもたらしたイギリス人たちは、実のところ、1720年頃からキリスト教の宣教師たちが伝えた中国式の造園術を単に再現しただけだった。p106