パリの福澤諭吉 謎の肖像写真をたずねて

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パリの福澤諭吉 謎の肖像写真をたずねて
山口昌子 著
2016年11月25日 初版発行
中央公論新社 発行

福澤諭吉の肖像写真の撮影事情を中心に、彼の文久遣欧使節団の一員としてのパリでの日々を詳しく追っています。

文久遣欧使節団はヨーロッパ諸国と締結した「条約」の改正交渉、つまり江戸、大阪の二市の開市と、新潟、兵庫の二港の開港の延期という困難な外交任務を命じられていた。加えて「西洋事情の視察」と「ロシアと樺太境界線を定める」という二つの課題も訓令された。
かくて1613年の支倉常長のローマ行き以来、実に二百五十年ぶりに日本人がヨーロッパを訪問することとなった。

ちょうどヴィクトル・ユゴーの新作「レ・ミゼラブル」発売のニュースと書評が新聞に掲載されたのは、諭吉らがマルセイユに到着する2日前、4月1日だった。
ユゴーは当時から現在に至るまでフランスでは国民的作家として人気があるが、むしろフランス国民に等しく敬愛されているのは「共和主義者ヴィクトル・ユゴー」の方だ。

諭吉が「蒸気車」や「商社」について、こと細かな数字などを挙げたのは開国・日本が将来、「鉄道」の敷設や「株式会社」を造る場合、少しでも参考になればと思ったからだ。
高邁な思想を説くことも結構だが、ヨーロッパ旅行の見聞から目の前に差し迫った西洋化が必要だと痛感した。
この辺の現実主義かつ実利主義的なところが、机上の空論を振り回すことが多い学者らには気に入らないところで、諭吉を軽視する要因にもなっている。

日本の「ミカド」と「大君」の二重権力構造
第一のミカドは神秘的で見ることができないが国民の崇拝の対象で公務は指揮していない。第二の君主は江戸に住んでいる。政治権力を行使

諭吉の写真を撮影したフィリップ=ジャック・ポトー
フランス領時代のムニンで生まれ、結婚当時ムニンはオランダ領となり、死亡当時はベルギー領となっていた。
公的証明書では「職業・従業員」と記されている。身分的には「自然史博物館」の「従業員」だった。
写真家ではなく、従業員として記載されていたのは、植民地生まれ、ベルギー出身という出生問題と関係があるのだろうか?

ポトーの肖像写真の特徴は、真正面と真横の顔を正確無比に撮影した点にある。
しかしなぜか下級武士・諭吉に限っては、例外的に斜めからの肖像写真も撮っている。

諭吉の肖像写真は人類学者のドゥニケールも著書の「地球の人種と民族」で使用している。
他のエリート・サムライとは異なる全身から発する強いオーラに魅せられたからにほかならない。

マドレーヌ寺院の見学を欲した諭吉。
その見学理由は、対岸の真向かいにある国民議会の建物と瓜二つだから
国民議会の見学については、当時帝政時代だったため、外務省が嫌うところだった。