アルザス欧州自治体(CeA)議会選挙の争点

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アルザス欧州自治体(CeA)の議会選挙ポスター

フランス3アルザスによる、アルザス欧州自治体(CEA)選挙に関する討論番組から見た争点を、簡単にまとめておきます。

参加者はアルザス欧州自治体前議長と、緑の党社会党、国民連合、アルザス自治党からの代表者です。

 

アルザスはグランテスト州(地域圏)から脱退すべきか?
(まずこれが最初に来るのですね。やはりグランテスト州及びアルザスの行政単位は流動的といえそうです)

 

アルザス欧州自治体の県庁所在地はどこにすべきか?単一の場所にすべきか?
(ストラスブールに集中すべきか、コルマールにも何らかの形で分散させるか、という問題だそうです)

 

・政府によりアルザス欧州自治体に「国境を超えた政策」「二言語併用」「観光」「道路網」などの権限が移譲されたが、他に求める権限はあるか?

 

・運輸、道路、そして環境税は?
(アルザスは元々右派が強いそうですが、最近のストラスブール市長・市議選での緑の党の躍進が気になっています)

 

コンピエーニュ城庭園のわかりにくい各部名称

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コンピエーニュ城の2月の庭園

コンピエーニュ城から振り返ると、2月の城の庭園が広がります。
シーズンオフということでか、彫像には覆いが被せられています。

 

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コンピエーニュ城庭園の地図

庭園の地図と写真を見比べてみます。 
3のGrande pelouseは大芝生、芝地という意味です。緑の芝生が広がっています。 
その手前、土の部分はRampeと書かれています。
意味は手すり、欄干、傾斜路、脚光、フットライトなどとなっていました。
またバイパス等で見かける○○ランプという意味も含んでいます。
ここでは傾斜路という意味が一番適しているような気がしますが、実際に傾斜があるのかはよくわかりません。
木々や彫像がある5の場所はCuls de lampe de la rampeと書かれています。
Lの方のランプは照明のランプです。直訳すると「傾斜路のランプの尻」となってしまいます。

culs de lampeの意味を調べると、まず建築用語で持ち送り、というそうです。
それだけではよくわかりません。
更に調べてみると
「アーチ型の天井(ヴォールト)を支えるための柱を押さえるための彫刻を施した石」や

 

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cul de lampe その1

「詩や章の最後に入れる飾り模様」という意味もありました。

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cul de lampe その2

どちらも教会のランプを支える台の形からつけられた名称のようです。
で、このコンピエーニュ城の庭園のこの場所とどう関連付けているのかということですが、
地図をじっと見てみると
7のquinconce(5の目形の植え込み)か、庭園自体を支えているような場所だからか、のようですが、確証は持てません。
謎は深まるばかりです。

 

庭園から見たコンピエーニュ城のファサード

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庭園から見たコンピエーニュ城

 

庭園の側からコンピエーニュ城を真正面から見つめます。
二階建ての宮殿が横に広がっています。
中央には、装飾のない破風を、4本のイオニア式の柱で支えるような構造を見せており、威厳を保っています。
前回の城の構造図を参照してみると、中央の出っ張った場所の部屋はAppartement de l'Empereur et du Roi、皇帝と王の間、と呼ばれています。ナポレオン1世そして3世のことでしょうか?
その向かって右側はAppartement de l'Impératrice、皇后の間、となっています。
向かって左側はAile de la Reine、王妃翼、と呼ばれる建築部分ですが、内部の間の名称は、Appartement du Roi de Rome、ローマ王の間、と言われています。
ローマ王、というのがよくわからず、最初はローマ法王のことかなと思ったのですが、辞書で確認すると、ナポレオン1世の息子、ナポレオン2世を指すそうです。
こんな些細なことでも、ブログを書くことを通して発見でき嬉しくなりました。

 

コンピエーニュ城の正面入り口

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コンピエーニュ城の正面入り口

 

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コンピエーニュ城の構造

 

コンピエーニュの城というか、城館というか、宮殿というか、の前にやってきました。
画像は正面の入り口になりますが、車が多いのが残念です。
グーグルマップの航空写真で見ると、現在は城の真ん前にはほとんど駐車していないようです。やはり美観の問題でしょうか?
この城は図のとおり、直角三角形のユニークな構造にやっています。
画像の正面もそれなりに立派です。その辺りはcour d'honneur「名誉の中庭」くらいの意味でしょうか、と呼ばれる場所になっています。
しかし一番素晴らしい辺は庭園に面したファサードでしょうね。
この建物の内部は豪華な室内装飾を施された部屋や美術館になっていますが、撮影禁止だったかで、全然写真には残してませんでした。

 

コンピエーニュの市庁舎

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コンピエーニュの市庁舎とジャンヌダルクの像 矢印はピカンタン

 

