柳田国男と梅棹忠夫 自前の学問を求めて

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柳田国男梅棹忠夫 
自前の学問を求めて
伊藤幹治 著
2011年5月13日 第1刷発行
岩波書店

柳田国男の晩年の九年間、柳田のもと國學院大學大学院で研究生活を送り、国立民族学博物館で14年間、梅棹忠夫と接した著者による、エピソードを交えた柳田・梅棹論です。
表紙のツーショットも強い印象を残していますね(笑)


柳田国男の一国民俗学梅棹忠夫の日本文明論は、「日本とはなにか」という問いに対する答えを追求した日本研究である。
柳田は他者としての世界の諸民族の文化を視野に入れ、この国の民俗文化を手がかりにして「日本とはなにか」という問いに対する答えを求めようとした。
それに対して、
梅棹は他者としての世界の諸文明との関係で日本文明を相対化し、日本文明を手がかりにして「日本とはなにか」という問いに対する答えを追求している。

晩年の柳田国男の言葉のなかで、今でも記憶に残っているのは「母にわかる文章」を書くように助言されたことである。

柳田の「根の国の話」を口述筆記した著者
その後柳田から多額の報酬が郵便書留で送られてきた。そこには、書物でも求めて勉強するようにという趣旨の手紙が添えられていた。早速礼状をしたためたが、その後で再び同額の郵便書留が送られてきた。それを返却するため成城の柳田邸を訪れ、そのことを伝えたところ、柳田さんはたったひとこと、「そうか、受け取っておきたまえ」といわれた。
柳田の三女、堀三千さんの回想記によると「父は、この人には援助したいと思う時には、学問的な何らかの理由をつけて、その人に負担のかからぬ方法で用立てることがあったようである」と述べている。

梅棹の文章は論理的で明晰である。だからわかりやすい。こうした文章が書けるのは、梅棹の資質と努力によると思われるが、若い頃私淑していた生態学者の今西錦司博士から、厳しい文章指導を受けたといわれる。
文章だけでなく、論旨まで直されて、元の文章がほとんどなくなってしまったことがある。

梅棹の論文「ヤク島の生態」が発表されてまもなく、梅棹のもとに柳田から葉書が届いた。それには一度遊びにこいと書かれていた。大変歓待され、お茶だけでなくお菓子も出た。そのことをある知人にいうと、「君はよっぽど評価されたんだな」といわれた。
京都大学の一部の学者の間で、柳田邸でお茶を出されるのは優遇された証と伝えられていたようである。

「還暦記念論文集」の刊行に抵抗してやめてもらった梅棹
還暦祝賀会を「呑気な江戸の町人隠居のやること」と決めつけて、これをきっぱり断った柳田
結局梅棹は還暦記念シンポジウムを行い
柳田は一国民俗学運動の一環として実施された、日本民俗学講習会にあわせて還暦祝賀会を開催した。

哲学者上山春平による「閉じられたナショナリズム」と「開かれたナショナリズム
梅棹の土着主義は開かれたナショナリズム
柳田の一国民俗学に底流する文化的ナショナリズムも開かれたナショナリズム
柳田もまた世界の諸文明の文化を視野に入れて、一国民俗学の延長線上に「世界民俗学」を構想していた。

梅棹の「第二標準語論」
関東語と関西語という二つの標準語をつくる。
同じ国の中にありながら、他の地方による文化的支配をきらうという点で文化的プロヴィンシャリズムである。
柳田の「標準語生成論」
国家権力による標準語の制定を否定し、国民の一人ひとりの自主的な選択を期待して、標準語が自然に生成されるのを待つという考え

柳田国男梅棹忠夫も、欧米の学問をまるごと輸入し、その理論を日本の社会や文化の研究にそのままあてはめるのを忌避した。
ふたりは欧米からの借りものでない「自前の学問」を構築しようとしていた。

柳田国男梅棹忠夫も国際共通語のエスペラントに関心を寄せていた。