海に漂う歌ごころ 兵庫の万葉紀行

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海に漂う歌ごころ 兵庫の万葉紀行
竹内茂 文
北村泰生 カメラ
1977年11月25日 第1刷
TOWN編集室

万葉集には、当時の飾磨海岸を詠んだ歌が三首ある。

風吹けば 浪か立たむと さもらひに 都太の細江に 浦隠り居り

飾磨江は 漕ぎ過ぎぬらし 天伝ふ 日笠の浦に 波立てり見ゆ

わたつみの 海に出でたる 飾磨川 絶えむ日にこそ 我が恋止まめ

これらの歌に詠まれた都太の細江、飾磨川、飾磨江は現在、その姿を地上から消し去っている。
古代の広大な飾磨郡を流れたのが飾磨川である。この川については窪田空穂や土屋文明といった有数の学者がほとんど船場川をあてているが、橋本政次氏は飾磨川は風土記の大川で砥堀から姫山に流れ、今の三左衛門堀を過ぎ野田に出て海に注いだという。
飾磨川はとうとうと流れていたのであろう。その白い波頭はたぎる恋心を託すにふさわしい。飾磨江は当時の航行にあって、明石に次ぐ一つの道標であったかのような気がする。


万葉時代の家島は、当然航海の要所として知られただろう。真浦の郷土史家中上実氏は家島を海の山陽本線の拠点という表現をさかんに使われていたが、地勢から考えて的を得た表現だと思う。
天平7年(735年)、尖鋭化した対新羅関係を打開するため遣新羅使たちが海を渡った。往路で家島を見て詠む

朝なぎに 舟出をせむと 舟人も 水手に声呼び にほ島の なづさひ行けば 家島は 雲居に見えぬ 我が思へる 心和ぐやと・・・

家島の「家」が故郷を思わせるものだった。
この時の遣新羅使の成果はほとんど上がらず、多くの死者も出した悲惨なものだった。
だが家島にたどり着いて、帰路唯一の歌五首が詠まれた。その内の三首

家島は名にこそありけれ 海原を 我が恋ひ来つる 妹もあらなくに

草枕 旅に久しく あらめやと 妹に言ひしを 年の経ぬらく

我妹子を 行きてはや見む 淡路島 雲居に見えぬ 家付くらしも

家島は港だけでなく旅人に勇気づける役割を果たしている。当時の航海が命がけであるものを考えれば、家島に無事に到着することが彼らの目的の一つであったかもしれない。


朝臣金村の野生的な野島の海女を恋う歌

玉藻刈る 海人娘子ども 見に行かむ 舟梶もがも 波高くとも

これは、あたかも異国情緒豊かな女性を憧れる気持ちに似ている。現代風に言えば東南アジアやヨーロッパの女性を夢見る若者の胸のうちと言うべきものかもしれない。