「古の写真で巡るフランス」シリーズ、今回からはコンピエーニュを取り上げます。
まずはコンピエーニュ市庁舎から。
約15年前、この画像で記事書いた時は主に市庁舎に対峙しているジャンヌダルクについて書いたので、今回は市庁舎そのものについて書きます。
コンピエーニュ市及びコンピエーニュ地域都市圏(AGGLOMÉRATION DE LA RÉGION DE COMPIÈGNE)のHPの市庁舎の記事から引用します。

コンピエーニュ市庁舎
コンピエーニュの市庁舎には、市庁舎、観光案内所、およびコンピエーニュ地域都市圏が入っています。威厳のある建物は、16世紀の最初の数十年のフランボワイヤン様式による丁寧な建築と19世紀の大規模な修復の模範として残されています。

Hôtel de ville de Compiègne
L'Hôtel de ville de Compiègne abrite la mairie, l'office de tourisme et l'agglomération de la Région de Compiègne. L'imposant édifice demeure exemplaire de l'architecture civile flamboyante des premières décennies du XVIe siècle et des restaurations poussées du XIXe siècle.

フランボワイヤン様式のゴシック建築
コンピエーニュの市庁舎は、1367年から同じ場所にあります。1153年に町の憲章が承認されたときに、おそらく鐘楼が建てられました。15 世紀に鐘楼は崩壊の危機に瀕したため、新しい市庁舎が1500年から1530 年の間に建てられました。フランボワイヤン様式のゴシック建築で、ルネッサンスの始めに、この建物は、教会の尖塔に匹敵する鐘楼を備えた市民権力の象徴です。

Un style gothique flamboyant
L’Hôtel de ville de Compiègne se trouve au même emplacement depuis 1367. Un beffroi avait sans doute été érigé au moment de l’obtention de la charte de la commune en 1153. Au XVe siècle, le beffroi menace ruine, et un nouvel Hôtel de ville est donc construit de 1500 à 1530. D’un style gothique flamboyant, à l’orée de la Renaissance, l’édifice est le symbole de la puissance bourgeoise avec son beffroi qui se dresse en rival des clochers des églises.

大革命により、外装と内装は優れたものになりました。しかし、現在の優雅さは 19世紀の修復のおかげです。コンピエーニュはその時再び帝国都市となり、ナポレオン3世が頻繁に登場します。市庁舎は、建築家アイマールヴェルディエ、次にオーギュスト・ラフォリエ、そしてピエールフォン城に威厳を与えたウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュックの指揮の下、輝きを取り戻しました。

La Révolution a eu raison des décors extérieurs et intérieurs. Mais l’on doit l’élégance actuelle aux restaurations du XIXe siècle. Compiègne est alors de nouveau une ville impériale, Napoléon III étant fréquemment présent. L’Hôtel de ville regagne alors de sa superbe grâce aux architectes Aymar Verdier, puis Auguste Lafollye, sous la direction d’Eugène Viollet-le-Duc à qui l’on doit la majesté du château de Pierrefonds.

ピカンタン
鐘楼の鐘をハンマーで叩くことによって、彼らは「時を突く」、ピカルディ方言では「ピカンタン」になっています。「時を突く」ことを余儀なくされた3人の象徴的な登場人物は、フランスの3人の敵を表しています: イギリス人 (赤でラングロワと呼ばれる)、ドイツ人 (ランスクネ(ドイツ人傭兵)、緑)、フランドル人 (フランドラン、青) です。

Les Picantins
En frappant les cloches du beffroi avec leurs marteaux ils « piquent le temps », ce qui est devenu, en patois picard, « picantins ». Les 3 personnages emblématiques condamnés à « piquer le temps » représentent les trois ennemis de la France : l’Anglais (nommé Langlois, en rouge), l’Allemand (Lansquenet, en vert) et le Flamand (Flandrin, en bleu).

これらの人物の第5世代は2002年に設置されました。これは1875年に置かれたキャラクターの正確なコピーです。1768年から木製の第3世代の女性は、107 年間この街を観察しましたが、今はヴィヴネル博物館で見ることができます。それらの仕掛けは専門の大時計職人によって維持されており、コンピエーニュ市民によく知られた音を15分おきに鳴らすことができます。

それらの音は1303年に製造された最も古い鐘の1つであるバンクロックに補われます。高さ1.35mで、1319 年にサンジャックの鐘楼に設置され、1517年に新しい鐘楼に戻りました。

La 5e génération de personnages est arrivée en 2002, copie conforme de celle placée en 1875. La 3e génération féminine en bois de 1768, dorénavant visible au Musée Vivenel observa la ville durant 107 ans. Leur mécanisme est entretenu par un horloger spécialisé, il permet de faire retentir tous les quarts d’heure un son bien connu des Compiégnois.

