巴里籠城日誌(巻の六~)

1871年1月21日
パリ籠城後、市内と仏国諸地方との書簡の往来には、全て例の伝書鳩を使っている。そこで、独軍がこれを妨げようと、パリ城周囲の林の中に多くの鷹や鷲を放す。
1871年1月25日(籠城今日既に130日である)
近代歴史の中で約300万人の住民を閉じ込めて、大国の首府を要塞化し、その周囲を巨大な要塞化された陣地にするという独特の決心が住民にとり、酷くて、非常に残念な状況を生じていることは明らかである。

仏軍の敗戦の事実の痕跡をみだりに記したが、仏兵には五つの失策があったと思った
・人の和がないのに、軍を勝手に動かした
・敵を侮り、その軍人が傲慢になった
・指揮官の選任を誤り、その指示を誤った
・戦争の計画が無く、次いで兵士や武器の準備が不足した
・スパイを使わず、敵の状況を把握できなかった

1871年3月1日
パリ市内に強暴な過激派が多く、前から籠城中時々市内を攪乱し、内乱を起こそうとし、城塀の外に敵が迫ることも無視し、政府の建物を砲撃し、その公務員を殺した。その狂暴さは、既にこの調子で、まして今日、仇敵が眼前で鼓を鳴らし、入場するのをこの愚かな狂人たちが傍観できるわけがない。その実情は、憐れむべきで、また嘆かわしい。
私(著者)が市内を巡回してみると、どの通りも皆店の扉を閉ざし、行動を慎み、市内は非常に静かで物寂しく、私ですらこれを見て、密かに涙を拭った。ましてパリの責任者は、なおさらである。今日市内の有様は、実に長い歴史の中の大恥で、その状態は筆舌に尽くせない。憤りや嘆きは、無駄に長い溜息に沈むだけである。

今日、パリ周囲の全17要塞は、普軍が占領し、加えて、市内の大砲の大多数を取り上げた。今、パリの有様は、まるで手足を縛られ、大きな鋭い剣を胸元に突きつけられた赤ん坊のようだ。叫ぶことも動くこともできない。その状況も、また、言うに忍びない。

(以前、百年戦争の時代のパリの様子を述べた本を読んだが、それにも劣らないパリの混乱さだった。特に食糧問題はどの時代にも切実な事であった。パリの歴史の地層において、このような混乱時の経験が、よりパリという都市を強靭なものにしてきたのかもしれない)