Leur sonnerie est complétée par une des plus anciennes cloches connues : la Bancloque fabriquée en 1303. D’une hauteur d’1,35 m, elle a été placée en 1319 dans le clocher de Saint-Jacques, avant de regagner le nouveau beffroi en 1517.

(画像に矢印をつけたところに三人のピカンタンがいます。イギリス人、ドイツ人、フランドル人と外国人にしている点が興味深いです)

強制的な合併から6年、選挙前のグランテスト地域圏(州)

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グランテスト地域圏(州)の地図
フランスアンフォにアルザスを含むグランテスト地域圏(州)についての記事があったので、そこから一部抜粋します。

 

地域圏の2021: 依然としてアイデンティティーを求めているグラン・テスト地域圏
6年前、シャンパーニュ・アルデンヌ、ロレーヌ、アルザスは領土改革の一環として強制的に結婚し、グラン・テストが誕生しました。批判され、愛されていないこの広大な地域は、600 万人の住民の風景や心にまだ定着していません。
(地域圏改革により、強制的に合併させられたことを意味します)



アルザス欧州自治体(CEA) の創設: グランテストの履物の石?
CEA の創設以来、グランテストはまだ弱体化しています。2021 年 1 月にバランとオーランの県議会が合併して誕生したこの自治体は、アルザス人によって求められました。「 これは明らかに、グランテストの各県の平等な待遇の崩壊であり、おそらく説明する必要があるだろう」とストラスブール政治学者、リチャード・クラインシュマガーは主張します。アルザス欧州自治体、それは特別な権限を持つ県なのですが、アルザス人に与えられたこの譲歩を理解していないロレーヌとシャンパーヌ・アルデンヌの人々にひどく認識されています。 「間違いなく、今後数か月から数年の間に、モーゼルやムルト・エ・モーゼルなどの県が、特定の権限を持つ欧州自治体を責めることになるでしょう」 退任する知事ジャン・ロットナーを苦しめるグランデストの「バルカン化」

 

(「バルカン化」とは不穏な響きですが、確かにアルザス欧州自治体の誕生が、グランテストの不安定化に拍車をかけてしまいました。あとCollectivité européenne d’Alsaceの日本語訳を「アルザスヨーロッパ共同体」としているのを見ましたが、それだとEUの前身ECのヨーロッパ共同体を彷彿とさせ、あくまで県の合併で成り立った自治体という意味が薄れるので、やはりアルザス欧州自治体という訳がベストだと思います)



地域のアイデンティティーは、時間をかけて構築されます。共通の歴史、人々が共有する同じ経験、同じ言語、強いひとつの文化。リチャード・クラインシュマガーにとって「グランテストは、地域のアイデンティティーとは正反対です。それは、非常に異質な領域群の強制結婚です」



さらに、広大な地域の広がりは、人口間の疎外感を増幅させます。「彼らがグラン・テストの他のコミューンに近いと感じるかどうかをレモワまたはトロイアに尋ねますか? いいえ、彼らは明らかにパリとパリ地域に向かっています。ロレーヌの人々は、北のルクセンブルグブルゴーニュ・フランシュ・コンテの方を向いています。そして、アルザス人は、ドイツとスイスに向かっています」とフランソワ・ラヴァルは述べています。
(画像にあるように、それぞれの地域は国境を接しており、超国家EUのもと、それぞれの繋がりがあります。そしてフランス国内に対しても、別々の方向を向いています)

 

2021年の地域圏選挙の第1回投票まで数日、「グランテスティアン」は、その権限が住民にとって不明確であり、最悪の場合完全に反抗するため、大規模な地域圏に無関心です. それにもかかわらず、6 年間存在する自治体は、コミュニケーションのアイデンティティ、すなわちロゴを持つ実体、認識可能で目に見えるブランドを発明し、促進することができました。しかし、心を征服するには不十分です。グランテストは果たして成功するのでしょうか?

マルセイユ旧港そばの魚市場と連絡船

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マルセイユ旧港そばの魚市場
マルセイユの旧港そばの魚市場の別景です。
右端の女性の服がエキゾチックですね。
ご本人にとっては日常の服装なのでしょうが、旅人の立場では思わず目を引いてしまいます。
奥に停泊しているのはイフ島やフリウル諸島への連絡船でしょうか?
今の連絡船は、もう少しオシャレになっているようですが、二十年前のそれらしき船は少し地味に見えます。

 

これで古の写真で巡るフランス、のマルセイユ編を終わります。
マルセイユは観光ではなく、仕事絡みだったので、街中を見る時間は全くありませんでした。
それでも早朝に起きて、ノートルダム・ドゥ・ラ・ガルド寺院まで昇り、写真を撮っていたおかげで、こうして新たな発見をすることが出来ました。
有名なイフ島だけでなく、その回りの島々のこともよくわかり、興味深かったです。
いつか再訪することが出来れば、連絡船に乗って、島々を訪れてみたいものです。